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【評論】庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』評ーー閉じこもるか、溶け合うか、その二者択一の中で

2021年に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」が公開され、1995年にTVアニメシリーズとして始まった『新世紀エヴァンゲリオン』は、主人公の「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というセリフと共に幕を閉じた。TVアニメシリーズが始まった1995年、日本では「阪神淡路大震災」「オウム真理教 地下鉄サリン事件」など大きな出来事があり、また政治や経済においても「変わり目」の年であった。それらと同列に語っていいのか分からないが、『新世紀エヴァンゲリオン』も当時の社会現象の一つとして語られることの多い作品である。単に内容が良かったというよりも、当時の日本社会が抱える問題と呼応していた作品だったのだろう。今でも、同作品を参照しながら、当時を振り返る批評家が多くいる。ただ今回は、そうした社会批評をしたいわけではない。今回はただ素朴に、『新世紀エヴァンゲリオン』に見られる「人間関係」の描写に注目したい。


「私」と「あなた」の葛藤が、セカイの危機に繋がる

早速内容に入りたいのだが、『新世紀エヴァンゲリオン』とは、何だろうか。というのも、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、なかなかに捉え難い作品のように思えるからだ。ひとまず、ニュートラルに事典の言葉を借りてみたい。そこには「宇宙から襲来する『使徒』と戦う兵器『エヴァンゲリオン』に乗る少年少女の苦悩を描」いたアニメーション作品(「デジタル大辞泉プラス」)と書かれている。これはかなり的確な説明だろう。つまり同作品は「戦闘」を通した、人間の「苦悩」の物語だと言っているのだ。まあ実際そうなのだが、以下、少し補足を加えてみたい。

タイトルにある「エヴァンゲリオン(以下、エヴァ)」とは、先の説明の通り、人類が作り出した人型の兵器であり、主人公らはこの「エヴァ」に乗り、人類滅亡を目的とする謎の生命体「使徒」と戦っている。また、この「使徒」は「A. T. フィールド」という強力な不可視の防壁を周囲に展開しているため、通常兵器ではそれを突破することができない。そのため、同じの防壁を展開し、相手の防壁に干渉することのできる「エヴァ」のみが「使徒」に対抗できるのだ。なお、この「エヴァ」のパイロットになるには条件があり、パイロットは中学生程度の少年少女でなければならない。そのため物語は、設定上、人類の運命が、ある特定の少年少女らにかかっているという構造になる。これは逆に言えば、自意識が不安定な時期の少年少女らが抱く苦悩が、直接「世界の危機」へと繋がる構造(「セカイ系」)なのだ。本来であれば、こうした人類存亡をかけたプロジェクトにおいて、パイロットはいくら子供でも公平無私であるべきだろうが、同作品にはそうしたリミッターがない。そのため「私」と「あなた」の私的な関係における葛藤がより極端に、壮大な規模で表現されるのである。これが『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の大きな特徴なのだ。


「みな、ひとつに溶け合えたら」という夢

この特殊な構造を、物語の鍵になる「人類補完計画」に即して見ていこう。この「人類補完計画」とは、人類全体を「自と他の区別のない単一の生命体」に人工進化させる計画のことである。別の言い方をすれば、個々に分かれているが故に争いが絶えず、互いを滅ぼしあう人類を救済するための計画である。「自と他の区別のない」状態、人間がひとつに溶け合った状態になれば、偽りもなく透明な関係になれ、全ては分かり合われ、すれ違うこともない。それが「人類の補完=完全化」である。この人類の完全化=補完が、物語序盤から続いている「使徒」との攻防の裏で計画されている、それが『新世紀エヴァンゲリオン』の大きなストーリー展開である。

この全人類が関わる「人類補完」なのだが、その儀式のトリガーとして用いられるのが、主人公の個人的な「他者と一体化し、悲しさを忘れたい」という強い想いなのである(旧劇場版の場合)。主人公である碇シンジ(14)は、母親を幼い頃に亡くし、また父親と関係がうまくいっておらず、また自分が他人にどう思われているのか、また自分の言葉や行動が相手にどう伝わっているのか、を常に気にかけている。「どんな自分でも相手は受け入れてくれる、そんな保証はどこにもない」、この保証のなさが頭の中で肥大し、他人と接することがどんどん怖くなる。どんな自分なら相手に受け入れてもらえるのだろうか。この相手は自分を受け入れてくれるのだろうか。そうした疑念が頭から離れない、そんな状態である。このように自意識が過剰に逆立ち、他者に対して過敏になっている主人公、それと他登場人物たちが人類存亡の危機を前に互いに期待し合い、すれ違い、苦しみあう。この苦しみが、具体的な相手との一体化を駆り立て、それが「人類」の補完(みんな、ひとつに溶け合えばいいのに)へと繋がる。この規模移行の極端さ、これが同作品の特徴であり、魅力と言えよう。


