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『ジャスティス』(1979)アウト・オブ・オーダーと言われたら

アル・パシーノからアル・パチーノへ


アル・パチーノがまだアル・パシーノだった時代、無論、その時からすでにパチーノは名優であった。というわけで、今回は弁護士パチーノが、法制度と権力の在り方に対して怒髪天を衝くことでお馴染み、『ジャスティス』(1979)を紹介していきたい。
マイケル・コルレオーネの美青年としての面影と静かな狂気、トミー・モンタナのギラギラの狂気の間に位置する本作でパチーノが見せるのは、その二つを繋ぐ、苦悩と哀しみを持って法と権力の理不尽にブチ切れる、熱き弁護士の姿だ。

当時の日本版ポスター。「なぜ、どうして 正義漢じゃいけないんだ! 」の惹句が素晴らしい
「アル・パシーノ主演」という言葉、「ジャスティス」のフォントの味わい深さも良い

1979年と言えば、パチーノ39歳、既に『ゴットファーザー』『ゴッドファーザー part2(1974)』で金字塔を打ち立て、『セルピコ』『狼たちの午後』(1975)等々にも出演したものの、1983年『スカーフェイス』まで、上記にあるような後世に語り継がれるような名作には出演していない時期……と思われるかもしれないが、本作『ジャスティス』はそれらに勝るとも劣らない傑作だと思う。
本作の原題は『And Justice for All 』。これはメタリカもアルバムタイトルにするほどアメリカでは有名な、子供の時分から学校で言わされる「忠誠の誓い」の最後の文言である。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います)

本作の冒頭に、この文言が子供のナレーションと共に響き渡り、映像は無人の裁判所が映される。この冒頭からして皮肉に受け取ってしまうが、物語が進むにつれてますます空虚さを増していく。もはや司法制度は機能しておらず、権力の腐敗は進み、万人のための正義などはありはしない。そんな中、一介の弁護士であるパチーノが、自分の中にある『正義』を果たそうと、駆けずり回り、苦悩し、そしてキレる。もちろんキレる場面はこの映画の白眉であることは論を俟たないが、しかしそこまでの積み上げが素晴らしい映画でもある。

ストーリー概略

弁護士であるアーサー(アル・パチーノ)は、必要とあらば判事にも食って掛かり、留置場にぶち込まれるほどの仕事中毒かつ熱血漢である。それは育ての親である祖父のサム(リー・ストラスバーグ)の、正直な良い弁護士になれとの教えを忠実に守ってきたからでもある。現在、サムは施設でアーサーが弁護士になったことすら判然としないほど、記憶が曖昧になってきてはいたが、良好な関係を築けていた。

弁護する依頼人達は、弁護士の指示を聞かず汚い言葉を吐き、態度は悪く、なんなら証拠品である宝くじを食べるような輩もいるが、しかしそこに関しては腐らず、相棒の弁護士ジェイ、同僚である弁護士フレネルなどと共に、今日も今日とてよれよれのスーツと髭もそらずに、仕事に追われていた。

現在、アーサーが頭を悩ましているのは、車の尾灯が壊れていた、というだけで同姓同名の犯罪者と間違われ投獄、その後看守の襲撃事件の濡れ衣を着せられたマッカラーの事件である。アーサーがマッカラーが無実であるという証拠を提出したフレミング判事(ジョン・フォーサイス)は、提出が3日遅かった、というだけで証拠を無視し、マッカラーに5年の実刑判決を言い渡した。アーサーは思わず判事を殴り、法廷侮辱罪で留置場にぶち込まれ、裁判調査委員会にも出席。

その委員会でもこんなものは茶番だと非協力的な態度を見せるアーサーだったが、出席していた委員のゲイル(クリスティーン・ラーティ)を食事に誘い、恋仲に発展。仕事に対するスタンスはお互い真逆だったが、関係は良好だ。

そんな中、黒人でゲイのアギーがいとこが強盗事件を行うつもりだとは知らずに協力してしまい、逮捕された事件も担当することになったりする中、なんと件のフレミング判事が強姦容疑で起訴され、弁護士に指名したのは、他ならぬアーサーだった。
同僚たちとあまりのことに爆笑するアーサー。もちろん断るつもりが、フレミングからは弁護士資格をはく奪するぞと脅迫され、周囲の人間からも弁護を受けることを勧められ、渋々依頼を受けるアーサー。

