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【読書記録】奥村隆『他者といる技法』、第6章「理解の過少・理解の過剰ーー他者といる技法のために」を読む。

全体要約

同章では、われわれが日頃よく用いている「他者理解」が論じられている。ここでの「他者理解」とは、自分とは異なる人の行動がどのような動機に基づいているのかを把握することである。著者は、この「他者理解」を論じる際に、現象学的社会学を提唱したアルフレッド・シュッツの「理解」概念を参照する。このときのシュッツの関心は「日常生活」における「他者理解」であり、それはつまり弛緩した精神における「他者理解」である。このシュッツの「他者理解」に特徴的なのは、その論点が「自分は相手の本当のこころを捉えているか」ではなく、「相手も自分と同じ認識や慣習を持っており、それに従って行動していると見込めるか」という点にあることだ。ここに論点を移すことで、人々のあいだの「間主観性」が、「見込め合えること」の自明性によって成り立っていることを暴いたのである。

著者は、シュッツの「他者理解」概念を元にして議論を展開する。その際、著者が注目するのは、シュッツの「他者理解」には、「原理的な他者理解不可能性」「経験的な他者理解可能性」の両方が含まれていることだ。つまり、「他者理解」は、原理的にいえば、他者のこころを直接に捉えたものではないため、常に疑わしいものだが、経験的には、相手も自分と同じ慣習や目的に従っていると見込めるため、その「他者理解」は何ら問題なく成り立つわけである。ただ世界は、つねに同質と異質のあいだにあり、そうした中において、相手は同じ慣習に従っていると見込めるかもしれないし、見込めないかもしれないわけだ。そのため「他者理解」には、つねに理解が成り立つ「希望」と成り立たない「怖れ」の両面があることになる。(ただシュッツは、その「怖れ」を最小化する方向に社会が動くとする。つまり社会は、その中の同質性を高める方へ向かうとする。)

また「他者理解」には、「理解の過少」と「理解の過剰」という問題があるという。何に対して「過少」と「過剰」であるかというと、一緒に行動する上で問題がでない程度に対してである。もしも、そうした「適切な理解」より過少な状態、身近な例で言えば、目的や価値観が微妙に異なることであり、その場合は互いの行為がすれ違うことだろう。また過少である極端な例として、理解に至る前に暴力を行使されたり、あるいはステレオタイプを持ち出されて理解されたりした場合、強い苦痛を感じるのではないだろうか。その際、人は「暴力ではなく理解を!」または「雑な理解ではなく、より繊細な理解を!」と望むことだろう。だが、理解は多ければいいというわけではない。一緒に行動する上で問題がでない程度以上に、他人が自分のことを理解しようとしたとき、自分が相手に対して自由でいられる範囲はどんどん狭くなっていくだろう。ここにも実は苦しみがあるわけだ。つまり、「「理解」とは、「わかられたい」水準まで「わかってくれない」苦しみと同様に、その水準以上に「わかられすぎる」苦しみをも生むものである」のだ。

ただわれわれは、どこか「理解の過剰」に対して鈍感で、それゆえに「理解」という技法が万能なものだと錯覚してしまう。例えば、見知らぬ他者と遭遇し、その相手と自分との差分を「理解」によって埋めようとしても、その差分=「わからなさ」が大きすぎるときがあるだろう。ただそれでも「理解しあう」ことに舵を切ってしまうと、最終的に「理解」の努力に疲れたり、しまいには暴力やステレオタイプに行き着いてしまうことだろう。そもそも「理解」とは、人と人の「同じさ」に有効な手段なのであって、人と人との「違い」については管轄外なのである。そのため「理解」以外の技法を持っていないと、その「違い」を抹消するような暴力やステレオタイプを使うことに帰着してしまうのだ。そして、これはよくある常識、「わかりあえる」から「一緒にいられる」(言い換えれば「わかりあえない」なら「一緒にいられない」)をただただ反復するだけであろう。これに対して、「わかりあえない」まま「いっしょにいる」ことはありえるのだろうか。

そこで著者が提示するのは、他者のこころを探る時間を「私のなかの瞬時の時間から、私と他者の間にあるより長い時間に引き延ばす」ことである。つまり、相手のことをすでにある自分の理解の範疇に落とし込もうとせず、また理解しようと頭をフル回転させてなるべくはやく決着をつけようとするのでもなく、すなわち、そうした自分の頭でおこわれる思考の時間から、自分と相手の間に流れている時間、つまりただただ私たちと無関係に流れている時間に移行することだ。その時間の流れなら、人と人との「違い」を受け止めてくれる。「私のなかの時間」では耐えきれなかったその「違い」を受け止めてくれるのである(それは人によっては、気まずい時間であろう)。そのとき、私たちは「わかりあわない」状態でも「いっしょにいられる」のだ。そして、その時間を稼げれば、ありえるかもしれない多くの可能性を閉ざされずに済むのである。

第6章「理解の過少・理解の過剰ーー他者といる技法のために」へのコメント

1. はじめに

・「「理解」という技法はどのようなものであるのか。他者と共存する技法、「社会」という場所はどのようにして可能になるのか。」
→第6章で扱われるのは「理解」という技法である。同書はこれまで「思いやり」と「かげぐち」(第1章)、そして「家族(アイデンティティの相互補完システム)」と「ダブル・バインド」(第2章)などを他者といる技法として挙げてきたが、この「理解」も他者とうまく生きるための一つの技法だというのだ。ただ、ここでの「理解」は何を意味しているのだろうか。
→日本語の「理解」で言えば、「内容、意味などがわかること。他人の気持や物事の意味などを受けとること。相手の気持や立場に立って思いやること。了解。」(
日本国語大辞典)と出てくる。(日本語の「理解」だと、「相手の気持や立場に立って思いやること」=「慮る(おもんばかる)」ことも含まれるらしい)
→ここでの「理解」は、英語で言えば"Understanding”であり、ドイツ語だと"Verstehen”だと言えよう(マックス・ウェーバーの「理解社会学」も、この語を使う)。ドイツ語の方の意味を事典で調べると「一般的にはある種の認識の仕方、すなわち対象として与えられたものについて、そこに含まれている内的な意味や本質を把握すること」(日本大百科全書)となる。これはより哲学的な定義であろう。ただ、のちの議論を見るに、こちらの意味で捉える路線を採用していいだろう。(より簡単に言えば、これは「他人の振る舞い、その動機(こころ)を把握すること」と言えるだろう。)

・「ただ、議論を出発させるために、「理解」についてある社会学者がいったことをまず参照しておきたい。すなわち、アルフレッド・シュッツの「理解」についての図式を、その後の考察を進める土台として描こうと思う。」
→今回著者は「理解」についての議論を、ゼロから立ち上げるのではなく、ひとつ土台として既存の理論、20世紀の社会学者アルフレッド・シュッツ(1899-1959)の理論を持ち出す。このシュッツはウィーン出身であり、大学時代マックス・ウェーバー(理解社会学)とフッサール(現象学)の業績に深い関心を抱き、のちに「現象学的社会学」という立場を築く。また途中、ナチスの進行によりアメリカに亡命し、アメリカで銀行員を続けながら(銀行員はもとからやっていた)、研究していた。のちに教授職につくも、就任の3年後に亡くなる。
→著者はそうしたシュッツの理論の中でも「理解」に関する部分を取り出している。ここでの「理解」は、より狭い意味での「理解」、「他者」に関する理解である。シュッツの著作を読めばわかるが、シュッツは「日常生活において、人は他人の行動の動機をどのように理解しているのか」を探究していた。ただこれは、ある目的をもった探究である。その目的とは、人々の行動を合理的に説明する社会科学の認識論的条件を理解するためである(社会科学認識論)。シュッツは、人々の行動に対する科学的な説明は、日常世界における他者理解を基盤にすべきだと主張し、まずはその基盤を探究することにしたのだった。
→ただ著者が参照しているシュッツの著作を直接に読むと、著者の解釈・説明が少々荒いことがわかる。例えば、引っ張ってきていた内容の本来の文脈が、同書で論じている文脈と異なっているにもかかわらず、何事もないかのように表面の整合性だけ取り繕って引用していることがある。またシュッツが慎重を要すると釘を刺しているにも関わらず、ある図式をデフォルメ化して単純化して用いているところも多々見られる。(例えば「われわれ関係」と「彼ら関係」は断続的に変わるものではなく、現実の社会関係はその2つの間にあるところなどを著者は無視している。)
→しかし、あとに「これはシュッツ理論の検討といった性格の文章ではない」と断っているのを考えると、同書を読む際には、このシュッツ理解は、が本来のシュッツなのかにこだわらない方がいいだろう。私が思うに、今回著者がシュッツを持ち出したのは、「原理的な理解不可能性」と「経験的な理解可能性」の話を持ってきたかったからのように思われる。つまり、この議論を追う際に、著者のシュッツ理解が正しいか正しくないかという論点は本質ではなく、著者が何をしたいがために、シュッツを持ち出したのかという点に注目する方が有効だろう。

・「ここには「理解」のもつあるふたつの側面を明確に示す構図が含まれている(2節。だからこれは、シュッツ理論の検討といった性格の文章ではないことを断っておきたい)。」
→第2節では、シュッツの「理解」の図式が紹介されるわけだが、ここで見たいのは「理解」には2つの側面があるということだ。当然、人は何事もなく相手のことを「理解」出来たらいいなと思っていることだろう。ただ「理解」は、そんなに自明に成り立つようなものではない。つまり「理解」は、できるときとできないときがあり、「できたら嬉しい」という「+」の側面と、「出来ないかもしれないという不安」という「−」の側面があるということだ。シュッツの言葉で言えばそれは「希望」と「怖れ」と表現される。これは著者の最初の言葉で言えば「すばらしさ」と「苦しみ」に対応するだろう。同章の2節では、「理解」にはその性質からして常に「怖れ」や「苦しみ」が伴うことを示しているのだ。

・「その後、「理解」という技法について(3・4節)と他者といる技法一般について(5節)、おおまかな議論をしていくことになる。」
→残りの3節(第3・4・5節)は、第2節で紹介されたシュッツの「理解」概念を土台に展開されている。具体的に第3節と第4節は、理解の「過少」と理解の「過剰」について書かれている。内容の先取りになるが、理解は(原理的にいって)常に「過少」であり、その「過少」が問題としてあらわえるものとして「差別」や「暴力」がある。また第4節では、これは思考実験のようではあるが、理解が「過剰」な状態、つまりお互いのことを完全にわかってしまう状況を想定してみせる。だが、その帰結として、その状態がいかに窮屈であるかを説いている。「過少」であることを嘆くも、「過剰」になることも恐れる。「理解」にはそうした2つの側面があることを示している。
→第5節は、これまでの議論を踏まえて「理解」という技法が持つ欠点を指摘し、それでは扱えない部分を扱う別の技法を模索している。それはあまり具体的なものとしては提示されないが、あえていうならば「互いの異質性を留保する」技法とでも言えばいいだろう。


