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【読書記録】東浩紀『訂正可能性の哲学』、 第1部「家族と訂正可能性」を読む。

このnoteは、東浩紀『訂正可能性の哲学』に関する読書記録である。同書は2部構成で、第1部「家族と訂正可能性」、第2部「一般意志再考」となっている。今回は第1部に限定し、その内容を要約、パラフレーズした。また各章には自分のコメントを記している。

第1部 「家族と訂正可能性」

東浩紀は、普遍的な理性による「開かれた連帯」から始める今の"リベラル"に対して、「開かれ」から始めることは人間には不可能であることを指摘し、「閉鎖的なもの」として批判されがちな「家族」を、新たに「訂正可能性に支えられている持続的な共同体」というより柔軟な関係概念として捉え直す。それによって、個人の自由を実現する本来の意味での「リベラリズム」を、現実的な社会運動として展開する道を提示する。

第1章 家族的なものとその敵

第1章では、閉鎖的なものとして批判されがちな「家族」を再考している。 

その再考のテコとして、ポパーの『開かれた社会とその敵』における"家族なるもの"への批判を用いている。ポパーは同書で、プラトンやヘーゲルの国家思想が部族的で閉じられているものだと批判する。だが、もともとプラトンやヘーゲルの国家思想は、閉鎖的な「家族」と開かれた「市民社会」の対立を越えようとしたものであるため、ポパーは、閉鎖性を超えたものを再び閉鎖的と批判しているのだ。その"ねじれ"に東は目を向ける。つまり、プラトンらが家族(閉鎖性)の外に出ても、そこには家族(閉鎖性)しかなかった、という"逆説"に注目したのである。

哲学的な議論の後、東は人類学者であるドットの家族論を持ち出す。ドットは人類学的知見に元に「様々な政治思想はそれぞれ特定の家族形態に支えられている」と主張する。家を否定した共産主義であっても共同体家族を形成しているし、またポパーが目指す個人主義と自由主義であっても、核家族をベースにしている。そのような人類学知からして、ある特定の家族形態を否定しても、結局別の家族のイデオロギーの中でしか動けないことが見えてくる。

以上の議論を通して、東は「家族」を「開放的なもの」に対置される「閉鎖的なもの」と捉えるのをやめ、「閉鎖/開放」の対立を横断していくような"より柔軟な関係概念"として捉え直そうと宣言する。(第2章の序も含む)

※コメント
第1章では、我々が何か社会のあり方を構想する時、「家族」から必ず離れることはできないことを示している。それを、ポパーの議論における"ねじれ"、またはドットの人類学知を元に導いている。それを踏まえた東の方針は「家族なるもの」を批判するのではなく、「家族」というワードを引き受け、それを再定義することとなる。まさに「家族」という語を引き継ぎ、内容を訂正したのである。訂正可能性の実践とも言えるだろう。また私としては、東の「家族から離れられない」という主張の妥当性は置といて、「家族」を”より柔軟な関係概念”として捉えるのは賛成である。

第2章 訂正可能性の共同体

第2章では、コミュニケーションや言語が成り立つための条件を踏まえて、それを支える言語共同体の性質を考察している。

東はまず、後期ウィトゲンシュタインが、自らの「言語ゲーム」概念に比喩として用いた「家族的類似性」を出発点に、共同体を考察する。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」では、あらかじめ言語には何かしらの規則があり、それに基づいて言語行為、コミュニケーションをしているという理解を否定する。そうではなく、我々は、言葉を用いたゲームをしているというのだ。だが、最初からそのゲームの規則がわかっているのではなく、実際に発話を繰り返しながら、試行錯誤でその規則を学んでいくものとして捉えている。また日常の中では、ひとつの言語ゲームを行なっているのではなく、ルールの異なる複数のゲームが重なり合っている状態であるという。このとき、それら複数のゲームは「共通の本質なるもの」を持っているのではなく、各々がそれぞれと別々な共通点をもっているような「家族的類似性」でまとまっている。また、共通の本質がないままゲームが重なり合っているため、家族的類似性の中を転々と移動しえるのである。この柔軟性に東は注目する。

