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【書評&エッセイ】虚しく「退屈」をしのぐのではなく、豊かに「退屈」をしのぐには。ーー國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と共に

暮らしを豊かにしたくて、暮らしをメタ的に考えるとき、そのメタ的思考が肥大しすぎると、暮らしを豊かにする時間を圧迫する。それよりも、はるかに暮らした方がいいし、自炊した方がいいし、庭の手入れをした方がいいし、楽器を弾いた方がいい。その方がはるかにいい。

もう案外、メタ的に思考する足場は出来つつあるのではないか。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読めた時点で、だいたい十分である。

と、先ほどBlueskyに投稿した。Twitter(現 X)は、もう下水道みたいなっているので、Blueskyに移行し、ゆるく人と繋がっている。いつもは「今日は、角煮を作りました」「今日は、ミートソースをつくりました」などを報告したりしているが、たまにこうした投稿をすることがある。今回は、このポストの内容を少し広げてみたいと思う。

基本的に、自分の行動原理は「暮らしを豊かにしたい」ということである。暮らしの中で生まれている喜びをうまく感受することができたら幸せだな、と思っているのだ。太陽の日差し、鳥の鳴き声、風の流れ、夕方の空模様、肉が焼ける匂い、ニンニクの香り、味噌汁の温もり、ギターの和音、そのつながり、声を出す時の体の緊張と弛緩、暮らしの中にはいろんな喜びがころがっている。それをうまく感受できる心の余裕と、時間の余裕、または経済的な余裕、それをいかにこの忙しない乱世の中で確保し、生き延びることができるのか。正直、それしか考えていない。

これを考える際、多くの面で助けになっているのが人文書である。一般に歴史、宗教、文学、哲学分野の本であるが、より大きく言れば「人の営みに関する本」である。人はこれまでどのようなことをしてきたのか、どういう思考を巡らせてきたのか、どんなものを書いてきたのか、具体的にどのような社会をつくってきたのか、などなどが書かれている。本を通じて、単にそれを知るだけでも良いし、それを元に今の生活を振り返るのも良いだろう。その際、私は後者の価値を人文書に求めているのであった。

そんな人文書の中でも、人類は「暇」とどう付き合ってきたのか、について書いているのが國分功一郎『暇と退屈の倫理学』という本である。狩猟生活から、農耕生活に移行してから、人類には時間ができた。時間ができたのだけれど、人間は本性的に適度な「刺激」「負荷」が必要なのである。そうしないと「退屈」してしまう。この人類史の転換として生まれた「暇と退屈」問題。この中で、我々はどう「善く」生きられるのだろうか。

國分がいうには、現代において、この人間の性質を悪用した消費社会によって、人々がより「退屈」しているというのだ。消費社会は「目新しいさ」という刺激によって商品を買わせているのだが、その商品は「目新しい」というだけで、肝心の中身がないのである。なので人々は実質的に満足することがない。こうした単にイメージを「消費」しているだけでは、人間は満たされないのである。

そのあとの議論はすこし難しいのだが、國分はハイデガーやユクスキルなどを引用、かつそれを批判する中で、退屈を「優雅で教養深い気晴らしで解消するか」、または「未知なものを受け取り、そこに没入することで退屈じゃなくするか」という案を出す。なぜそうすることが、虚しい「退屈」のしのぎ方ではなく、豊かな「退屈」の凌ぎ方になるのか。は、同書の哲学的な考察を検討してくださいな。

正直、國分功一郎の本を足場に、かなり暮らしのメタ思考ができるようにはなっているのである。だから、そうした暮らしのメタ的考察を一から、また自分で組み立てなくてもいいのかな、と思うことがある。というより、それをやろうとして、自分の暮らしが圧迫したら元も子もないのである。たまに頭でっかちになってしまうことがあり、それにのめり込みそうになることがあるのだが、ベースはメタ的考察優位ではなく、実際に暮らすことを優位に。これは大事なスローガンである。



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