2. 「理解」の構図

・「彼の「社会的世界」ーー他者といる場所ーーの描写は、彼がいう「われわれ関係」、つまり、私とある他者が時間と空間を共有している「対面状況」から始まる。」  
→まずシュッツが「他者といる場所」として設定するのは、「われわれ関係」と呼ばれる状況である。原著を確認すれば、シュッツはまず「日常生活における他者理解」を考える際、その場面としてはじめに提示するのが、他人と時間も空間も共有している場面である(シュッツ, 1976=1991, p. 46) 。これは何か想像上のこと、つまり思考実験的な場面ではなく、具体的に人が他人と物理的に近い位置に居ながら協働作業をしているような場面である。たとえば「性的交渉」や「親密な会話」などが例として挙げられている(ただ「われわれ関係」といっても親密性や直接性には程度の差がある。)
→シュッツは「われわれ関係」が成り立っている事例として、「ある人と私が飛んでいる鳥を隣に座っていっしょに眺めている」とき、「何人かで楽器を弾いたり、合唱する」とき、なども挙げている。ここで一つ重要なのは「同一の出来事」を共有しているということである。前者の例であれば、それは「鳥が飛んでいること」であり、後者の例であれば「奏でられた音楽」である。このとき、そこにいる人たちは、それら出来事に意識が向いており、同一な意識状態と言える。(逆に言えば、同じ出来事に意識が向いている人たちと、「われわれ関係」になるとも言える。但し何度も言うように、ここには程度の差がある。)
→ここでシュッツは「対面状況」と「対面」という言葉を使っているが、これにはどのような意図があるのか。原著を読めばわかるが、これは単に空間を共有していることを意味している。共有という言葉が抽象的であれば、距離が近く、お互いが知覚できる範囲にいるという意味でもいいだろう。なおこのとき、本当に対面している必要はない。つまり真向かいに相手がいて、真正面に顔があり、互いを見つめている必要はないのである。シュッツが「対面状況」というときに念頭に置いているのは、顔の見えない、というより匿名性の高い「同時代者」として関わる人たちとの対比である。つまり、そうした「同時代者」とは逆に、顔の見える、具体性の強い「共在者」として関わる人たちのことを想定したいのである。
→ただ著者(奥村さん)は、匿名性の高い相手を想定するときも「相手と向き合う」という表現を使っており、表現の一貫性が見られない。正直、ここらへんの表現には気を遣ってほしい。読み手が混同する。

・「つまり、私には、その「徴候」(「身体」)を通して「他者の意識生」(「こころ」)が「根源呈示」されることになるのである。」
→この部分はわかりずらいので、著者が参照している場所をより広範囲にとって引用しようと思う。「われわれは先に、私が他者の意識生の生ける指標によって接近することができるのは、対面状況においてであることを確認した。相手が私の前に全身的に立ち現れている以上、私がその相手の意識を把握する際には、彼が私に目的をもって伝達しようとしていることをはるかに広い範囲の徴候(前ぶれ)に依拠することができる。私は、相手の動きや身振りや顔の表情を目にし、また彼の発話の抑揚やリズムを耳にしているのである。私の意識の各位相は相手の意識の各位相と整合的に結びつけられている。私は、相手の絶え間ない意識生の現れを知覚しており、それゆえに私は、その彼の意識生に自分の波長を絶え間なく合わせている。」(シュッツ, 1976=1991, p. 46)
→言わんとしていることは、何となくわかる。つまり相手が自らどうしたいかを表明するまえに、相手の細かな振る舞い(徴候)から、何をしたいのかがわかる。そう、われわれは相手の「徴候=前ぶれ」を察知することができるわけだ。正直、最後の「私は、相手の絶え間ない意識生の現れを知覚しており、それゆえに私は、その彼の意識生に自分の波長を絶え間なく合わせている。」という文は、さすがにそこまではしない、というか、完全にそうはならないように思われるが、ある程度はそうなることはわかる(シュッツはよく原理と程度をごっちゃにする)。例えば、すごい重いものを一緒に運ぶときは、相手のしぐさや、その荷物の重心などにめちゃくちゃ気を配し、意識的になるべく波長を一緒にしようと思っていることだろう。程度の差はあれ、波長を合わせようとしている。

・「しかし、こうした「われわれ関係」は稀である。(中略)多くの場合、私たちは別の人間=「他者」として向きあう関係へと移行する。そのとき、私は他者を「間接呈示」によって「理解」することになる、とシュッツはいう。」
→「われわれ関係は稀である」とあるが、原著を読むと別に稀ではなく、かなり頻繁に生まれるものであるとわかる。一緒に料理を作ったり、一緒にご飯をたべたり、一緒に荷物を運んだりすることも「われわれ関係」であり、そこらへんに「われわれ関係」は転がっている。ただシュッツがいうのは、純粋な「われわれ関係」というのは現実的には成り立たないということである。一緒に荷物を運んだりするときも、相手を匿名的なものとして(男性だから力強いとか)みることもあるわけであり、現実は常に「われわれ関係」と「彼ら関係」の間にあるという。結局、ここにも「程度の差」があるわけだ。
→シュッツは、この協働作業的な「われわれ関係」とは、対極的な社会関係があり、その極を「彼ら関係」と呼んでいる。著者は「別の人間=「他者」として向き合う関係」と言っているが、これは別に物理的に向き合っているわけではなく、相手が個別に持っている動機を直接的に知り得ないような関係、つまり見知らぬ他者として関わる関係のことである。また著者の意図を汲んであげれば「向き合う」というのは、言葉のあやであり、親密ではなく疎遠なものとして相手と「対峙」すること、その疎遠性と「格闘」する、みたいな意味で「向き合う」と使っているのであろう。
→また、ここでの「間接呈示」とは、類型を使ったものであり、その類型には色んなテンプレの行動パターン(理由と目的込み)が備えついており、それを介して、相手の行動の理由や目的などを理解するわけである。

・「こうした他者を前に私たちはこう問う、目の前の身体の動きや言語を仮に私がしたとすれば、それは私にとってなにを「意味」するのか。私のもつ「意味連関」はすでに「根源呈示」でわかっている。「身体」「言語」と「意味」「動機」との対応関係を私自身の例から類推して、私は他者の身体の動きと言語が表す「意味」を「理解」する。」
・「全身で出会われる状況から、ある「類型」(たとえば「郵便配達人」とか「日本人」とか「男」といった)としてしか出会えない状況に移っていくとき、私は、そうした「類型」についての「自己解釈」を「他者理解」にあてはめて類推していくことになる。
→ここでも著者は「他者を前に」と、物理的に近い位置にあることを意図した表現を用いている。ただ、シュッツの人間関係論の本質的なポイントは「直接性/間接性」「親密性/疎遠性」「具体性/匿名性」という分類である。前者の成分が濃いものを「われわれ関係」と言い、後者の成分が濃いものを「彼ら関係」と言っているのである。ただそこに「空間的に近いか否か」という軸が重ねられているのが厄介なのである。たしかに性的交渉をするときと、現代の郵便システムを使って郵便物を送る際の郵便局員との関係は、本質的に異なるように思える。ただ受付で郵便物を直接渡す際に、性的交渉のときのような親密性が発揮されるわけがないのである(もしそうなったら、怖いだろ)。なので「空間的に近い否か」は、この際議論が進む中であまり重要ではなくなっているような気がする。
→この「類型」は、原著の言葉を使えば「すでに構成されている知識の集積、(中略)、相互に網目状に関係し合った、人間としての個人一般に関わる類型化や、人間の類型的な動機づけ、目標、行為パターンが含まれている。」(シュッツ, 1976=1991, p. 54)である。
→「そうした「類型」についての「自己解釈」を「他者理解」にあてはめて類推していくことになる。」という表現を分析しよう。例えば「郵便局員」という類型があったとしよう。ただその類型の内容はX(よくわからないもの)である。それをある人は「郵便物を指定するところへ届けてくれる人(A)」と解釈する。このAが「自己解釈」である。そのAを「他者理解」、つまり「自分の他者(郵便局員らしき人)に対する理解」に当てはめて、他者(郵便局員らしき人)の行動を類推するというわけだ。ここには「他者の行動の動機を」という、「類推する」の目的語が抜けているように思われる。つまり、「そうした「類型」についての「自己解釈」を「他者理解」にあてはめて〔他者の行動の動機を〕類推していくことになる。」正直「類推する」を最後に持ってきてしまうと、語が渋滞するというか、「他者理解」と「他者の行動を類推する」はほぼ同じ意味ではないか。つまり「〜にあてはめる」で終えてもよかったにもかかわらず、重ねて「類推する」を追加していることでややこしくなっているように思う。別の言い方をすれば、私はそれに「語の渋滞」を感じる。また、これによって文における各要素の関係が少し見えづらくなっているとも思う。

・「「他者の心を対象とする認識は原則的にいって常に疑わしく、自己の体験に向けられる内在的認識作用の原則的な明白さとは対照をなしている」」
・「「コミュニケーションが完全に成功裡に行われるということは、達成不可能である。依然として、私の可能な経験を超越している他者の私的生という接近不可能な領帯が残されているのである」」
→ここまでの内容を振り返ろう。まずシュッツは2つの関係を提示していた。1つは「われわれ関係」であり、性的交渉がそこでは顕著であるが、その行為は独立した一人一人の行動の足し算ではなく、ふたりの共同行為として行為が発生する。そのために行為者の行動の動機は相互に連動し合っており、その連動性によってコミュニケーションが成り立っている。もう一つは「彼ら関係」である。それは、「われわれ関係」に特徴的な「直接性」「親密性」「具体性」ではなく、「間接性」「疎遠性」「匿名性」に特徴づけられる関係である。そしてその場合、自分とは異なる人の行動を、自分に即して類推したり、また動機を理解しようと、類型を用いて、その動機を類推する。なお現実の社会的関係は、常にその間に位置付けられる。つまり、シュッツの人間関係論は、原理的に異なる2つの極を提示し、あらゆる関係をその両極の間に位置付けるものである。
→ただそのような関係が易々と成り立っていたら、誰も苦労しないわけである。シュッツはここで「自己解釈」に基づいた「他者理解」は、原理的に疑わしいものであり、完全に他者を理解するものにならず、達成不可能だという。そして他者というのは、つねにわれわれの理解を超えるような、またはそこから逃れるような部分を持つ。つまり他者には捉え損なうような残余が常にあるわけだ。
→なぜそう言えるのかというと、端的に言って、それは他者が別の人間だからである。というより「自分とは別の人間である」というのが「他者」の本質であり、その本質からして、他者は「自己解釈」に基づいた「他者理解」に即しているわけではないのである。つまり、その「他者理解」は、結局のところ自己から出発したものによって構成されるため、他者それ自体と一致することの保証はどこにもないのである。
→これが「理解」のもつ苦しみであり、原理的に避けられない苦しみなのである。
→この苦しみを言葉にすれば、つねに「理解」は疑わしいものである。

