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【エッセイ】鑑賞についての試論

先週まで、旅行でヨーロッパに行っていた。パリ(フランス)を拠点に、ニース(フランス)、ローマ(イタリア)、フィレンツェ(イタリア)、ベルリン(ドイツ)を回った。充実した日々だった。街並み、食事はもちろんのこと、現地にある絵画、建築物、また現地を拠点にしている演奏家による音楽などを鑑賞できたことが、とても良かった。本でしか観ていなかった絵画、CDでしか聴いていなかった演奏、それを生で見れる、直で見れる、聴けるというのは、とても嬉しいことだ。それまでの経験が徹底的に嘘というわけではないが、オリジナルと対峙する経験は、それまでよりも濃い経験になるはずだろう。

今回のnoteでは、旅行中での作品鑑賞を通じて、考えていたことをいくつか書いてみようと思う。その際、具体的な作品を例に挙げることもあるが、それを通じて作品を鑑賞すること一般に繋げて論じてみたい。これは大きく言えば、鑑賞論である。

描いた経験のない私と、巨匠が描いた絵画

今回考えたいことの一つ目は、「自分が絵を描く者であったら、もっと観るのが面白いんだろうな」という感想を発端としている。私は絵を描いたことがない。描いたことがあるとしても、それは義務教育の中で描いたにすぎず、それは描いたといっても、描かされた程度で、真剣に取り組んだものとは言えず、記憶としては正直乏しい。私が絵画についてわかることは「ある無地の平面に、何か色のついたものを、道具を使って塗る」ことくらいで、描き手は何を意識して、何に苦労して、どんな問いがある中で描いているのかは知らない。そのため正直、絵画について何を見ればいいのか、分からないのだ。絵画に向き合ってこなかった人生であるから、絵画の良し悪し、注目するポイントについて、外部の評価以外の見方ができないのである。

先の感想を抱いた背景には、「描くことは、同時に観ることでもある」ということ、より踏み込めば「良い描き手は、良い観賞者でもある」ことがある。これは、文章についてよく言われる「書くことは、同時に読むことでもある」、「良い書き手は、良い読み手でもある」という話とパラレルであり、そのことを絵画観賞時に強く意識させられたのであった。

ヨーロッパ旅行に持っていた本が1つある。それは造形作家である岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』だ。この本は、大きく言えば、ルネサンスの芸術家ブルネレスキ、それとマサッチオの作品に関する批評である。そこでは精密な作品読解がされており、特にブランカッチ礼拝堂にある壁画に対する分析には舌を巻く。この分析の緻密さ、これは著者が作家であるが故に見えることなのではないか… 特にそう感じたのは、同書のティツィアーノ『田園の奏楽』に対する分析である。ここでは、『田園の奏楽』内の各部分がそれぞれ異なった描き方、画法で書かれているとされ、それが観る者の視線を分裂させているというのだ。

ティツィアーノ『田園の奏楽』

「彩色、筆触、明暗、色調、肌目、形態という画面を組織するそれぞれの文法が全く別個に画面を連合し、そのつど異なる平面を浮上させる。それを見る者の視線は、異なる文法による視覚ゲームを同時に遂行することを要求されたかのようにその度に分裂させられる。」(p.46)

「彩色」「筆触」「明暗」「色調」「肌目」「形態」… 描いたことがない私にとっては、そんな視点頭に浮かばない。「なるほど、これが作家の目か」と、驚いた。そして一つ一つ、その批評の内容をなぞりながら作品を見てみる。すると「はいはいはい!言わんとしていること、わかりますよ」となってくる。不思議だ。批評を通してみると、絵が別様に見えてくる。「これが批評の力か」とも驚く。

実際に描いている人は、よく観ることができる。そのことをとても実感した。


その魅力に巻き込まれてみたいが、そう簡単ではない。

私が頑張って絵画から「意味」を見出す、または魅力を見つける、そんな自分のセンスを過信した鑑賞からは離れよう。そうではなく、単に人間の感性というシステムだけを携えて、作品のまえに立ってみる。作品に身を任せてみる、なにも頑張る必要はない。そして、その作品から何かを受け取る、もしくは作品が持つ魅力に巻き込まれてみる、そうした受動的な、または中動態的とでもいうような態度で鑑賞してみる。

これまで、このように鑑賞を考えていた。だがそれは結局、読んできた本の受け売りで、鑑賞を頭だけで、頭でっかちに考えていたのである。別の言い方をすれば、人の言葉を通じて鑑賞を考えていたのである。こうした地に足つかない思考は、現実を前にして打ちのめされるが世の常である。それは今回も例外ではなく、こんな思弁は思弁でしかないことを思い知った。