次に東は、以上のウィトゲンシュタインの直感的な洞察を論理学的な理論として捉え直した哲学者ソール・クリプキを参照する。クリプキは、原理的に解決することができない屁理屈を持ち出し、我々はなぜそれを屁理屈としてキャンセルできるのかを考察した。その屁理屈とは、クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』に出てくる「クワス算」である。クワスとは「+(プラス)」をもじった語で、「足した結果が125以上になれば、結果を5にする」演算規則と規定されている。そこでクリプキは、ある懐疑的な思考実験する。私たちが使ってきた「+」はもしかしたら、加算ではなく、それにそっくりなクワスだったかもしれない、と。この主張に対し、私たちは大きな違和感があると思うが、クリプキはこれを原理的に反論することができないという。反論するには「+」で加算を意味することを証明しなくてはいけないのだが、それを説明するための語も「なぜそのような意味として使えるのか」と再反論されてしまうのだ。このように「言語における規則や意味は実在せず、つねにそれらは訂正される可能性を孕んでいること」を論理的に示したのである。しかし、私たちはなぜ「+」を加算として使えるのであろうか。そこで、クリプキは「規則や意味を共有している言語共同体」が必要であるとする。つまり、私たちは「+」を加算とする共同体にいるから、「+」を加算として使えるのだ。

ウィトゲンシュタインを論理学的に整理したクリプキの共同体論に、東は再びウィトゲンシュタインの視点を重ね、拡張させる。クリプキの共同体論は、端的に言えば「共同体の中に規則なるものがある」となる。このとき共同体内部の規則ではない、別の規則で言葉を用いたプレイヤーは、共同体から排除される。また、異なる規則で用いていた部外者は、内部における規則に使い方を「訂正」したら共同体に入れるという。クリプキはこのように共同体からプレイヤーに向けられる「訂正」は扱ったが、東は外部のプレイヤーから共同体へ向けられる方向も含め、共同体自体に「訂正可能性」を考える。そして、現実にも規則は移り変わっていくことを指摘し、「訂正の運動」を軸にした持続的な共同体論を立ち上げる。以下の文は、一回一回の「訂正の運動」に重点が置かれているのが分かる文章である。

「規則が共同体を生み出すわけでもなければ、共同体が規則を生み出すわけでもない。むしろ、プレイヤーたちが繰り出すプレイについて下される毎回の成否判断、そしてそれに付随する「訂正」の作業こそが、規則と共同体を共に生み出し、ゲームの形を動的に更新していくと考えるべきではないだろうか。」(p. 62)

この「動的に訂正され更新される共同体」に、東はウィトゲンシュタインの「家族的類似性」を重ねる。それは「家族的類似性」のように、複数のゲームが各々、それぞれと小さな共通点があるくらいの「ゆるやかな同一性」を持ちながらも、転々と別のゲームに転じていくような様子である。東がここで想定しているのは、公園で遊ぶ子供の集団である。公園で遊ぶ子供達の遊びは、いつのまにか別の遊びに変わっていったりする。またいつのまにか最初の子供達はいなくなり、すっかり参加者が入れ替わっていることもある。でも、子供たちが公園で遊んでいることは「持続」しているのである。ここでは断続的に遊びがケイドロからかくれんぼになることはない。遊びの内容はケイドロからかくれんぼへ連続的に訂正されるのである。このような集団を東は「家族」と捉える。