・「コミュニケーションは原則的には不可能である。しかし実践的には不都合がない。
→先ほどの「彼ら関係」におけるコミュニケーションは、つまり自分とは異なる他者の行動に対する理解と、それを元にした応答(つまり、コミュニケーション)は、その動機の理解が自己解釈に基づいている以上、それらは原理的に他者が”本当に”抱いている動機であるとは言えないため、本来は不可能である。これが先ほどの内容だ。
→「しかし実践的には不都合がない。」とシュッツはいうのだ。ここで注目したいのは「原則的」と「実践的」の違いである。のちにも出てくるが、これは「原理的」と「経験的」の違いとも言える。ここでの「原理的」とは、例えば「語の定義からして」もしくは「理論的に言えば」という話である。これを今回の話に即して言えば「原理的に言えば、他者の振る舞いの意味を、他者本人ではない人が理解できる保証はどこにもない」と言える(正直、これは不健全な思考かもしれませんね)。一方の「経験的」とは「われわれの日常知っていることで言えば」、「実際に体験していること、観測事実としては」、ということである。(これは自然科学の現場で言えば「理論屋」と「実験屋・観測屋」の違いだとも言えるだろう。このとき前者は論理的整合がものをいうわけだが、後者はそれよりも「観測した事実」が最優先なわけである。「理論的にはそれが成り立つことは証明できないが、観測事実としてはそうなっている。」というような使い方である。)また「経験的」を今回の話に即して言えば「経験的にいえば、他者の振る舞いに対する意味の類推は程度の差はあれ、コミュニケーションが成り立つ範囲においては可能である」ということだ。つまり「経験的には、原理的な不可能性は気にならない」ということだ。

・「この間は「ふたつの根本的な理念化」によって「乗り越えられる」という。ひとつは、「立場の交換可能性」の理念化、すなわち、私と他者が位置を交換すれば同じ類型によって世界を同じように見るだろうということを想定しあっていること。もうひとつは、「レリヴァンスの相応性」の理念化、すなわち、生活史上の相違があるにしろ、実践上の目的を遂行するには十分なぐらい同じ、選定と解釈の基準(この基準が「レリヴァンス」である)を私と他者が共有しているとお互いに想定しあっていること。」(→後半の内容は画期的なように思える!)
→ここにおける「この間」というのは、原理的な不可能さと経験的には可能であること、この2つの間である。そしてそれらは何かによって超えられているわけだ。シュッツはこれを「立場の交換可能性」の理念化、「レリヴァンスの相応性」の理念化、という2つの理念化によって乗り越えられているという。では、一つ一つ見ていこう。
→まず「立場の交換可能性」の理念化であるが、著者はこれを「私と他者が位置を交換すれば同じ類型によって世界を同じように見るだろうということを想定しあっていること」と説明する。原著の文はどうか。「彼の「ここ」が私の「ここ」になるように彼と立場を交換するならば、私は諸々のことがらに対して、彼が実際にそうであるのと同一の距離に立ち、また彼が実際にそうしているのと同一の類型性によって、それらのことがらをみるようになるであろうということ、そしてその場合さらに、彼の到達可能な範囲〔つまり、自身が知覚したり、操作したりなどできる領域〕の内に実際に存在しているのと同一のことがらが、私の到達可能な範囲の内に存在するようになるであろうということ、以上のことを私は自明視しているーそしてまた私は、その彼も同じことを自明視していると想定している。(その逆のこともまた成り立つ。)」(シュッツ, 1973=1985, p. 60) 
→なるほど。まず、ここでの「立場」とは、より抽象的な意味での「立場」なのだろう。つまり物理的な位置の話というよりも、それよりも広い「パースペクティブ」=「物事に対する見方」のことを指しているように思える。というのも、単なる視覚の範囲の話に限らず、「類型」を用いて対象を認識している話まで含んでいるからである。では内容だが、ーーまずこれは仮定の話であることに注意であるーー相手と自分の物理的な位置を交換したとすると、言い換えれば、自分が相手の位置にいると想定すると、今自分が体験していることは、相手が体験していたことと同じであることを自明視する(1)。また相手に対して、相手も自身が自分(私)の位置にいけば、彼は私が体験していたことを体験する、それを自明視することを想定する(2)。この2点が成り立つという。また最後の「(その逆のこともまた成り立つ。)」であるが、これは一方だけがそのように想定していてはダメで、もう一方の人も、そのように考えている、つまり相手もそれを自明視し、想定していることが必要なのである。つまり、自明視し合っていて、想定し合っているわけだ。このことを「私と他者が位置を交換すれば同じ類型によって世界を同じように見るだろうということを想定しあっていること」と著者は理解しているわけだが、この理解は正しいのだろうか。正直、シュッツの先の説明では見方を共有しているというより、「その立場だったら、確かに自分もそのように見るかもしれない」という想定のことを話しているように思える。それはナルトがサスケに抱いた「もしかしたら、俺たちは逆だったかもしれない」ということと同じではないか。すなわち、サスケの境遇に自分も置かれたら、自分もそのような生き方をしていたかもしれない、という想定である。別の言い方をすれば、相手と自分は類型は共有していないが、あなたがその類型を持つことは想定できるということも成り立ちえるからだ。ただ、原著のその後の文章を見るに、著者の理解で進めた方が、全体を整合的に読めそうだ。

→次の「レリヴァンスの〔体系の〕相応性」の理念化であるが、著者はこれを「生活史上の相違があるにしろ、実践上の目的を遂行するには十分なぐらい同じ、選定と解釈の基準(この基準が「レリヴァンス」である)を私と他者が共有しているとお互いに想定しあっていること」と説明する。原著を引用しよう。「私と彼のそれぞれ独自な生活史的状況に起源を有する視界〔世界の見方〕の相違は、お互いの当面の目的にとっては関連がないということ、また私と彼、つまり「われわれ」は、実際に共通な、あるいは潜在的に共通な対象とその特徴を、同一の様式で、または少なくとも「経験的に同一の」様式で、すなわちあらゆる実践上の目的にとって十分に同一といえる様式で選定し解釈していると、両者ともが想定しているということ、以上のことを私は、反証が挙げられるまでは自明視しているーーそしてまた私は、その彼もまた同様に同じことを自明視していると想定している。」(シュッツ, 1973=1985, p. 60)これは、シュッツの固有の概念である「レリヴァンス(訳: 関連性)」の説明でもある。面白いのは、見ている世界がすべて同じでなくても、共同で作業する上で、その目的達成に関連するところだけ認識が同じであればいいことである。「あらゆる実践上の目的にとって十分に同一といえる様式で選定し解釈していると、両者ともが想定しているということ」というように、目的の名のもとで、十分に(程度でいいんだ)同一である様式を選定していることを互いが互いに対して想定していること、それが「レリヴァンスの〔体系の〕相応性」である。
→シュッツは、自己と他者の世界の捉え方は独立しているとして、一切の間主観なるものは形成されないとするのでもなく、また形而上的な前提をおいて間主観的な世界に絶対的な根拠を置くのでもなく、「日常生活でのエポケー」によって「間主観性」が成り立ちえるとしている。かなり特殊なやり方のように思える。ただ、その相互性が自明視できずに「疑問視」されたとき、社会=間主観性はどうなるのかは聞いてみたい。(崩壊するのでは?)シュッツの間主観性は、原理的には脆いものではあるが、経験的にはかなりしなやかで強かなもののように思える。
→「他者理解」が他者それ自体に即することは原理的には成り立たないが、ある条件下、つまり原理にある条件を加えたとき、それは簡単に成り立つというのだ。逆に言えば、その条件が満たされなければ、「他者理解」が成り立つことはないのだろう。
→【追記】シュッツ理論の面白いところは、疑念の停止があるときは「間主観性こそが本質である」のように思えるが、疑念があると「本質的には、それぞれの主観しかないのでは」となる。ここに「日常生活の状態」と「反省的状態」の違いがあるように思える。そして、それはどちらがデフォルトとか、どちらがはじめにある(本質)かとかではなく、このような2つのモードがあり、どちらかがデフォルトになったり、どちらかが本質になったり、と揺れ動き続けるようなものかと思う。

・「「自然的態度のエポケー」というシュッツの用語を思い出してもよい。自然的態度=日常生活において、私たちは多くの「いつでも疑うことができる」ことがらを、「にもかかわらず疑問視しない」で「自明視」している。エポケー=疑念の停止、これこそが、いや、これだけが、私たちの他者「理解」を支えているともいえる。」
・「他者を「理解」することはある原理的な困難さをもつ。と同時に、ある思い込み〔エポケー=疑念の停止〕によって、日常的・実践的にはやすやすと達成されつづけるように見える。」
→この2つの理念化を紹介したのちに、著者はシュッツの用語「自然的態度のエポケー」を持ち出す。この時の「自然的態度」とは、日常生活での態度であり、推測するに「弛緩した態度」であろう。つまりいちいち何かを吟味したり、検討することがなく、慣習に身を任せているような態度であろう。ただ同書を読むような人は、日頃からものごとを疑ったり、ある主張があった場合は批判的に検討することがあるかもしれない。そのため、このような定義にピンとこないかもしれない(私もピンと来ていない)ただシュッツがいうには、これは特殊な状態なのだ。ベースとして人間は考えない生き物であり、日常性に溺れている(ハイデガーでいうところの「ダスマン」?)。これがシュッツの人間観、日常観なのである。(これは東浩紀の問題関心でもあるように思うのだが、確かに「人間」というのは考える生き物であるが、ただそれは鉤括弧付きであり、人は、「人間」であり、それと同時に考えない動物でもあるという。人は常に考えているわけではない。そこから話を出発させる必要があるという。(※ただ東浩紀の関心は「知的観客」をどのようにつくるか、であり、問いとしては「いかに動物的であることがデフォになっている人たちに、人間であること=知的であることを可能にするか」ということだと思う。ただ世の中には動物的になることに抵抗しようとする人(意識的に人文書を読む人)もいるわけで、私はその人に向けて書きたいと思っている。それはもしかしたらかなり限定された範囲に向けて書くことなのかもしれないが… また、それは潔癖的に「動物になるな!」と脅迫するようなものでもなく、また別に「動物」であることを肯定するようなことはしないものとしたい。)
→この「自然的な態度」のとき、「私たちは多くの「いつでも疑うことができる」ことがらを、「にもかかわらず疑問視しない」で「自明視」しているわけである」。振り返れば、原理からして「他者理解」は他者それ自体である根拠がないため、自らの「他者理解」が本当に他者を捉えているのかはいつでも疑うことができる。ただ日常生活においては、「立場の交換可能性」の理念化や「レリヴァンスの相応性」の理念化が可能な条件が成り立っており(というより、そのような条件が成り立っているのが日常生活であるのだろう)、そうした疑念は停止される。(感覚としては「まあ今のところコミュニケーションうまくいっているし、きっと相手も同じ手応えを感じていると思うし、今のコミュニケーションについてそこまで反省したりすることないよ」という感じだろう。)逆に言えば、この「他者と何かを共有していることを見込めること」、それによるエポケー(疑念の停止)なしに「他者理解」は成り立たないのである。これが最後の一文「エポケー=疑念の停止、これこそが、いや、これだけが、私たちの他者「理解」を支えているともいえる。」が意味するところである。別の言い方をすれば、日常生活は、この空気のようでしたたかな「自明性」によって支えられているのである。
→また面白いのは「他者理解」の成立条件を「今の自分の他者理解が、本当の他者の動機と合っているか否か」ではなく「自分の他者理解が成り立つと見込めるか、否か」ということにポイントをずらしていることである。(つねに自分出発である)つまり、この「見込める」いう主観的判断が「間主観性」を成り立たせているというわけだ。

