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【評論】庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』評ーー「閉じこもるか、溶け合うか」二者択一の視野狭窄
「誰かを求めることは、すなわち傷つくことだった」
――宇多田ヒカル『One Last Kiss』
2021年に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開され、TVアニメシリーズとして始まった『新世紀エヴァンゲリオン』は、主人公の「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というセリフに共に幕を閉じた。
TVアニメシリーズが始まった1995年、日本では「阪神淡路大震災」「オウム真理教 地下鉄サリン事件」など大きな出来事があり、また政治や経済においても「変わり目」の年であった。それらと同列に語っていいか分からないが、『新世紀エヴァンゲリオン』もまた当時の社会現象の一つとして語られている。単に内容が良かったというよりも、当時の日本社会が抱える問題と呼応していた作品だったのだろう。今でも、同作品を参照しながら、当時を振り返る批評家が多くいる。
ただ今回は、作品をダシにして社会批評をしたいわけではない。今回はただ素朴に、『新世紀エヴァンゲリオン』で描かれている人間関係を見ていきたいのだ。
「私」と「あなた」の葛藤が、セカイの危機に繋がる
同作『新世紀エヴァンゲリオン』を簡単に紹介するならば、人型ロボットであるエヴァンゲリオンが、宇宙から襲来する「使徒」とたたかう話だと言えるだろう。「使徒」は人類滅亡を目的とする謎の生命体であり、周囲に「A. T. フォールド」という不可視で強力な防壁を展開している。ただそれは人類のもちえる通常兵器では突破することができない。そのため同じ防壁を展開でき、また相手の防壁にも干渉することのできる人型決戦兵器エヴァンゲリオンが「使徒」に対抗できる唯一の手段なのだ。つまり、このエヴァは人類の希望なのである。
ただ同作品は、単なるアクションアニメというわけではない。その内容からして戦闘シーンがメインのようにみえるが、同作の主題は、エヴァンゲリオンのパイロットである少年少女の苦悩や葛藤にある。エヴァのパイロットは、謎の設定ではあるが、母親のいない14歳の子供たちに限定されており、エヴァ初号機に乗る主人公の碇シンジは、母親を幼い頃に亡くし、また父親との関係も上手くいっていない少年である。そして、その父親というのが、人類を守る特務機関NERVの総司令官なのである(偶然にも)。同作品は、NERV総司令官である碇ゲンドウが一度距離を取った息子のシンジを機関に呼び寄せるところから始まるのだが、これに第一使徒の襲撃が重なる(これまた偶然)。この突然訪れた人類の危機に、ゲンドウは再会したばかりのシンジにエヴァに乗り撃退するよう指示する。困惑するシンジ、それに対してゲンドウは「乗るならはやくしろ でなければ帰れ」と迫るのであった。急に人類の未来を背負わされたシンジくん。また久々に会う父親に必要とされたシンジくん。ただそんな期待に応えられるほど、自分に自信がない、覚悟がない。なんでこうも極端なんだ。そんなことに応えなくても、僕を認めてよ!父さん! シンジくんの中にこうした葛藤がうかがえることだろう。そしてこうした「承認をめぐる葛藤」が同作の主題なのだ。
ただそうした葛藤は、単に日常の人間関係で完結するものではない。それはつねに人類、または世界の危機と隣り合わせになっているのだ。つまり、先ほどのように「僕がここで決断しないと、世界が滅亡する」という大変極端な状況での葛藤なのである。また、こうした人類存亡をかけたプロジェクトにおいては、いくらパイロットが子供であろうと公平無私であるべきだろうが、そうした公共性は同作品には見られない。つまり個人と「セカイ」の間は、本来であれば国家などの中間項が取り持ってくれるはずだが、それが全く機能していないのだ。それによって個人と個人の葛藤が直接「セカイの危機」へとつながる(「セカイ系」)。この構造によって、「私」と「あなた」といった二者間での葛藤が、より極端に、また壮大な規模感で表現されるのである。これが『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の大きな特徴なのだ。
「みな、ひとつに溶け合えたら」という夢
『エヴァ』に見られるこうした構造を、物語の鍵となる「人類補完計画」に即して見ていこう。この「人類補完計画」とは、人類全体を「自と他の区別のない単一の生命体」に人工進化させる計画のことである。別の言い方をすれば、個々に分かれているが故に争いが絶えず、互いを滅ぼしあう人類を救済するための計画である。「自と他の区別のない」状態、それぞれの人間がひとつに溶け合った状態になれば、全ては分かりあわれ、すれ違うこともない。それが「人類の補完」である。この計画はゼーレという裏組織によって計画され、物語序盤から続く「使徒」との攻防の裏で進められていく。それが『新世紀エヴァンゲリオン』の大きなストーリー展開である。