アーサー自身による再調査で、フレミング事件の目撃者が見つかり、フレミング判事が無実であると考えたアーサーは、検察と取引を持ち掛けたりと仕事を進める中、弁護した依頼人が出所後子供を二人殺したことで、奇行が目立っていた相棒のジェイが裁判所で暴れ出してしまい、その鎮圧に協力したアーサーは、執行猶予をつけることで判事と話がついていたアギーの法廷に出ることが不可能となり、同僚である弁護士フレネルに証拠の提出と出廷を頼む。
フレネルは快諾するが、肝心の法廷に遅刻してしまったことで判事の不興を買い、アギーは実刑判決を受けてしまう。

その夜、フレネルが車で移動しようとしている際に、アーサーが肩をいからせやってくるやいなや、フレネルの車を力任せに破壊し始める。どういうワケなんだと問うフレネルに、アーサーは実刑判決を受けたアギーが留置場で自殺したことを告げる。謝ることしかできないフレネルを無視し、ひたすら悪態をつき続けるアーサー。

落ち込んでばかりもいられないと、アーサーは未だマッカラーが無実だという証拠を受け取らないフレミング判事を説得しようと試みるも、フレミングはマッカラーが無罪であると分かりながらも証拠を受け取らないのだと答える。妥当な処罰でなく、不当な罰が必要なのだ、社会復帰など夢物語だと驚きの回答をするフレミング判事に、黙って背を向けるアーサー。

それまで何度も早く出してくれと、アーサーに懇願しつつも願いを聞いてもらえなかったマッカラーは、刑務所で性暴力を受けてしまったことを契機に遂に忍耐の限界を迎え、銃を奪い自分の命を人質にたてこもりを敢行してしまう。アーサーの必死の説得も虚しく、マッカラーは周囲を囲んでいた特殊部隊の銃弾によって命を落としてしまう。

フレミングに不審を抱いたアーサーは、同時期にフレミングがコールガールと共にアブノーマルな性行為に興じていた写真を手に入れ、フレミング本人にもう一度無罪かどうか問い質す。すると、フレミングはほくそ笑み、有罪と返す。目撃者に関しては手を回して自分が用意させたと種明かしをするフレミングには、アーサーの弁護士人生を握っている余裕があるのだ。あとは君次第だと写真をフレミングに写真を返されるアーサー。

ゲイルとの口論や、忙しさに追われ、会いに行っていなかったサムの症状が悪化し遂にアーサーを認識できなくなったりする中、フレミング判事の裁判当日となる。傍聴席にいた被害者である女性を見て、魅力的な女だ、また会いたいなどとアーサーに耳打ちするフレミング。

迎えた弁護士の冒頭陳述。陪審員達に向かって、判事を裁くとは何なのか、正義とは何なのか、と語りかけるアーサー。一体何の話をしているのか判然としなくなり、検察側が異議を、裁判長が痺れを切らし始めた時、アーサーは吠える。「……検察側の皆さん、検察側は本件を有罪にできない。絶対に!私が有罪にするからだ!わが依頼人ヘンリー・T・フレミングは直ちにムショ入りだ!あのクソ野郎は有罪だ!」

静止する裁判長にアウトオブオーダー(退廷)だと言われても、てめぇがアウト・オブ・オーダーだとブチ切れ、無理やり退廷させられるアーサー。
裁判所から出たアーサーの耳にフレミングは2年から10年の判決らしいと噂話が入る中、素知らぬ顔で相棒のジェフが裁判所にやってくる様を見て、アーサーは何とも言えない表情をするのだった。