・「私たちと他者の関係は、いつも「同質」と「異質」のあいだのどこかにある。しかし、シュッツは、エポケーによって人々は同質性を最大限にすると見込んでよい、それによって「社会」は作られていくだろう、と考えているようだ。」
・「この構図のはじめには「希望と怖れ」があり、そこからはどちらへも進みうるはずであった。なのに、シュッツは「希望」と「同質性」へだけ歩を進める。
→「私たちと他者の関係は、いつも「同質」と「異質」のあいだのどこかにある。」このテーゼは重要のように思える。常にここから思考を進める必要があると毎度思う。つまり原理的にはつねに他者は「異質」である。完全に異質というわけではない。ただすでにわれわれの社会には、ある文化が形成されており、(それはローカル的にも、グローバル的にも)、見知らぬ観光客とも何かしら「人間として」の共通の文化を持っていたりする。つまり、ある程度「同質」で(相手が自分と同質であるとは、相手と自分が同じ観念を共有していると見込めることである)、ある程度「異質」である。つまり現実のすべて社会関係は、この完全に「同質」と、完全に「異質」の間に位置付けられる。別の言葉で言えば、現実の社会関係では、相手と自分が同じ観念を共有していると見込めそうで、見込めないのである。(なおこの話は単に程度問題のように考えられるが、そう簡単ではなく、先ほど議論にあがった原理(異質)と経験(同質)が入り混じった状態とも言えるだろう。つまり原理的に言えば、見込める根拠はないが、経験的に言えば見込めていると言ってもいい。という感じである。)(もう一点言えば経験的に異質というのもある。つまり「人類みな他人!」というのは原理的な他人論。一方で「「ヨーロッパ人」と「アメリカ人」は違う!」というのは、経験的な次元で生まれた他人論である。今回の「異質」は、原理的な方である。)
→「私たちと他者の関係は、いつも「同質」と「異質」のあいだのどこかにある。」この状態において、同質の条件をたまたま満たし「他者理解」が成り立つこともあるし(希望)、理念化を可能にする条件が成り立たずに、疑念に苛むこと(怖れ)があるわけだ。別の言い方をすれば、エポケーが成り立つかもしれないし、つまり疑念を停止できるかもしれないし、エポケーが成り立たないかもしれない、つまり疑念を停止できないかもしれない。ということだ。
→この状況は、具体的には「留学生と話しているとき」や「海外旅行に行っているとき」にみられるように思う。このとき、前者は母語(日本語)で、後者は英語で話しているとしよう。このとき私は、同じ言語を話しているが、その意味の体系は共通のものだろうかと疑心暗鬼になったりする。ただ案外そんな疑いは無用で、何か行動をともにする程度であれば、問題なくコミュニケーションは取れる。ただ、たまに聞き直したり、言い直したりして調整する必要が出てくることもある。そのためこうした場面においては「希望と怖れ」の両方を感じる。ただ別に嫌でない。むしろなんだか心地がよい。
→「しかし、シュッツは、エポケーによって人々は同質性を最大限にすると見込んでよい、それによって「社会」は作られていくだろう、と考えているようだ。」ただシュッツは、人間本性として、というより現にある社会からして「自らの集団の同質性を最大限に」しようとするとし、それによって「社会」が作られていくだろう、という。まあその方が自らの「アイデンティティ」を安全に得ることができるだろうしね… そうしたベクトルは強固にあるように思える。
→「この構図のはじめには「希望と怖れ」があり、そこからはどちらへも進みうるはずであった。なのに、シュッツは「希望」と「同質性」へだけ歩を進める。
→「この構図のはじめ」が指すのは「私たちと他者の関係は、いつも「同質」と「異質」のあいだのどこかにある(=同じ類型を共有していると見込めることと見込めないことの間にある)」である。これは先ほども言った通り、そこには「希望」と「怖れ」の両方がある。しかし、シュッツは人はなるべく「怖れ」をなくす方向へ、つまり「理念化」や「エポケー」が成り立つ条件、集団内の同質性を高める方向に向かうとする。すなわち、怖れがあるような人とは付き合わないという方向である。これはつまり、人は「条件付き」で発揮されるようなエポケーに対して、それを「条件付き」ではなく、当たり前に発揮させようとしたいために、「条件を満たすもの」とだけ付き合うというのだ。
→シュッツよ、、、これではただ単に「村」が生まれるだけではないか、、、

○第2節まとめ
シュッツの内容(厳密には、著者のシュッツ理解)をまとめよう。シュッツの問いは「日常生活において、人は他人の行動をどのように理解しているか」であった。これを考えるにあたって、まずシュッツが持ち出すのは「われわれ関係/彼ら関係」の区別である。「われわれ関係」というのは、お互いが同一の出来事に意識が向いているような関係であり、そこでのふたりの行為はそれぞれの行為の足し算ではなく、つまり動機が異なった行為の足し算ではなく、お互いの動機が連動しながら行為が進む。この「動機の連動性」が「われわれ関係」の特徴である。一方の「彼ら関係」は、それとは異なり、お互いの行為は、ある社会で共有されている類型に依拠することで、互いの動機を類推することで成り立っている(一方的な理解は成り立たず、基本的には相互理解である)。なお現実の社会関係は、これらのどちらかではなく、この2極の間に位置付けられる。つまり、ある程度直接的で、ある程度間接的なのである。ただ原理的に考えれば、相手が自分と同じ類型に依拠していることには何の根拠もないのである。そのように根拠がないにもかかわらず、つまり自身の他者理解は疑念いっぱいにもかかわらず、われわれは日頃「相手が自分と同じ観念を共有していると見込める」という「疑念の停止」という機構が成り立つのである。これが「他者理解の原理的な不可能性」と「他者理解の経験的な可能性」の関係である。ただこの「経験的な可能性」が優位になって、難なく理解が成り立つには条件があり、それは異質な他者との遭遇がないことである。ただ本来は、そうした他者がいることは原理的には排除できないので、成り立つか、成り立たないかで揺れ動くはずである。つまり「同じ認識や価値を共有していると見込めるかもしれない」という「希望」と、見込めないかもしれない「怖れ」の二面性があるわけだ。しかし著者がいうに、シュッツが想定している社会は「すでにある程度同質性が担保されている社会」である。そこには怖れはなく「希望」のみがあることだろう。(希望というより、これは安心かな)

そして、著者がシュッツから引き出したいことは、「他者を「理解」することはある原理的困難さをもつ。と同時に、ある思い込みによって、日常的・実践的にはやすやすと達成され続けるように見える」という事柄である。つまり「他者理解」には、本来「原理的な不可能性」と「経験的な可能性」の両側面があるということだ。(ただそうした2つの側面があるにもかかわらず、シュッツが描くのは「経験的な可能性」が優位であることである。つまり、社会には同質性の高い人たちで溢れているという想定なのである。著者は、それにツッコミを入れており、「原理的な不可能性」と「経験的な可能性」の両側面を均等に扱うことによって、異質な他者を異質なまま留保する方向へ向かう。そして「原理的な不可能性」を強く感じることがあっても、それでも一緒にいる技法を模索する。)


3. 理解の「過少」

・「他者を「理解」できないこと、あるいは他者から「理解」されないことによる苦しみである。シュッツのいう「怖れ」もこの苦しみを指しているだろう。」
→著者は、自身の問題関心に沿って第3節以降を展開させる。そのためシュッツの内容を自分の文脈に置き直す作業を行う。ここでは「他者を理解できること/できないこと」(「相手が自分と同じ類型を共有していると見込めるか/否か」)という事実判定に、シュッツが「希望/怖れ」という価値判断をしていることに言及されている。なぜシュッツが後者を「怖れ」とマイナスの評価をしているのか。それを著者は「他者を「理解」できないこと、あるいは他者から「理解」されないこと」は「苦しい」からだという。ただもう一歩踏み込んで、その理由を説明してほしい。ここにはひとつジャンプがあるように思える。つまり「他者を理解できない」と、「共同作業が円滑に進まず、自分が思い描くことが達成されない」から、「苦しい」=「嫌」だ、と間にもうひとつ理由を入れて欲しいわけだ。間に入れる理由であるが、これを同書に通徹する「存在証明をめぐる関係」に即して想像すると、「相手を理解できないこと」は、「相手が何を考えているか分からないこと」であり、それはすなわち、相手が自分のアイデンティティを補完してくれない可能性があること、つまり自身が「存在論的不安」に晒されることに他ならない、と言える。それは、他者から理解されない苦しみにも言える。これは先ほどよりも直接的に「アイデンティティの補完」を意味するからである。相互理解はつまるところ、「アイデンティティの相互補完」を意味し、それは相互依存の関係(家族)を築くことに他ならない。明言はしていないが、著者は、この「相互補完」が築かれることを「プラス」、築かれないことを「マイナス」においているように思える。