最後に、東は「なにもかもが訂正されるというなら、たんになにも守っていないだけではないか」という疑念に対し、クリプキの固有名論を通して「すべてが修正されうるにもかかわらず、なお同じものが残り続けるという逆説」を提示する。固有名は、例えば「ソクラテス」や「アリストテレス」などの人名や地名などである。この固有名について、ラッセルらの記述理論では複数の確定記述「Xは男性である」「Xはアレクサンダー大王を教えていた」などの足し合わせで記述することができるというが、クリプキはそのような確定記述で固有名を定義した場合、反実仮想をした文章において矛盾が生じてしまうと指摘する。例えばアリストテレスで言えば「アレクサンダー大王を教えた人物は、アレクサンダー大王を教えていなかったかもしれない」と反実仮想した文章は、意味をなさない。しかし私たちが反実仮想した文章は有意味であるし、史実的に「アリストテレスがアレクサンダー大王を教えていない」と発見されるかもしれない。もし史実として「アリストテレスがアレクサンダー大王を教えていない」と発見されたら、我々はどうするのだろうか。ここに再び「訂正可能性」が出てくる。このとき我々は「あのアリストテレスはいなかった」となるのではなく、同じ「アリストテレス」という語を用いて、アリストレテスが意味するものを訂正するだろう。ここに、すべてが訂正可能であり、何もかもが変わりながらも、それでもなお「同じ何か」を守っている様が見えるのである。

以上のように、東はヴィトゲンシュタインとクリプキの言語やコミュニケーションに対する哲学的論考を参照しながら、そこから逆説的に分かる「共同体の性質」を検討していた。そのとき共同体を静的なものとして見ず、「訂正の運動」が持続しているものとして考えるのが特徴的であった。

※コメント
私の印象であるが、東は第2章で、共同体の空間的閉鎖性に、時間的持続性を入れることで「家族」概念を"より柔軟な関係概念"としているように思える。例えば、p.62のクリプキの静的な共同体理解から、動的な共同体理解への拡張する論理は、思想史における、スタティックな構造を捉える構造主義から、時間的ダイナミズムも含めるポスト構造主義への転換と並列に考えることができるだろう。しかしポスト構造主義は、空間性に対しても共時的な構造から逸脱する差異が常に含まれていることを指摘している。これは、東がウィトゲンシュタインの「家族的類似性」という語によって含意されているのだろうが、つまり単一のゲームをやっているのではなく、異なるゲームが重層的に交差しているものとして共同体を想定しているのだろうが、その時、既存の秩序と逸脱の緊張関係や、ゲーム間同士の力学関係性が全て「家族的類似性」としてひっくるめているように見える。ここに私は、東の「家族」概念が、空間的には閉鎖していると感じる。また「訂正する」と言っても、訂正されるときには、共同体とプレイヤーとの間に緊張関係があるはずで、必ず「通約不可能」とでも言える状況を経験する必要がある。また、共同体に阻害されているプレイヤーは、この通訳不可能な状態の最中で、共同体の内部で生活することもあるわけである。このような状況を括弧に入れている部分が、まさにマイノリティ運動との関連で批判されるところなのではないだろうか。

「いくらでも訂正可能である」は、ポストモダニズム的な態度で好感が持てる。

また本章は、1998年の東浩紀『存在論的、郵便的』の第2章「2つの手紙、2つの脱構築」の内容を、デリダの名前を使わずに書いていると読める。郵便本の第2章は、あの有名な「否定神学批判」を論じている部分であるが、クリプキの固有名論をいかように解釈するかをめぐる議論でもある。そこには共同体の議論も含まれる。私はいつか、『訂正可能性の哲学』における本章「訂正可能性の共同体」と『存在論的、郵便的』の第2章「2つの手紙、2つの脱構築」を比較して、東がどのように郵便本の内容を再整理しているのかを検討してみたいと思う。


