映画五里霧中 信頼と困惑のSHINJIDAI!『クリード3 過去の逆襲』※ネタバレあり
お前は過ちじゃないが、お前が犯した過ちについてはどうだ?――『クリード3 過去の逆襲』は、つまる所大体そんな映画だった。そしてSHINJIDAIだった。そんな自身が立てた問いに対して、主演にして本作映画初監督のMBJことマイケル・B・ジョーダンは、きっちり同じ作品内で答えを出している。謝ろう!ごめん!――この衒いのない感じの良さが、なんともグッとくる映画だった。そしておまけ映像でその余韻が全て消え、困惑だけが残った。ありがとうございます。
2015年「クリード チャンプを継ぐ男」が公開されて早8年(!)。ロッキーシリーズの続編として製作されたクリードシリーズも遂に今作で3作目となった。シリーズ発起人であるライアン・クーグラーも2作目から監督では無くなり、今作から、なんとシリーズの間違いなく二枚看板であったロッキーことシルベスター・スタローンもプロデューサーのアーウィン・ウィンクラーとの衝突などにより離脱。
そんな中、いよいよ一人となったMBJが自身初のメガホンを取り打ち出した本作だが、前評判の高さや、スタローンの不在、日本のアニメ好きであるMBJがNARUTOをそのままやったというパワーのありすぎる発言などで不安と期待が高まっていた。しかし走って初日初回に駆けつけてみれば、意外と手堅い作りで、熱く、そして爽快な気分になれた一作だった。本編は!
最初に不満点を並べてみると、やはり致し方ない部分にしてもあまりにも不自然すぎるロッキーの不在、ダチは見捨てないスタローン精神を垣間見ることができる前作「クリード 炎の宿敵」のヴィクター・ドラゴの再登場は嬉しいが、しかしあまりにも背景かつ都合が良すぎる存在となっている点(手を骨折させられて文句の一つも言わずトレーニングを手伝うのは流石におかしいと思う)、シリーズの良くないと思う伝統である虎の目を取り戻す転機として大切な人間が割と雑に死んでいくとこを継承してしまったこと(メアリー・アンことフィリシア・ラシャドは名演でした)等々がある。特に、ロッキーの不在に対して、何もフォローが無いのは不自然だと思った。せめて電話の一本でもあれば……と思ってしまう。
しかし、そんな不満を補って余りある魅力が本作にはあった。フィラデルフィア=ロッキーの物語からLA=アドニスの話にしようとした点、『ケープフィアー』のデ・ニーロとNARUTOのサスケを完璧に両立させたジョナサン・メジャースの圧倒的な演技力、精神と時の部屋ボクシングバトルを始め、アニメ的なボクシング試合の演出、等々MBJが力と狙いを入れて撮っている、という箇所は伝わってくるし、そこはいずれも熱い。画的に痺れたのはデイムがタイトル戦の挑戦者となった控室での、壁一枚隔てたアドニスとデイムの場面で、この衒いなくキメ画を持ってくる姿勢は痺れた。MBJ、監督もガンガンやって欲しい。
そんなMBJの本領が一番発揮されているのは、やはりアドニスとデイムの試合……ではなく、最後の試合の後の控室の二人の会話だ。それまでお互いに気まずいが友達だし、しかし蟠りはあるし……という絶妙な煮え切らなさを、デイムが完全にアドニスを出し抜いた後も残っている感じが出ていたことが、個人的にはこの映画の最大のフックとなっていたが、その二人が全てを出し切り、お互いに謝る。そしてアドニスは言う。「またいつでも家に来てくれ」――この風通しの良さはどうだ。本作で負け犬の物語はいつだって流行る!とか言っていた時は正直舌打ちをしていたが、師匠同士がついに弟子の代まで殺し合いを持ち込んできたことを思えば、年月を経て良くなることもある……となんとも爽快な気分でエンドロールを眺めていた。
その後、その余韻は全て瓦解した。MBJの完全な好意で、アニメ『メガロボクス』のクリエイター陣とMBJの強力タッグが放つSF超大作(?)『クリード SHINJIDAI』の予告編が始まった。始まってしまった。これは日本限定だそうです。ありがとう!MBJ!
真面目に言えば、そのアニメのクオリティは間違いなく高水準だとは感じたが、クオリティがどうのということはこの際全く関係が無い。ボクシングの映画を見に来て、その終わりに西暦21ウン十年がどうの、ルーツがどうのということが眼前で繰り広げられれば真顔にもなります。しかも微妙にクリードなのがまた味わい深い。全く興味のないことを延々早口で喋り続ける人間の近くにずっといなければならない……そんな気まずさをその映像をみてる中ずっと感じていた。途中でこの状況が可笑しくて笑いました。
そう思ったのは自分だけではないようで、初日初回に来ていた観客の中で、しっかりSHINJIDAIを二分くらい見て、そのまま帰っていかれた方がいらっしゃったが、気持ちはめっちゃわかりました。
このSHINJIDAIにMBJの狂気が全て集約されていたと言っても差支えはあるかもしれないが、ありません。とにかく困惑だけが残り、劇場を後にした。
家に帰る最中、ヤクザの用心棒崩れだったフィラデルフィアのボクサーが、巡り巡ってソ連の真ん中で「誰でも変われるはずだ!」と説教をするところまでいったシリーズの続編として、SFアニメになるというのは、ある意味整合性があるのではないか……ということを2秒くらい考え、やめた。MBJさんには最後まで付き合います。
最後に一つ、クリード一作目で本当に何度見ても泣いてしまう場面として、アドニスが「俺は過ちじゃない」と心情を吐露する場面があるが、あれは本当に素晴らしい一言で、アドニス・クリードという人間のそれまでの思いが集約されていたように思うが、その言葉をアニメのクリードの血統らしき人々が決め台詞のように使っていました。
それはダメだと思います。MBJさん。以上、よろしくお願いします。
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