・「他者は、いつも「理解」では到達できない「過剰さ」をもっている。つまり、「理解」はいつも他者に対して「過少」である。私たちは、そのことをいつも知っていて、自分の他者への「理解」が過少であることに悩んでいる。そしてまた(どちらが先かわからないが)、自分に対する他者の「理解」が過少であることに、いつも敏感である。「理解の過少」。他者を理解できないことの苦しみ、他者から理解されないことの苦しみ。シュッツの構図は、この苦しみを的確に指摘する。」
→はじめの「他者は、いつも「理解」では到達できない「過剰さ」をもっている」、これは、原理の側面である。もっと厳密に言えば、経験的になされる「理解」では捉えられない部分が原理からしてあるということだ。また、この「過剰さ」から連想するのは、「人間とは本来的に本能がぶっ壊れている存在である」という話だ。ホモ・デメンス、錯乱人である。本能がぶっ壊れているので、同じ人であっても、同じ本能を持っているとは想定することができないわけである。しかし、人間は二次的に、シュッツで言えば「類型」なるものを共有することができ、それを参照しながら、または依拠しながら、共同体を形成している。(そして、それを一次的なものと取り違えている。取り違えている人と取り違えていない人の間の溝というものがある。)
→次の「つまり、「理解」はいつも他者に対して「過少」である」について。まず「つまり」といい、先のテーゼを言い換えるわけだが、言い換えた内容を少し付け足すと「「理解」はいつも〔本来の〕他者に対して「過少」である。」と言っている。これは先の「他者を「理解」できないこと」の苦しみとリンクさせるためのパラフレーズである。他者は原理的には経験的な理解に対して「過剰」であり、それに対して経験的な理解は「過少」である。というわけだ。
→その次の「そしてまた(どちらが先かわからないが)、自分に対する他者の「理解」が過少であることに、いつも敏感である。」。まずこれは意味深なわけだが、日頃私たちは「他者理解」が過少だと思っているのだろうか。正直、鈍感な人間は自分の「他者理解」が妥当だと思っているように思う。ただ、それに対して敏感な人間は、他者理解の「原理的な不可能性」と「経験的な可能性」の間を生きており、いつも自らが持っている経験的な「他者理解」が「過少」であることを嘆いているわけだ。著者が、括弧をつけている「(どちらが先かわからないが)」は、まさにその通りであろう。ここにあえて「一般に人は、過少であることに敏感である」ことと「敏感な人は、過少であることに気づいている」ことを混ぜ込んでいる。というより、「敏感な人は、過少であることに気づく」ことを、「一般に人は、過少であることに敏感である」というテーゼに書き換えて、日頃は敏感ではない読み手にも他者過敏の呪いを植え付けているのである笑。(人はもっと敏感になった方がいい)
→「鈍感な人」=「他者理解の経験的な可能性」が優位なひと=希望しかない人
→「敏感な人」=「他者理解の原理的な不可能性」と「経験的な可能性」が同列な人=希望と怖れを生きている人。
→「敏感すぎる人」=「他者理解の原理的な不可能性」が優位すぎて、怖れしかない人。

・「さて、この苦しみについて、もう少し描いておこう、それも、シュッツの構図を使って。「理解の過少」という問題とかかわる、ふたつほどの問題を、以下論じることにしたい。そして、そのことが、この次の考察(4節)を展開する参照点となるのである。」
→ここでの「ふたつほどの問題」とは、①「理解の過少」である「暴力」「性愛関係」と②「理解の過少」が原因の「差別」の問題である。
→本節の最後の方に、この予告文のアンサーとして「「暴力」や「差別」が「理解の過少」をその本質に持つとすれば、望まれることは「理解の過少」を解消すること、「より多くの理解」を求めることである。」が書かれている。つまり本節では、「理解」が過少である人間が、その本性として「より多くの理解」を求めることが説かれている。

①「理解の過少」が原因の「暴力」「性愛関係」について
・「ここで強調したいのは、「理解」は、「暴力」や「性愛」という「身体」そのものに照準する技法に取り囲まれている、ということだ。「理解」という「身体」を記号ととらえ「こころ」に照準する技法は、「身体」に照準する技法を放棄するところにはじめて成立する。いいかえれば、いま「理解」という技法をとっているとしても、それがいつ「暴力」や「性愛」という「身体」に照準する技法に転換するかわからない。「理解」は、「暴力」や「性愛」に流れ込まれないようにする、ある独特の構えによって支えられており、それを忘れるならば、やすやすと「身体」そのものに照準する技法に引き戻されてしまう。「理解」はそうした可能性に晒されながら、あやうく保たれているのである。」
→まずは「暴力」と「性愛」について。これは後の「差別」と異なり、「身体」に照準があてられているものである。「身体」に照準が当てられているとは、シュッツの「われわれ関係」を思い出させる。そしてシュッツ自体も「性的交渉」をその一例として挙げていた。ただ「暴力」はあげていないので、これは著者のオリジナルであろう。著者が「「身体」として出会うということは、「理解」=「わかりあう」関係をつくる最大限の可能性を開くことであるが、そこでは「暴力」=「なぐりあう」関係の可能性も最大限に開かれる。どうやらシュッツはこのもうひとつの可能性をそれほど考えていない。」というように、シュッツの「身体的関係」は、良い方向のみが考えられており、殴り合うようなものを想定していないと指摘する。
→暴力については、「「理解」においては「身体」と出会っていてもそれを突き抜けて「意識生」つまり「こころ」のなかの「意味」と出会うことが目指されるが、「暴力」においては他者の「こころ」や「意味」は照準されず、このそうに目を向けないことが「暴力」の本質である。」と言われているように、著者は「理解」との対比において、暴力は相手の「こころ」に目を向けていないことが特徴であるという。「暴力」とは、力によって相手に自分のいうことを聞かせようとすることであり、相手の身体をものとして扱い、一方的に独りよがりに相手を動かすことであり、また「言うことを聞かなかった場合、お前の生存は保証されない」と脅し、言うことを聞かせようとすることだろう。前者は強引に動かす暴力、後者は脅迫的な暴力である。どちらも相手がどう思っているかは関係ないのである。
→一方の「性愛」であるが、「性愛」は「暴力」と対照的な位置にあるものの、「身体」に照準するもうひとつの関係であると言われている。また、これは「「身体」に「身体」として、その物質性において出会い、「身体」を通してなにか(「こころ」)に照準するのではなく「身体」に直接照準する関係」というように、性愛関係は「こころ」に照準を与えない点で、「理解」とは異なるわけだ。なるほど。セックスは「こころ」に接続しないのか。(と著者はしているのか)。
→「「理解」は、「暴力」や「性愛」に流れ込まれないようにする、ある独特の構えによって支えられており、それを忘れるならば、やすやすと「身体」そのものに照準する技法に引き戻されてしまう」ことについて。これまでの整理でいえば、「理解」は人の「こころ」に、「暴力」と「性愛」は人の「身体」に照準をあてるものであった。著者が言っているのは、人は易々と「暴力」や「性愛」などの「身体」に照準をあてる関係に向かってしまう。そこには、あらかじめ「流れ」があり、つまり単にその流れに身を任せてしまうと「暴力」や「性愛」にたどり着いてしまうのである。「理解」は、それに抗うようなものとして機能しているというわけだ。これは、実感からしてもわかる。「欲動」の次元といってもいいだろう。

・「理解が存在すべき場所での「理解の過少」=「身体」に照準する技法は、私たちに大きな苦痛を呼び起こす。」
→ここで「理解の過少」が出てくる。そして、その「理解の過少」=「『身体』に照準する技法」という等号で繋がれる。(この範囲での等号で合っている?)ただ、本当にこの等号は正しいのか。「『身体』に照準する技法」=「暴力」=「性愛」が「こころ」ではなく「身体」にのみ照準を当てているということは、それは「理解の過少」ではないのではないか。つまり「理解」の程度における少なさではなく、「理解」それ自体の欠如ではないのか?つまり「理解の過少」ではなく「理解の欠如」が「『身体』に照準する技法」と等号で結ばれるべきではないだろうか?ただ話を簡単にし、図式的に理解しやすいために「理解の欠如」というワードをつくらずに「理解の過少」としたのだろう。
→著者が指摘したいことの本質は、こうした「理解の欠如」である「『身体』に照準する技法」を「理解」を存在すべき場所で行われること、それへの苦しみである。

②「理解の過少」が原因の「差別」について
・「私たちは、精疎さまざまな「類型」によって他者を「理解」する。しかし、シュッツがいうように、これは「類型」でしかない。私が他者を「理解」するために開発して在庫している「類型」と、他者の「こころ」で実際起こっているそれ自体は、その精密さにおいていつもズレる可能性を持つ。おおまかにいって、「類型」のほうが粗くて、他者の「こころ」で起こることを描ききれないことのほうが多く、先に述べたように、ここに「理解の過少」が原理的に生じることになる。」
→これは、同節の初めに書かれていたことと同じである。私たちの他者理解は、つねに「過少」である。それは何に対してかというと、他者の本来の「こころ」に対して「過少」、つまり部分的にしか理解できないのである。逆になぜ部分的には理解できるかと言うと、相手が自分と同じ認識や類型を共有していることをある程度は見込めるからである。見込める度合いにおいて部分的に他者を理解することが可能なのである。

・「こうした現象がくっきりと現れるのが、「差別」ということがらであろう。ーーこの私が、いま、「こころ」のなかでなにかを考えている。しかし、この私という固有性、今考えていることの固有性を、それに対応できる繊細な「類型」によって「理解」するのではなく、彼は「黒人」である、彼女は「女性」である、というようなはるかに大雑把な「類型」によって「理解」してしまうとき、固有性において自分を「理解」されることを望む人々にとって大きな苦痛が生じる。」
→そして、この他者を部分的にしか理解できないことによって引き起こるのが「差別」だというのだ。ただこれは、よく用いられる「差別」という概念と異なるように思える。そして「差別」の本質からして、大雑把な「類型」をつかうことが差別なのではなく、下位、劣位というレッテルをもつ「類型」をもちいることが差別なのではないだろうか(後者が、よく用いられる「差別」概念である)。たとえば、ある男性(とおぼしき人物)がいたときに、その人を「男性は理性的であり、物事の本質をよく捉えられる」という、すごい大雑把な「類型」で捉えたとき、それは差別なのだろうか。こうしたかなり肯定的な「類型」を用いることは「差別」ではなく、「女性は感情的であり、物事の本質を捉えていない」という、否定的な「類型」で、女性(とおぼしき人物)を捉えることをわれわれは「差別」と呼んでいることだろう。よって著者のこの説明は、あまり適切ではないように思える。この誤解をまとめるのならば、著者は「差別」を「類型」の精粗の軸で語っているが、差別の問題は「類型」にまとわりついている優劣の問題だといえる。
→なので「差別」という言葉を使って、著者の主張を展開したいのならば、「人は自分を劣位に置くような「類型」ではなく、対等に取り扱うような「類型」を用いて欲しい、そして、なんならより自分のあった「類型」を開発し、それで捉えて欲しいと思うのではないだろうか。」いう展開になることだろう。

