春の寂しさ、アマリア・ロドリゲス

エドワード・ホッパーの絵のような寂しさを、心に置いておくことをゆるします。 

プリマヴェーラ。


春はよろこびの季節だ。かたくしていた蕾もからだもほどけ、深呼吸ができる季節。白んだもやの中、若い緑と桃色の空気を吸い込む朝、宵。


なにかが解決されるのだろうか。

ゆるさないといけないのだろうか。

春であることを祝わないといけないのだろうか。

私の心と身体はさて置いても。


去年の3月、ある小説家が私が住む街にやって来た。京都の自宅から持ってきた蓄音機(その名もコロちゃん)で聞かせてくれたレコードの中に、ポルトガルのディーヴァ、アマリア・ロドリゲスの「プリマヴェーラ」という曲があった。

「春、しんどいわぁって言うてる曲です」

そう言って針を落としたレコードからは、まず盤が身を削るちりちりとした音、そのあとに弦の束の旋律が立ち上る。

そして震えながらも堂々と伸びる女性の声が、異国の言葉の響きを伴って、ぽう、ぽう、と薄暗い室内に灯っていった。


それは本当に不思議な感覚だった。

ヨーロッパに行ったこともなく、ましてやポルトガル語とイタリア語の区別すらもつかないわたしにさえ、その曲が運ぶ風景、気温、気だるさが、身にしみて「わかった」。

文字通り、やせた土に水が染み込むように入ってきたのだった。


そこにはまず寂しさがあった。

気候の重み、湿り気、それからいくつかの心配事。

目には見えなくても確実に「在る」それらを置いておいて、

のびやかなよろこびの歌を歌うことへの抵抗感があった。


彼女がどんな思いでこの曲を歌い上げたのかはわからないが、私の心の硬くなっていた部分を、この曲はぶんぶんと震わせたのだった。

明るいだけではない、春の風景。

木の芽時、という日本語があるように、気候の不安定さも大いに関わっているのだろうが、私は毎年春には心身ともにしんどくなってしまう。

そして、不思議なことに、決して快いものではないこの心持ちを、手放してはならないという確信もあるのだ。


この気持ちが導かれる先に、何かがあるような気がしてならない。

夏が終わり涼しくなって、冬さえもまだ来ていないのに私は今、やがてくる春にすこし怯えている。


何かわかる人がいたら、教えてください。

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