第3章 家族と観光客

第3章では、前作『観光客の哲学』で展開された「家族」と「観光客」に、これまでの議論を接木している。

これまでの議論を踏まえ、東は「家族」を「訂正可能性に支えられる持続的な共同体」と再定義する。前作『観光客の哲学』においては、「家族」の構成原理には「強制性」「偶然性」「拡張性」の3つの性格があることが示されていた。まず1つ目の「強制性」は、人間は生まれてから何かしら「家族らしきもの」に属してしまうことである。2つ目の「偶然性」は、その家族は選ぶことができない。必然性がないことである。3つ目の「拡張性」は、常に家族の境界、構成員は変化していくことである。この3つの性質は、ウィトゲンシュタインやクリプキの言語共同体の議論からも見えてくる。つまり、何かしらの言語共同体があるから我々は言語が使えるのだが(所属の強制性)、その共同体が持つ言語の規則に必然性はなく(規則の偶然性)、それは常に訂正可能性を持っている(規則の拡張性)。また、それは断続的に拡張されるのではなく、常に持続的な訂正の運動によって拡張させる点も、「同じゲーム」を続けているように見える「家族」像と繋がるだろう。

一方、東の「観光客」は、カール・シュミットの友と敵の対立に対して、第三の立場を提起するものであり、現代社会における「新たな連帯のあり方」を提示したものである。例えば、ある村があり、その村固有の問題があるとする。そのとき、ある村と全体との間に明瞭な境界が引かれていると、その問題はその村に住んでいるものしか扱えず、外部から何か手出しをすることができなくなってしまう。そこで東は「観光客」という、その村には定住しないが、一時的に村にいる者のメタファーを用いて、その村の問題に「中途半端なりにもコミットメント」する連帯のあり方を提示する。東は、これまでの議論を応用し、完璧にコミットメントすることの不可能さを踏まえ、むしろそれを肯定し、「柔軟で現実的な連帯」を考えたのである。

また、そのとき「誤配」という概念が鍵になる。「誤配」とは、「メッセージが届くべきひとに届かないこと、逆に届くべきでない人に届いてしまうこと、届いたとしても想定外のタイミングで届いてしまうこと」を意味する。東は、この「誤配」は、数学のグラフ理論における「つなぎかえ」と同等であるという。つまり、ランダムに選ばれたところに接続してしまうことである。これによって我々の共同体は閉じずに、開かれ、持続していくのである。東は「共同体は、それまでプレイヤーのあいだで共有されていた意味や規則のネットワークが、ランダムな誤配=つなぎかえによって半ば強制的に「訂正」されることで持続可能性を獲得するのである。」といい、誤配が「訂正」を生み出すとしている。

以上のように「家族」と「観光客」は、「訂正可能性」または「誤配」という概念によって繋がれる。「家族」、それは「訂正可能性に支えられる持続的な共同体」であり、構成メンバーはラディカルに考えれば「観光客」となる。つまり、我々は常に「観光客」にあちこちに出向き、むしろそれによって訂正の運動が起こり、それらは持続的な共同体へとなっていくのだ。

※コメント
この章は、私が前作『観光客の哲学』を読んでいないので、浅い部分でしか整理できなかったが、本章は、これまでのウィトゲンシュタインとクリプキの言語共同体論、そこにおける「訂正可能性」を踏まえることで『観光客の哲学』で不十分だった部分を補うといった章と言える。

第4章 持続する公共性

第4章では、現代日本社会の”リベラル”が陥っているアポリアを指摘し、過去の哲学者を読み返すことで、その行き詰まりをどのように超えていくかを提示している。

今の日本社会における政治的対立は「閉鎖的」か「開放的」かの対立であり、「開放性」から始める現代の”リベラル”はアポリアに陥ると東はいう。政治的対立は、よく”保守/リベラル”と考えられているが、思想史を考えれば、別にこの2つは対立しない。「保守」とは「革新」に対立するものであり、急激な社会変革に懐疑的な態度である。「リベラル」は自由であり、個人の自由を重んじる態度である。そのためリベラルな保守主義というのもあり得るのだ。では今、何で対立しているかというと、共同体の内部における「共通感覚」を重視するか、自由で平等な個人の間の相互性を重視するのかという「連帯の感覚」の対立であると東は考察する。これは言い換えれば、閉じた共同体か、開かれた公共性かという対立でもある。しかし、これまでの議論で見てきた通り、人間は「開放性」から始めることができないのであった。現状の”リベラル”と呼ばれるサイドが、ある種の行き詰まりがあるのは東から見れば、必然なのである。