○まとめ
・「以上、「理解の過少」とそれによる苦しみについて、シュッツの構図をもとに述べてきた。「暴力」とは、そもそも「理解」という技法の外側にあり、私たちはその「理解のなさ」に苦しめられる。「差別」とは、「理解」の内側に位置づけれるが、その「理解のおおざっぱさ」に苦しみを生む。そのとき、私あたちは次のことを望むだろう。「暴力」ではなく、私の「こころ」に照準する「理解」をしてほしい。「差別」ではなく、私の固有性に到達できるもっと繊細な「理解」をしてほしい。」
→著者は、私たちが日頃避けたいと思っている「暴力」と「差別」を、シュッツの図式、特に「他者理解」の図式に従って捉える。そのとき「暴力」は、相手の「こころ」に照準を合わせること=「理解」を放棄し、身体を直接アプローチするものであり、それは「理解のなさ(欠如)」によって生まれる。もうひとつの「差別」は(これは先ほど指摘した通り、誤用だと考える)、「類型」の大雑把さが問題となって生まれるという。

「「暴力」や「差別」が〔「理解の欠如」と〕「理解の過少」をその本質に持つとすれば、望まれることは「理解の過少」を解消すること、「より多くの理解」を求めることである。
→その通りだろう。理解がないこと、理解が部分的であることが問題の原因なのだから、その原因をなくせば、問題が解決できるだろうと頭で理解するだろう。
→著者の意図を汲めば、同節では、潜在的にわれわれは「より多くの理解」を求めることを示したかったように思える。それは「原理的に理解が過少である」ことからすぐに導けるわけではないので、「暴力」や「差別」の事例を使って、そこから「より多くの理解」を求める人間本性を導き出したのであろう。
→この「理解の過少」を、原理的な「理解の過少」ではなく、第5節で出てくる「適切な理解」の基準よりも過少な状態であると読むとどうだろうか。そして「暴力」や「性愛」、「差別」の事例は後者なのではないだろうか。つまり、先ほど「より多くの理解」を求めるのが人間本性であるといったが、「適切な理解」に達していないと思ったときに、「より多くの理解」を求めるのではないだろうか。この条件は重要であろう。(ただこの「より多くの理解」を求めたい!と思うがあまり、達成すべきものが「適切な理解」ではなく「完全な理解」になってしまうことがあることだろう。)


4. 理解の「過剰」

・「ここで、前節とは逆のことを想像してみよう。完全に他者の「こころ」が「理解」できたとしたら、どうなるだろう。完全に私の「こころ」が他者によって「理解」されたとしたら、なにが起きるだろう。ーーもちろん、これはありえない想定である。」
→前節とは「理解の過少」のことを扱っていた。これは、原理的にそうであるし、現実にもたびたびそれが意識に上ることがある。ただ第4節で扱うのは、それとは逆の「理解の過剰」であり、これは原理的に成り立たないことである。なので「ありえない想定」と言われている。ただ、この話題は第5節にも引き続き出ており、章全体の中でこの「理解の過剰」を捉えると、ここでの「理解の過剰」は、原理的に到達することのない「完全な理解」の話であり、「適切な理解」のラインを超えるような「理解の過剰」の話をしているわけではないのである。その点も気をつけて読みたい。(ただ、途中で「適切な理解」を超えるような「理解の過剰」があることが日常でも見られることが話される。)
→以下、4節の内容を①「相手にわかられてしまう」苦しみ、②「相手をわかってしまう」苦しみにわけて説明する。
→なお今回は扱わない【3】では、暴力や差別に至らないようにより多くの理解を求めるも、相手を完全に理解ができてしまうと、暴力や差別する人の気持ちもわかってしまって、暴力反対や差別是正に踏み込むことができなくなってしまうという逆説が展開されている。共感性が高すぎてしまって辛い方におすすめ。「暴力を止めるには、理解を断ち切れ!」という著者のメッセージは切実。

①「相手にわかられてしまう」苦しみ
・「これは、あなたの「身体」という「徴候」やあなたの「言葉」が、あなたの「こころ」をすべて他者に伝えてしまうという事態である。あるいは、他者の繊細な「類型」創出機能は、あなたのどんな動きであってもそれが「間接提示」する「意味」を完全に読み取ってしまう。これが他者に「理解」されるという事態だ。(中略)「私」のすべてが、他者にわかってしまう!考えていることのすべてが「理解」されてしまう!なんという恐怖だろう。
・「完全に理解されてしまうことの苦しみ。しかし、奇妙な気もする。どうして望まれていたはずの「理解」が、苦痛を生んでしまうのか。ごく簡単にいうなら、まず、ここに「自由」はない。(中略)また、完全に理解されてしまうとき、「私」など存在しない。
→まず「完全にわかられてしまうこと」とは、どういうことか、それは自分の外に出ている情報、行動や言動から、自分の内面がすべて理解されてしまうことである。自分の内面とは違った行動をしても、それを「この人は内面を隠して行動しており、本当は〜〜と考えている」とバレてしまう、それが相手に「自分のことが完全にわかられてしまうこと」である。
→そうなったとき、何ゆえに苦しいかというと、著者はここで①「自由のなさ」と、②「私の不在」をあげる。
→①「自由のなさ」について。まず「すべてがわかられていること」は、思考をすべて相手に見られている、隠れている部分がない、つまりプライバシーがない状態だろう。そこでは精神を遊ばせるにしても、常に相手の視線に晒されながらという条件がつけられてしまう。これは自由と言えるだろうか。そこには、例えば「間違える自由」がないことだろう。もし仮に相手の視線があるなかで間違えたとき、その間違えに対して何か弁明したり、謝罪する必要があるように思える。つまり、もし仮に「間違えてもいいから何かしよう」と思っても、それは先のプレッシャーの下で行われるのだ。これは、自由だとはいえないだろう。逆に相手に理解されない領域があることは、つまり相手を気にかけずに思考を動かす自由があることである。その領域がないことは、辛いことだろう。
→②「私の不在」について。著者の言葉を引こう。「「私」のこころのすみずみまで他者によって「理解」されるとき、「私」のなかに「私だけ」の場所などどこにもないことになる。あるいは、「私」のなかにあるものはすべて他者に「理解されてしまう」程度のものでしかない。どこに「私」固有のものがあるというのだろう。」少し抽象度の高い内容である。これは先ほどの「自由」とつながる話であるが、今回は、私という「固有性」の話である。ここで注目したいのは「「私」のなかにあるものはすべて他者に「理解されてしまう」程度のものでしかない」という表現である。今回問題になっている「固有性」の反対は「一般性」である。一般性とは、ここでは誰にでも当てはまること、もしくは広く一般になりたつことを指す。一方の「固有性」は、その人にしか当てはまらないことといえよう。そして、この話を「他者理解」の文脈を重ねると、「一般性」=「他者からの理解」、「固有性」=「自分自身の理解」という図式になる。なぜなら「他者からの理解」は、「類型」を用いていたからである。そんな「一般性」=「他者からの理解」が拡張し、ーーありあえないことだがーー自分の心の全てを理解するようになったとき、「一般性/固有性」の二元論は崩壊し、一般性だけが残ることだろう。ここに「私の領域」、自分だけが理解できている「こころの領域」というのは消えてなくなってしまう。そのため「逆にいえば、他者に「理解」されない場所をもつことによって、「私」は「私」でありはじめる。」わけである。→エヴァンゲリオン、「ここに僕はいないもの」

・「「理解」とは、「わかられたい」水準まで「わかってくれない」苦しみと同様に、その水準以上に「わかられすぎる」苦しみをも生むものである。
→この文章は、示唆的である。ある「適切な理解」という基準があって、ーーきっとそれは「共同で行動しているときに、目的が達成する上で問題が起きない程度」という基準だろうがーーその水準に達していないときに「理解の過少」の苦しみがあり、それ以上に理解されること=「理解の過剰」の苦しみがある。後者は例えば「あることに対する態度や価値判断には微妙な差異あるにも関わらず、そこにづけづけと踏み込んでくること」、つまり白黒つけずにグレーで曖昧にしたいところに突っかかってくることなどがあるだろう。これは自分の話であるが、学術研究に対する態度については、留保しておきたい、あえて合意点をつくらないようにしたかったのに、そこに踏み込まれてしまったときに苦しさを感じたことがある。
→「そこに「私」がーー他者が「わからない」領域がーー存在することを確認して、彼(女)は安堵のため息をついてもいるのだ。」→わかる。『違国日記』の槙生がそう。

②「相手をわかってしまう」苦しみ
・「この「わかられてしまうことの苦しみ」の対にあるのが、「わかってしまうことの苦しみ」である。「わかりたくない」のに他者のこころが「わかってしまう」ことのもつ激しい苦しみ。このことについても、考えておかなければならない。」
→①の苦しみの対になるのが、②「わかってしまうことの苦しみ」である。

・「想像してもらいたい。「他者」のこころのなかで呟かれるありとあらゆる呟きを、自分のそれを聴くのと同じ精度で聴いてしまったら。「私」は、いたたまれなくなってしまうだろう。(中略)人を「理解」できないことで、私たちはなんとか他者とともに生きていられる。(中略)「こころ」がすべて透明だったら、「社会」はけっして成立しない。「こころ」が不透明であることが、「私」を可能にするとともに、「社会」を可能にしているのだ。」
→相手のこころを全て理解してしまうこと、それは相手がわざわざ語る必要のないと思っていること、またはここでは人として言ってはいけないと思っていることも理解することに他ならない。つまり相手の本音を全て聞くことである。そうなってしまったら、「「私」は、いたたまれなくなってしまうだろう」。ただ現実において、何か相手が自分に敵意を持っているかわからなくても、「相手の本音はどうかわからない」「確証は持てないけど、そう思っていない可能性もある」「わかる範囲にないことに自分はいちいち思いを馳せる必要はない」、こうなれれば「私たちはなんとか他者と共に生きていられる」が、もしもそうなかったら生きていけないだろう。
→「「こころ」が不透明であることが、「私」を可能にするとともに、「社会」を可能にしているのだ。」→まさにそう。