「心の壁」である「A. T. フィールド」

ここでひとつ、同作品において注目してみたいことがある。それは「A. T.フィールド」である。先ほど「A. T. フィールド」は、人類を襲う「使徒」が用いる防壁であると言ったが、これは人間一人一人がもつ「心の壁」であることがTVシリーズ第24話で明らかになる。つまり「他者を拒絶し、自らの体や精神を保持する為に無意識的に作動する」ものなのだ。これは例えば、相手と分かり合えないことの辛さ、自己開示をして相手が応えてくれなかった時の寂しさ、それゆえに自分の殻に閉じこもることに他ならない。心を開かなければ、自分が傷つくこともない、相手から自分を守るためのそうした「絶対領域」、それが「A. T. フィールド」なのである。

ただそうした「自己への閉じこもり」は「他者との同一化」を願うがあまり、起きてしまうのだ。相手に自分のことをわかってもらいたい。自分の全てを受け止めてほしい。そう願えば願うほど、その不可能さが顕わになり、その反動で自己に閉じこもる。上手い具合に相手を信頼することができず、「100」か「0」かの世界なのである。ただ「0」は「0」で、辛い。そのためもう一度「他者との同一化」を願う。まさに「ヤマアラシのジレンマ」である。永遠に解決することのないこのジレンマに人間は苦しんでいるのである。閉じこもるか、溶け合うか、それは表裏一体であり、このどちらかしかないと視野狭窄に陥ってしまうのは、人間のある種の性なのだろう。


「力の拮抗」、身体の強張り、他者の拒絶

また、この「A. T. フィールド」が「心の壁」の具象だとすると、『新世紀エヴァンゲリオン』の戦闘シーンに対する見方が少し変わってくるように思える。特にTVシリーズ最後の使徒である「渚カヲル」との戦闘、カヲルの乗る弐号機と、シンジの乗る初号機がいがみ合うシーンは、敵対するカヲルにシンジが心を許したばかりに、これまでの「使徒」との戦闘とは違ったテイストを読み取れるだろう。つまり、カヲルくんとシンジくんの精神レベルの対立が、弐号機と初号機の物理的、身体的ないがみ合いとして表象されていると読めるのである。

図1: 『新世紀エヴァンゲリオン』第24話

カヲルくんは、能力として「A. T. フィールド(心の壁)」をコントロールし、相手との「シンクロ率」を調整することができる。そしてカヲルくんは、自然とシンジくんと距離を縮め、またシンジくんの心を開かせていく。シンジくんも心を許せる存在に出会い、嬉しく思っていた。だが、カヲルくんは「使徒」だったのだ。シンジくんはそのことを受け止めることができず、「裏切ったな、僕の気持ちを裏切ったな!」と、カヲルくんを責め立てる。その後、シンジくんの乗る初号機は、カヲルくんが操る弐号機と接触し、カヲルくんを止めようとする(図1)。両者の力は拮抗し、その拮抗の中でより優位に立とうと、両機の「身体」は強張る。このとき、身体特有の「メディア性(媒介性)」(伊藤亜紗『手の倫理』における、身体の「(相手に身を)ゆだねた分だけ(相手の情報が)入ってくる」性質)は失われている。言うなれば、互いの「身体」は自らの意志で埋め尽くされ、相手が入る隙がない状態である。つまり「身体」そのものも「他者を拒絶している」のだ。

図2: 『新世紀エヴァンゲリオン』第24話

その後、拮抗していた「プログレッシブ・ナイフ」がズレ、刃先が浮遊しているカヲルくんに向かう。カヲルくんは、そこに「A. T. フィールド」を展開し、ナイフの進行を許さない(図2)。踏み入られることのない「絶対領域」、すべてを受け止めてくれると思っていた存在の受け入れ拒否。この強固な「A. T. フィールド」と「プログレッシブ・ナイフ」の拮抗には、その拒絶の度合いが表象されていると言えるだろう。同場面での「力の拮抗」、それに伴う「身体の強張り」という身体描写も相まって、その時のカヲルくんに裏切られたシンジくんの辛さが一層伝わってくるのであった。


「でも僕はもう一度会いたいと思った。」

同作品は、すべてのシリーズで「人類の補完」が遂行されるが、途中、主人公の決心により失敗に終わる。最後、補完された世界で、それでも主人公が「すれ違いながらも他者と生きること」を選ぶシーンを引用して、今回の評論を終えたい。

レイ: ここはL.C.L.の海 生命の源の海の中、A.T.フィールドを失った自分の形を失った世界、どこまでが自分でどこからが他人なのか分からない曖昧な世界 どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている脆弱な世界

シンジ: 僕は死んだの?

レイ: いいえ すべてが一つになっているだけ これがあなたの望んだ世界 そのものよ

シンジ: でも、これは違う 違うと思う

レイ: 他人の存在をいま一度望めば再び心の壁が全ての人々を引き離すわ また他人の恐怖が始まるのよ

シンジ: いいんだ ありがとう

シンジ: あそこでは、嫌なことしかなかった気がする。だからきっと逃げ出しても良かったんだ。でも逃げたところにもいいことはなかった。だって僕がいないもの 誰もいないのと同じだもの

カヲル: 再びA. T. フィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?

シンジ: 構わない

シンジ: でも僕の心の中にいる君たちは何?

レイ: 希望なのよ ヒトは互いに分かり合えるかもしれない… ということの 好きだという言葉と共にね

シンジ: だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなもんなんだ。ずっと続くはずはないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ。でも僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから。

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

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