そこで東は、ローティの連帯論を参照し、「わたしたちリベラル」から連帯する柔軟な連帯のあり方を考える。ローティは、著作『偶然性・アイロニー・連帯』にて、連帯は「共感」や「想像力」が必要であるという。これは、思想や価値観の共有ではなく、目のまえの他者が感じている「苦痛」への共感の方に、連帯の基礎を置いたということである。この共感は、身近なものたちから始まるものであるため、「民族中心主義」であると批判される。しかし、ローティの考えとしては「共感や想像力は「わたしたち」から出発するしかない」というのだ。しかし、それは偶然的であり、その範囲は常に曖昧であるため、他者への共感を介していくらでも修正し拡張することができるのである。それがローティの思想なのだと、東はパラフレーズする。これは、東が再定義した「家族」と同等である。東は以下のように続ける。「リベラルな「開かれ」にまっすぐ向かわなくても、保守的な「閉ざされ」を絶えず訂正し、再定義し続けることはできるのであり、そちらにこそ新しい政治思想の基礎を置くことができるだろう。」と。これまでの内容でも再三提示しているが、東は「開放性」から出発するのではなく、「閉鎖性」から出発し、その境界を訂正され続けるような道を思索しているのだ。

東の結局の立ち場は、リベラルな理念を持ちつつも、その理念を求める運動は「わたしたち」から始まる持続的なものでなければならないというものである。東は、あらゆる偏見、あらゆる差別は乗り越えられるべきであり、つまりあらゆる個人の自由を尊重されるべきであるとし、「その点でリベラルの立場に立つ」とする。しかし、その理想の実現は過去をリセットし、断続的に成し得ることはできないとする。東は、「過去の不条理さをある程度許容しつつ、しかし同時につねに訂正可能性に開いていくような、持続的な運動を経由して実現されるほかない」と考える。東は「現実的な社会変革の態度」として、非現実的な「開かれ」から始めるのではなく、「閉じられ」に基づきながらも、それを訂正していく運動へと向かったのである。

※コメント
ローティの次に、東はアーレントの「公共性」概念を再解釈する。アーレントの「公共性」は開放性と同等に考えられてきたが、そこに時間的持続性もあることを指摘する。そして、その「公共性」は、東自身が考える「家族」=「訂正可能性に支えられている持続的な共同体」と同じであるとする。これは画期的な論考であると思うが、自分が簡単にまとめられないと思い、ここでは省略した。

東の立場は、中島岳志『リベラル保守宣言』の立場と同等であると考える。中島も、同書でリベラルと保守は別に相反する概念ではないと説明する。保守とは、革新に対しての懐疑であり、伝統(これまで積み重ねてきたもの)に依拠しながら「漸進」するものである。そのため、リベラル的な理念を持ちながら保守であることは可能であるというのだ。また、その点保守は、反動や復古などの右派的勢力とは異なる点も指摘している。東は「人間の限界」から、我々は漸進=保守であらざるをえないとする立場であるが、それは学術的にはどのように位置づけられるのかに興味がある。

補論 人文学における「訂正可能性」

東は、この本の方法論でもある「人文学」に対しても自己言及し、人文学も「訂正可能性」に支えられていることを指摘する。以下は、気に入った文章の切り取りである。

「人文学は過去のアイデアの組み合わせで思考を展開する」

「プラトンはこう言った、ヘーゲルはこう言った、ハイデガーはこう言った・・・
といった蓄積を活用し、過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。」

「ぼくが行なったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・といった訂正の連鎖の実践である。」

「訂正可能性が排除できないことこそ、人文学の持続性を保証するのだ。」

※コメント
人文学は、「これまでの知の積み重ね、その分厚さ」に立脚するといってもいいだろう。そしてその立脚している知を常に読み替えていく、訂正していくこと。自然科学が「地に足がついている」学問であるなら、人文学は「知に足がついている」学問なのだろう。






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