○まとめ
・「前項では、他者に「わかられてしまう」ことの苦しみを指摘し、他者に「わかられない」ことが「私」を守るための大切な仕組みだと述べた。そしてここでは、他者を「わかってしまう」ことの苦しみを論じ、他者が「わからない」ことが「私」と「社会」をようやく可能にしているということを述べた。」
→「理解の過剰」には、①「相手にわかられてしまう」苦しみと、②「相手をわかってしまう」苦しみの両方があり、それぞれの苦しみは、主に「自分」というのが成り立たなくなってしまうことに由来する。前者は、相手に自分の不可侵領域=本音に侵入されてしまうことによる「自己」の融解であり、後者は、相手の不可侵領域=本音が見え過ぎてしまことによる「自己」の崩壊である。両者において「自己」の不成立の原理は若干異なるが、両方とも「自己」が成り立たないことが、苦しみの原因である。
→また本節では「完全な理解」というありえない想定をしていたわけだが、この想定から出発して得られたことは、人には「適切な程度の理解」という基準があり、それを超えて「理解の過剰」になると「完全な理解」に至ってしまうことが脳裏にちらつき、「自己」の成立に危機を感じ、苦しむということだろう。別の言い方をすれば、人は「理解」が過少であることにも嘆くし、「理解」が過剰である(もしくは、になる)ことを恐れるという両面の苦しみがあるのである。


5.  他者といる技法のために

・「最終節では、次のことから考え始めることにする。「理解の過剰」「理解の苦しみ」に、私たちはどうして鈍感なのか?
→第4節では、「理解」が過剰になってしまうことを取り上げ、そこには過剰であるがゆえの苦しみが書かれていた。ただ、日頃の社会活動を見ていると、この「理解の過剰」についてはあまり語られていないように思われる、と著者はいう。この著者の実感に対しては、自分も激しく同意である。例えば「こんなところまで理解されてしまった」と打ち明ける人はあまりいないのではなかろうか。それよりも「自分のここの部分が相手に理解されていなくて」といった相談の方が遥かに多いことだろう。基本的に人は「理解されたい」方向を持っている。だけど「理解されたくない」というのは、あまり語られない。(でも、「センシティブなところにも、ズケズケと土足で踏み込まれて嫌だった」という相談はたまに聞く)
→ここでは「私たち」と、かなり主語が大きいわけだが、より適切に言えば「「理解の過剰」に鈍感な人は、なぜ鈍感なのか?」を考えていると言っていいだろう。著者がいうには、それには2つの説明がありえるという。(なお後者がより重要だという)

①第一の説明「この鈍感さは、私たちの「理解の過少」への記憶に由来する。」
・「おそらく私たちはすべて「理解の過少」の苦しみを知っており、「より多くの理解」を望むということを経験している。とくに鮮烈な苦しみーー「暴力」や「差別」の苦しみーーを含め、私たちはそれをよく記憶しているのだ。この地点から出発するとき、「理解する」「理解される」ことは望ましいことでしかなく、「理解」が苦しみの原因であることや、そもそも「理解の過剰」という事態が存在することなど、想像もできない。」
→注釈をする前に、再度指摘しておきたいことがあるわけだが、「私たちすべて」とここでもかなり主語が大きい。ただこれは程度の差はあれ、経験的に「全員」と言ってもいいだろう。また程度の差はあれ、「より多くの理解」があればなぁと思ったことは人生の中で一回はあるだろう。
→「この地点から出発するとき、」というように、これより前の内容には譲歩がたくさんつくことを想定できるが、それを一旦カッコに入れて、この地点を無謬の前提とするならば、という言い訳を挟む。
→そして、ここから出発すると、以下のことが帰結となるだろう。その流れで、「「理解する」「理解される」ことは望ましいことでしかなく、「理解」が苦しみの原因であることや、そもそも「理解の過剰」という事態が存在することなど、想像もできない。」と言われる。つまり「理解の過少」の記憶があることによって、常に「より多くを理解したい」「理解は正義」という考えが頭を占領し、「理解」に懐疑的な思考が育たないということだろう。

②第二の説明「「他者理解」における「原理的な基準」と「経験的な基準」の取り違え」
・「ここには「理解」をめぐるふたつの異なる基準がある。ひとつは「完全な理解」という、原理的な基準である。ここから見れば現実に存在するすべての「理解」は「過少」である〔なぜなら、”ある程度”見込めるに過ぎないのだから〕。もうひとつは、それ〔「適切な理解」〕よりも「理解」が「過少」でも「過剰」でも苦しみを感じる、ある実践的な基準ーー「適切な理解」とでも呼ぼうーーである。〔例えば、このときの「適切な程度」とは、共同の作業をする上で問題が出ないくらいのものである。〕そして、このふたつの基準は全く異なる。前節で述べたように、私たちは、「完全な理解」のなかでは生きていけないのだ。ところが、私たちはときに、「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違える。」
→二つ目の説明は、シュッツの議論をもとにしたより理論的な説明である。
→ここで登場するのは、第2節から続く「他者理解」の「原理的な不可能性」と「経験的な可能性」である。ただ話は少し異なる。
→まず「理解」には、異なる2つの基準があるという。それは「完全な理解」という原理的な基準であり、もう一つは「適切な理解」という経験的な基準である。著者が新たに持ち出したこれら基準と、「他者理解」の「原理的な不可能性」と「経験的な可能性」の話を少し繋げてみよう。まず「完全な理解」の方であるが、この「完全」は「100%」の意味であり、他者のこころのすべてを理解できているか否かという話である。別の角度で言えば、本来の他者のこころを直接理解できているか否かという話である。ここには理解における「程度の問題」と、直接か否かという「質的な問題」がある。また、その質と程度は関係しており、他者理解が直接的であることは、程度が高いこと、完全な理解に至る可能性へとつながる。ただわれわれの他者理解は、つねに観測者に由来するために、質として直接的ではなく、そのために他者のこころを全て理解することはできない。そして、われわれが現にやっている他者理解は、相手も自分と同じ類型に依拠していることが見込める範囲で、成り立つのであり、常に間接的でかつ部分的なのである。これが「他者理解」の「経験的な可能性」である。そして、その間接的な他者理解が、日常生活を送る上で問題のない程度であれば、それが「適切な理解」なのである。つまり「完全な理解」という基準と「適切な理解」は、程度の観点から地続きに見えるが、そもそも「直接性/間接性」という質の観点からして異なるのだ。
→「ところが、私たちはときに、「完全な理解」が「適切な理解」であると取り違える。」というのが、著者の主張である。つまり「他者の心のすべてを直接に理解する」ことが、「日常生活を送る上で問題のない程度の理解」であるとしてしまうのである。すこし補足が必要だと思うのだが、これは常時そのように思っているのではなく「適切な理解」が成り立たないときに、めざすべき「適切な理解」が「完全な理解」であると取り違えるということだろう。ここには条件文が必要であろう。

↓そのように「適切な理解」が成り立たない他者に遭遇したとき、また、そのときたどり着くべき「適切な理解」が「完全な理解」であると取り違えるとき、どうなるのか。その末路が以下書かれている。

○取り違えてしまう者の末路
・「私は「類型」を繊細にする努力を重ね、「理解」に対する「他者」の差分を減らそうとする。だが、いくらそれを繰り返しても今述べた地点に達しない。つまり、差はあるが「わかりあうはず」と思い込める地点〔「適切な理解」〕に到達できない。日常の「理解」を可能にする「理念化」を作動するには、「わからなさ」が大きすぎる。(中略)〔そのとき〕「完全な理解」=「適切な理解」と考える人々は、それでもなお、こうし続けるだろう。このような「理解の過少」は、まったく「適切」ではない。なんとか「完全な理解」に近づけなければならない。もっともっと「より多くの理解」をーーしかし、もうそれ〔理解〕が一歩も進まない点に達することはありうる。このとき、それでもなお「理解」という技法を採用する人々は、例えば、次のようなことをするかもしれない。」
→いつもはできている「適切な理解」ができないような他者が目の前に現れた。そのとき、自分がすでに持っている「類型」は役にただず、それをより改良して相手に合うような「類型」をつくったり、新たに「類型」をつくりだす等の努力をして、対応を試みようとする。ただ、いくら頑張っても「差はあるが「わかりあうはず」と思い込める地点〔「適切な理解」〕に到達できない。」そんなとき、「「完全な理解」=「適切な理解」と考える人々」はどうするか。言い換えれば、めざすべき「適切な理解」が「完全な理解」であると取り違える人々はどうするか。きっと盲目に「理解」という技法のみを使おうと思うだろうし、歯止めが効かずにズケズケと相手の私的領域に踏み込もうとしたり、または現状の理解が「完全な理解」と比較して程遠いことを嘆き、すぐに「理解」という技法を手放そうとすることだろう。著者は、そんな人たちのその後の振る舞いを3つほど提示する。

①強引に「ステレオタイプ」に落とし込む。「いまの状態は、通常の「わかるはず」の理念化を作動できる遥か手前にいる。しかし、それを作動せてしまおう。彼らは「理解できる」はずなのだ。「同じ」はずなのだ。そうではないところ、それはもう見ないで、存在しないことにしてしまおう。」という。例えば、全然話してないのに「あー、もしかして〇〇さんって△△系ですか?」という雑なやつだ。正直めんどい。
②「暴力」でもって強引にいうことを聞かせる。「私たちは、ここまで彼らを「理解」しようと努力してきた。しかし、どうにも彼らが「わからない」。これほど努力しても、「理解」する能力を繊細に作動させても「わからない」とすれば、私たちが彼らと「いっしょにいる」ことはできないだろう。私たちは、彼らと「いっしょにいる」ことをやめよう。いうまでもなく、そのひとつの形態が「暴力」である。」という。つまり「こころ」に照合するのではなく、「身体」に直接働きかけるのだ。
③理解しようと「努力」するも、疲れて①と②に帰着する。「もしかしたら、そのようなところに着地せず、もっと「理解」のために努力しつづけるべきだ、と感じておられる読者がいるかもしれない。もちろん、そうしつづけられる状況があることは確かだ。しかし、私はこう考える。私たちが出会う「他者」は、つねに、私の「理解」の技法がたどり着けない領域を持っている。そのとき、なお「理解」という技法を使用することは、なにも生まれない。むしろ、いま述べたふたつの地点に、「理解」の努力に疲れた私たちを着地させてしまう。」確かに「「理解」をしよう!話し合おう!」とする人がたまにいる。きっとここで話さない方がいいだろうに、理解しようとしてくる人がいる。ただ話し合うことで互いを理解できないことがより明瞭になってしまう方が、はるかにお互いつらいことではないか。そして、「理解」の努力に疲れた私たちは、結局「あなたは、〇〇なのね」と片付けたり、殴り合ってしまうのではないだろう。「理解」しない方がいい場面で、理解し合おうモードにされると結構大変なわけですね。

