人権って?
内田樹先生がツイッターに今日は大阪のある府立高校に講演会に行くと書かれていた。
僕の母校だ。「人権」をテーマにお話をされるそうだ。
おおそうだ、思い出した。母校には40年以上前にも「人権学習討論」という伝統的イベントが毎年あった。
母校は、全校のクラスごとに生徒達自身で人権を元にテーマを選んで討論会をするという、真面目な学校だったのだ。
選ばれるテーマは障がい者問題であったり、民族問題であったりと、今なら無造作に触るのが難しいデリケートな事柄だが、当時は中心となって会を準備する真面目な生徒の人材が豊富だったので(今もそうだろうか。昔以上であることを願う)、そのようなハードコアなイベントも成り立っていたのだ。実際の討論はしかし非常に穏やか且つ冷静なもので、たまに吐き捨てるように「そんなもん、きれいごとや」と冷めた意見がでることもあったが、それもひとつの意見としてそれに対する反論があり、議論は進んでいく、なかなか有意義な時間だったと記憶している。
現在それがどういう形になっているのか、外部の講師の話を聴くだけなのか、生徒同士の討論会はあるのか、母校には卒業以来縁がないので定かではないが、今も人権についての学習の時間が残っているのはいいことだ。
しかも内田樹先生だ。さすが我が母校。ぜいたくな人権学習だなあ、と思う。
とはいえ残念ながら今も昔も、こども一般おそらく大人も、普段の生活において、人権についてはあまり興味ないというか、むしろ他人の人権には無関心なものではないだろうか(自分の権利にはみなうるさいが)。
僕も大人だが偉そうに言えない側の人間だ。
けれども、高校時代にそういう人権学習の時間、しかも自分達で資料を集めたりして準備をして取り組んだという経験は今も残っているし、そのおかげで、人間の世界には人権がある、そしてそれが全ての基本に実はある、ということは理解しているつもりだ。
人権はいろんなところで持ち出される概念だが、身近なところではテレビドラマや漫画などの表現の問題。
昔は許されていた表現が、今では誰をも傷つけないようにと配慮をする。そしてそこに賛否両論もある。
またネット上のちょっとしたつぶやきが炎上することもある。
そういうのは息苦しいという人もいるが、僕としては、わざわざ人を傷つけることを大声で言う必要はないと思う。行き過ぎた炎上はどうかと思うが、正当な批判はしかるべしだと思う。
とにかく確かに言えることは、人間というのは人権の問題においては「学習」しないと無知のままであるということだ。
というのも人権というのは、人間が作った「概念」だからだ。言葉を持たない動物は権利を主張しない。犬権も虎権もない。代わりに「なわばり」を守る。人間にもなわばりがあるが、それはどこか暴力の匂いがすることばだ。
暴力を強化して争うより、学習して人権を認め合うほうがいいと思うのだが、昔の件の同級生のようにそれはいまもきれいごとなのだろうか。暴力が好きな人も確かにたくさんいるのが現実だ。
しかし僕が子供の頃は、まだきれいごとが常識だったように思う。
内田先生がよく本に書かれているが、常識というのは建前や表向きのことだから、おとなは一応きれいごとを子供に教えていた。学校も政治も表向きはきれいごとで成り立っている。だから汚職があると厳しく罰せられた。
この頃は、政治家までがどうせ人間は汚いものだという考えを隠さなくなってきた。おかしなことをやってもしらを切り通すようになってしまった。
人権というのは人間という「種」全体に通用させたい概念で、それは暴力をよくないと思う人達が、言葉を尽くし表現を尽くして維持している文化なのだ。そのおかげで多くの人が安心して暮らしていける必須アイテムなのだ。
なので現在の母校のみなさんも子供の頃からしっかり学習して、ただの「きれいごと」だという稚拙な認識からはやいこと脱却して一人前の大人になって欲しいです、と切に願う、老いたOBのひとりごとでした。
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