「風呂に10秒肩まで浸かる」ように観る

作品を前にして、「作品に身を委ねよう」と弛緩してみる。

・・・

何もピンと来ない。いや、もしかしたら何かピンと来るものではないのかしれない。ムムム、分からん。分からんぞ。このやり方で以って作品を見た時はちょっとピンと来るみたいのがあったけど。んーどうも、これまでの私の持っている浅い観賞経験と入り知恵によって構築された観賞法はあまり本質を突いていないのかもしれない。

そのときは、南仏ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂を見ていたのだった。んー、分からんーと思いながらブラブラする。少しして、ロザリオ礼拝堂に関する建築家・中村好文の記述を思い出した。

マティス「ロザリオ礼拝堂(前方)」

「十年ほど前、初めてロザリオ礼拝堂に足を踏み入れた時、私には堂内があっけないほど簡素に感じられました。正直言うと、「ちょっと物足りない」と思ったほどでした。おそらく「マティスの畢生の大仕事」という先入観から、知らず知らずのうちに、もう少しドラマティックな空間を想像し、期待しすぎていたのかもしれません。しかし、しばらくその場にたたずむうちに、ステンドグラスを透過した自然光が満ちあふれる堂内で、大きな安堵感が心の底から湧き上がってくるのを感じ始めていました。それはちょうど、純白の真綿でできた清楚な空気にふうわりと優しく抱きすくめられるような気分でした。ステンドグラスと壁に嵌め込まれたタイルに描かれた素描、幾何学的な祭壇とその上に置かれたブロンズの燭台、針金細工の灯具と木製の家具、マティスが丹精込めてつくりあげたそれらの作品たちが、たがいに見つめあい、対話しあい、頷きあって、穏かさと緊張感の入り交じった清澄な空気を醸し出していることに気づいたのです。そしてこのとき、「色彩」と「描線」と「素材」と「形態」の揺るぎないハーモニーこそ、マティスがこの礼拝堂で目指した究極の到達点だったことに思い至りました。」(中村好文『意中の建築 上巻』p. 134)

中村さんも、最初はそっけないもののように思えたと。ただ「しばらくその場にたたずむうちに」、大きな安堵感が湧き上がってくるのを感じたと言う。そのときの文脈は、はじめロザリオ礼拝堂に「ドラマティックな空間」を期待していたがゆえに、そうした先入観なしにロザリオ礼拝堂を見るために時間がかかったと読める。中村さんの中では、そうした順序で「しばらくその場にたたずむ」ことが機能していたのだろう。ただ私はそうした順序抜きで、一回「しばらくその場にたたずむ」ことを試みた。つまり、形から入ったのである。「いいから、やってみよう!」と何も考えずにやってみたのだった。時間を気にせず、じっとその空間にいてみる。各壁面を何回も見返してみる。分からないなりに、見続ける。すると、どうだろうか。ステンドグラスからの光、正面の「生命の樹」の存在感。その存在感を消さないかたちで存在している、それぞれの壁画。それぞれの壁の作品同士が呼応している様子が、よくわかってくる。驚いた。

この体験は、なんとも神秘的な体験なわけだが、ただ言えることは作品の魅力、本質を受け取るまでには、時間がかかったことであろう。感覚としては、本質が自分に「沁み込んでくる」までには、まあまあな時間が必要という感じがする。瞬時に魅力がわからなくても、まずはじっと待ってみる。すると、じんわりと魅力がわかってくる。

そのとき、これはまるで「風呂に10秒肩まで浸かる」論理と同じだと思った。とりあえず、10秒。子供のときは「理」ではなく「快」で動く、だから「体を温めるため」という目的のためにお風呂に入るのではなく「気持ちいいから入る」のである。でも、どこか不快を感じたら、浸かるのをやめてしまう。それに対して「風呂に肩まで10秒浸かる」という命令への「従」で一定時間お風呂に浸かる、浸からされるのである。そうすると「体が温まる」というのが適切に達成される。

ここで大事なのは「快」だけで動かないことである。ちょっと「従」の論理を入れてみる。作品の魅力に触れていないのに、作品の前にいることは不快であろう。何も得られないのに作品と対峙し続け、緊張関係にあるのは辛い。離れたい。どっか別の場所に行きたい。そのとき「快」に従えば、作品から離れるという行動に至るだろう。そこを踏みとどまってみる。その踏み留まりは「従」の論理である。自分があらかじめ決めた”謎”ルールに従う。すると、じんわりと作品の魅力が自分の方に「沁み込んでくる」。



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