・「少し乱暴な言い方だが、「理解」とは、私とあなたの「同じさ」につきあい、それを広げていく技法である。それをていねいに行っていくことは、私たちに大きな可能性を開き、「社会」という領域をゆたかに形成していく。しかし、私とあなたの「違い」につきあうことは、どうやらそれとは別の技法が必要である。」
→つまり「理解」は「同じさ」を取り扱うのは得意な技法なのだが、「違い」については専門外なので、無理にその「違い」を扱おうとすると失敗する(「差別」「暴力」などに帰結してしまう)という話だ。
→「私たちと他者の関係は、いつも「同質」〔同じ類型を依拠していると見込める〕と「異質」〔同じ類型を依拠していると見込めない〕のあいだのどこかにある」中で、「理解」という技法は、その「同質」な部分には対応でき、というよりその際かなりの効果を発揮することだろう。しかし「異質」な部分には、その性格からして対応できないのである。そのため「理解」という技法しか持ち合わせていない場合、①強引に「ステレオタイプ」に落とし込む、②「暴力」で強引に言うことを聞かせることしかできなくなってしまうのである。

・【コメント】
第1章において「思いやり」と「かげぐち」はセットであるという話があったが、これを今回の状況にも当てはめると、「理解」とは、私とあなたの「同じさ」につきあい、それを広げていく技法であり、一方の「違い」については、ーーよくある仕方ではーー「ステレオタイプ」を用いて、その「違い」を見ないようにしたり、または「暴力」によって、その差を切り捨てるということをする。つまり「理解」と「偏見/暴力」のセットであるとなるだろう。これに対して、著者はこれまでの「理解」に対する徹底的な分析をもとにして、「偏見」や「暴力」とは別の技法を提唱する。それが「わかりあわなくてもいっしょにいる」技法である。

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・「「理解」とは別の技法、「わかりあえない」まま「いっしょにいる」ための技法。ーーでは、それはどんな技法なのか。残念ながら、いま私にいえることはほんのわずかなことしかない。しかし、さいごに、不十分でもそれを考えておきたい。」
→「理解」は「わかりあう」ことで「いっしょにいる」ための技法であり、それとは別の「わかりあえない」まま「いっしょにいる」ための技法を探すのが、著者の試みである。
→ただ「残念ながら、いま私にいえることはほんのわずかなことしかない。」というように、著者は、現実にそれが成り立っている事例をここで持ってきて、それを分析しようというわけではない。「理解」という技法の徹底的な分析から、原理的になりたちえる可能性を探求しようという。その点、それは経験的な次元において安易に成り立つわけではないことは明らかだ。

・「「他者はわかるはず」と思うと「いっしょにいられる」領域は限定されるが、「わからない」のが当然と考えるならば、私たちはずっと多くの場合「いっしょにいること」ができるように思う。」
→「他者はわかるはず」とは、「経験的な他者理解可能性」を優位にしている人、もっと言えば「適切な理解」=「完全な理解」だと思っている人であろう。一方で、「わからない」のが当然、デフォルトだと思うのは、「原理的な他者理解不可能性」に軸を置いている人、それが優位な人だと言えるだろう。だからといって、こうした人の中に、他者理解の「経験的な可能性」がないとはならない。「原理的な他者理解不可能性」と「経験的な他者理解可能性」があって、そのバランスが前者に乗っているということである。

・「具体的に私にいえるのはごく素朴なことにすぎない。そのひとつは、ありふれているが、「話しあう」ということである。」
→ここで、著者が持ってくるのは意外にも「話し合う」ということである。正直びっくりした。なぜなら、それは先ほどの③理解しようと「努力」することのように思われるからだ。そして、この「話し合い」はゴールとして「わかるあうかもしれない」というのを含んでいるからだ。「質問したり」「説明したり」するのは、「わからない」から「わかる」というベクトルではないだろうか。
→ただ、この「話しあう」は、あとで「「話し合う」ことを意識的に開く場合も」として登場する。ここにおいては「時間を引き延ばすこと」という技法のうちに位置付けられる。

・「いいかえれば、ここで考えている技法は、この「わかりあわない」時間の過ごし方についての技法である。」
→ここで、著者は「時間」という軸を持ってくる。この「時間」というのは厄介な概念であるが、例えば「空間」との対比で言えば、過ごす位置関係のようなものではないというものだろう。例えば、「わかりあわない」人同士が真正面で顔を合わせていたら、かなり気まずい。(空間という論点も面白いけどね)

・「「わからない」他者、それを前にして「類型」を探して解釈していき、届かない距離を「理念化」で埋めていく。しかし、それは、私のなかで多くの場合ほとんど瞬時に行われる。〔もしそうした時間が瞬時ではなく〕そうした時間があまりに長いと、私たちは居心地が悪くなる。しかし、その時間を私のなかの瞬時の時間から、私と他者の間にあるより長い時間に引き延ばしてしまい、あるいは、それが他者といる時間のほとんどを覆ってしまっても過ごせるようにしてしまえば、私たちは、「わかりあわない」状態でも「いっしょにいられる。」
→われわれが日常的にやっている「理解」、それはもとから人と人との差異に鈍感な人、またはもとは人と人との差異に敏感でも、これまで言葉を交わしてきた人ならばその敏感さがおさまる人が想定されるが、このとき「理解」が成り立つ場合は、原理的にある差異を、自分の頭の中での「思い込み」で埋めているわけだ。そしてそれは「瞬時」と言っていいだろう。
→このように日頃においては、相手も自分と同じ類型を持ち合わせていることを見込むことが瞬時にできるが、そのように見込むことが瞬時にはできない、というよりも「見込めない」場合は、理解ができないまんま、ずっと宙吊りに晒されるわけだ。それは「経験的な理解可能性」が優位の人、つまり早く理解の地平に着陸したい人にとっては、「居心地の悪い」ことだろう。
→ただ「その時間」(ここでは「他者のこころを探る時間」)を自分の頭の時間ではなく、つまり「頭だけで結論を導く時間」ではなく、「私と他者の間にある時間」つまり「ただそこに流れている時間、非人間的な時間」に移すということではないか。
→ここの部分は理解しにくいので「その時間〔他者といる時間〕を私のなかの時間から、私と他者の間にある自然の時間に移す」+「私の頭の中の時間は瞬時しか受け付けていないので、間延びしてもそれを受け止めてくれる非人間的な時間にシフトする」としてもいいだろうか。これは別の言い方をすれば「わからなさ」=「人と人との差異」を自分の中で抱え込まずに、自然に外部委託しているのであろう。で、この外部委託が成功し、この外部委託でうまくいくならば、「わからなくてもいっしょにいられる」。(というよりも、ーー同書の内容に従えばーーこうすると、色々な可能性を閉ざさずに済む)

・「「わかりあわない」時間が「他者といる」ということだと思ってしまえば、これはそう苦痛ではないかもしれない。いや、そこにはいつも私の「理解」を超えた、予想もつかない「他者」がいる。「わかりあわない」ということは、そのような「他者」を「他者」のまま発見する回路を開いているということだ。それは居心地が悪いが、でもたくさんの発見や驚きがある。「わかりあう」世界には、安心や居心地のよさはあるが、そのようなものはない。もしかしたら、「わかりあわない」から「いっしょにいる」という時間がよろこびに満ちたものであるうることを、私たちは、すでによく知っているのかもしれない。」
→ここには、「わかりあわない」ことのメリットが書かれている。「わかる」こと、つまり「理解すること」は、すなわち相手を「類型」に落とし込むことである。その「類型」は、いつも使っているわけであり、そこには何の発見も驚きもないわけである。ただ「わかりあわない」、理解しないことは、相手を「類型」に落とし込むことなく、これまで「類型」で隠していた未知なる部分と出会うことなのである。それは発見であり、喜びに満ちたもののように感じる。(この喜びは、理解できることとは別の喜び!)
→またその「発見」や「驚き」は「発見しよう!驚こう!」と思ってなるものではない。それは「発見してしまうことがあり、驚くようなことがある」といった感覚である。そうした可能性に開かれることである。

・「私たちは「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき少し急ぎすぎてしまう。しかし「わからない」時間をできるだけ〔外部委託して〕引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。その間に、「わかりあう」ことが自然に開かれる場合も、「話し合う」ことを意識的に開く場合も、「わかりあえないまま」ただいっしょにいるだけと言う場合もあるだろう。しかし、「わかる」ことを急ぎすぎ、その時間を稼げないと、私たちは多くの可能性を閉ざしてしまう。
→「私たちは「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき少し急すぎてしまう。」これは、名言でしょう。言葉を補えば、「私たちは、簡単にはわかることができない他者に出くわしたときに「わかりあおう」とし、またその「理解」は、かならず「自分の頭の中」で行われ、ただそのキャパシティは小さく、瞬時に決着をつけたいがために、その理解は少し急ぎすぎてしまうわけだ。」
→次の「しかし「わからない」時間をできるだけ〔外部委託して〕引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。」も名文である。ただ自分の中で引き延ばすというよりも、流れる時間を、すでに傍らで横たわっている時間の流れにシフトするという感じであろう。その時間の流れならば、人と人の違いを一旦受け止めてくれる。ただそれは「違い」を保存するだけである。
→そして、この時間に身を委ねた人たちには、3つの帰結がありえる。①自然に「わかりあう」(これができたらいいが、「自然」なので狙ってできるものではない、たまたま「わかりあう」くらいである。)、②「類型」を用いずに、意識的に「対話」をする→互いに「探り合う」じりじりとやる、最後に③「平行線」のまんま、という可能性がある。
→【コメント】「平行線」のまんまの可能性があるからこそ、むしろ人間関係は成り立つように思える。この「無関係」=「平行線」がどこかに可能性として残っていないと、すごい閉塞感があるように思える。そして、その「無関係」というカードが切れるからこそ、人と関係を作ろうと思えるのだろう。

・「「理解」という技法をあるときには断ち切って、「わからない」他者とともに「社会」を作ること。それは「希望と怖れ」がどちらも開かれている世界にそのままいつづけることを選び取る、ということだ。」
→他者理解の「経験的な可能性」を優位にせずに、「原理的な他者理解不可能性」と「経験的な他者理解可能性」を同列に扱う。それが同質な他者とも、異質な他者とも共にいられる方法なのである。
→「怖れ」を抱えきれないという人は知らん。

・【コメント】またこれは同書の戦略ではあるのだが、「理解」という技法を、同書を通じてよく知るということ。それを知ると、異質性を保つ技法が芽生えてくるのではないか。









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