沈痛なエピソードの数々を包み込む、軽快なユーモア

お話だけを切り取れば、積み上げられる数々のエピソードは、全てが重苦しい悲劇を持って終わる。無論、フレミング判事という稀代のクソには実刑判決を言い渡されるであろうことが示唆されるが、それでも途中のアギーにマッカラーといった、アーサーが弁護士として動く事件の依頼人たちは、非常に軽微な犯罪との関わりや完全に無実といった人であるにも関わず、2名とも悲痛な死を迎える。そして、相棒のジェフが弁護した人物は出所後すぐに子供を二人殺してしまう、と挟み込まれるお話も容赦がない。
もちろん、これは全て、現代の法制度、ひいては人が人を裁く、ということがいかに危うく、そして間違いが現在横行しているかを詳らかする、という作り手の意図である。そこで憤り、時に怒りに我を忘れるアーサーの姿は、だからこそ観客の胸に響くのは間違いない。

しかし、映画全体のトーンは、提示されるエピソードと比較して驚くほど軽やかでユーモラスな印象を受ける。これは、音楽と演者の力によるところが大きい。
メインテーマである「Something Funny Goin’ On」を始め、朝の目覚めにもしっくりくるような明るい音楽が(歌詞は映画をそのまま体現したような内容でありながら)多くの劇伴で使用され、キャラクターも銃を常に携帯しているような判事に、突然頭を剃ってくる相棒、証拠品である宝くじを食べる被告人……と中々にどうかしているコメディリリーフも多く、口論した後に気の利いたジョークや、思わず笑ってしまうような気の抜けた発言などが多用されるセリフなど、それを可笑しく、しかし安っぽくは見せない演者たちの力量を計算に入れたうえで、とにかく映画全体が軽快な調子で進むようにという作り手の配慮が見える。
特に、アーサーの精神的支柱となっているサムを演じるリー・ストラスバーグは、『ゴットファーザー part2』ではあれほど食えない危険なハイマン・ロスという人物を演じていた、とは思えないほどの好々爺ぶりを見せる。このちょっとした、なんでもないような施設でのパチーノとのやり取りを始め、弁護士としての価値観の違いで対立しつつ恋仲としても発展を見せ、こうして(対立し)摩擦がある内は安心だ、というグッとくる結論に至る、ゲイルことクリスティーン・ラーティとの関係も、見事なものだ。

前述したように、ラストのアーサー=パチーノの冒頭陳述は間違いなくこの映画の白眉だ。そうはならない、と観客は感じつつも、しかしひょっとして……アーサーは権力に屈してしまうのでは?と薄っすらと感じさせることでサスペンス要素を盛り込み、ひたすら話の本題に入らず外周ばかりを回るような形で進む、冒頭陳述という名の演説は、しかしそこでこの映画の核心を語る。
万人の正義、まさにそこが問題で検察と弁護人、双方に真実があり、勝ちたい。そのため真実は歪められ、万人の正義は為しえないと、それはこれまでの悲劇に対して、真っ向から立ち向かいボロボロになった姿のパチーノだからこそ響く。うっすらとパチーノの目から零れる涙に、こちらも目頭が熱くなってしまう。

そしてまさかの、ヤツを裁くのは、俺だ!発言。そこまで言うのか…と驚きもありつつ、まさに快哉を叫びたくなる瞬間である。その後続いて、裁判長にてめぇがアウト・オブ・オーダーだ!と叫ぶ場面は、映画史に残る!決めるのは俺だ!と言いたくなる名場面である。

これで間違いなくアーサーは弁護士資格をはく奪されるだろうが、それでも自分の保身よりも、悩みながら、冷笑にも諦観にも流されず、弁護士としての矜持、人間としての善性を取ったこのラストは、時代を超えて、いついかなる時も見返していきたい普遍的なものになったと思う。

繰り返すが、このラストの冒頭陳述が光るのは、それまでの深く観客の心を揺さぶりつつも、軽快な調子で腐らず、ユーモアを持ちながら仕事をする面々の積み重ねがあってこそである。また、それをこれみよがしに強調せず、ソリッドな印象さえもたらす、このバランスが素晴らしい。

強いて苦言を挙げれば、70年代の映画ということもあり、アギーの人物描写や扱いに関しては今見ると辛いものがある、ということはある。

それでも何か厭なことや煮詰まったことがあった時に定期的に見返していきたい、アル・パチーノがアル・パシーノと呼ばれていた頃の傑作だ。


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