この全人類を巻き込むような「人類の補完」だが、その儀式のトリガーとして用いられるのが、主人公の個人的な「他者と一体化して、寂しさを忘れたい」という強い想いなのだ(旧劇場版の場合)。主人公のシンジくんは、自分が他人にどう思われているのか、また自分の言動が相手にどう伝わっているのか、を常に気にかけている。別の言い方をすれば、自意識が過剰に逆立ち、他者に対して過敏になっているのだ。「どんな自分でも相手は受け入れてくれる、そんな保証なんてどこにもない」、この保証のなさが頭の中で肥大し、他人と接することがどんどん怖くなっている。具体的には、主人公とその他の登場人物たちは、人類の危機を前に互いに期待し求め合うも、強く求めすぎるがあまり、すれ違い、苦しみあうのだった。この苦しみが、ある特定の相手との一体化を駆り立て、それが「人類の補完」(みんな、ひとつに溶け合えばいいのに)へと繋がるわけだ。「エヴァンゲリオン初号機パイロットの欠けた自我をもって、人々の補完を」。この規模移行の極端さ、これが同作品の特徴であり、同作の魅力と言えよう。
「心の壁」である「A. T. フィールド」
ここでひとつ、同作品において注目してみたいことがある。それは「A. T.フィールド」である。先ほど「A. T. フィールド」は、人類を襲う「使徒」が用いる防壁であると言ったが、これは人間一人一人がもつ「心の壁」であることがTVアニメシリーズ第24話で明らかになる。また、その「心の壁」を強力に用いる「使徒」は、地球にいるはずだった生命体のひとつであり、人類と地球の覇権をめぐって互いを拒絶しあう存在であったことも明らかになる。この「心の壁」=「A. T.フィールド」は、例えば、相手が自分のことをわかってくれないことの辛さ、また自己開示をしても相手が応えてくれなかったときの寂しさ、それゆえに、またはそれを見越して自分の殻に閉じこもることに他ならない。心を開かなければ、自分が傷つくこともない。相手から自分を守るためのそうした「絶対領域」、それが「A. T. フィールド」なのだ。
ただそうした「自己への閉じこもり」は「他者との同一化」を願うがあまり、起きてしまうと言えよう。相手に自分のことをわかってもらいたい。自分の全てを受け止めてほしい。そう願えば願うほど、その不可能さが顕わになり、その反動で自己に閉じこもる。自分の全てが相手に受け止められるか、それ以外かの2極なのである。「100」か「0」かの世界なのである。ただ「0」は「0」で、辛い。そのため再び「他者との同一化」を願う。まさに「ヤマアラシのジレンマ」である。閉じこもるか、溶け合うか、それは表裏一体であり、このどちらかしかないと視野狭窄に陥ってしまうのは、人間のある種の性なのだろうか。
力の拮抗、身体の強張り、他者の拒絶
また、この「A. T. フィールド」が「心の壁」の具象だとすると、『新世紀エヴァンゲリオン』の戦闘シーンに対する見方が少し変わってくるように思える。特にTVシリーズ最後の使徒である渚カヲルとの戦闘、カヲル乗る弐号機と、シンジ乗る初号機がいがみ合っているシーンは、敵対するカヲルにシンジが心を許したばかりに、これまでの「使徒」との戦闘とは違ったテイストを読み取れるだろう。つまり、弐号機と初号機の物理的、身体的ないがみ合いが、そのままカヲルくんとシンジくんの精神レベルにおける対立の表象と読めるのだ。
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まず最後の使徒である「渚カヲル」だが、カヲルくんは先に説明した「人類補完計画」の都合で、その計画母体であるゼーレが直接NERVに送り込んだ少年である。能力として「A. T. フィールド(心の壁)」をコントロールすることができ、相手との「シンクロ率」を調整することができる。その能力を使ったかはわからないが、カヲルくんは自然にシンジくんと距離を縮め、シンジくんの心を開かせていく。シンジくんも心を許せる存在に出会い、嬉しく思っていた。
だが、カヲルくんは「使徒」だったのだ。シンジくんはそのことを受け止めることができず、「裏切ったな、僕の気持ちを裏切ったんだ!」と、カヲルくんを責め立てる。一方のカヲルくんは、すんなりとNERVのセキュリティを突破し、地下にあるターミナルドグマに向かっていく(ここに使徒がたどり着くと人類は滅亡する)。NERVはそれを阻止するため、シンジくんを初号機に乗せ、カヲルくんが操る弐号機を追撃させる。そしてシンジくんは、降下中のカヲルくんを見つけ、何か説明を求めるかのように手を伸ばす。そこには、どこか「わかりあえるかもしれない」という期待があるように思える。ただ弐号機は、これに真正面から迎えうつのであった。両者の力は拮抗し、その拮抗の中でより優位に立とうと、両機の「身体」は強張る(図1)。両者一歩も譲らず、膠着(こうちゃく)状態になる。ふたりは、この膠着によって生まれたわずかな時間で言葉を交わすのだが、カオルくんは一方的にまた高次元に話を展開し、シンジくんをまともに取り合わない。ふたりの言葉は噛み合うことなく、シンジくんは「そんなのわからないよ!カヲルくん!」と嘆く。
このときのエヴァ両機の「身体」に注目したい。このとき互いの「身体」はそれぞれの意志にしたがっている。カヲル乗る弐号機は、地下に行きたい。シンジ乗る初号機は、行かせたくない(わかり合いたい)。そして両者はそれぞれの意志を諦めない。だから、力でもって相手を制する方へと向かったのだ。このとき互いの「身体」は自らの意志で埋め尽くされ、相手の入る隙はない。身体にゆとりがあれば、そこに相手の意志が入り込み、それをきっかけに形勢逆転されてしまう。そうした隙をつくらせない。つまり「身体」そのものも、物理的に「他者を拒絶している」のだ。
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戦闘シーンに話を戻そう。両者互角にいがみ合う中で、拮抗していた「プログレッシブ・ナイフ」がズレ、一方の刃先が浮遊しているカヲルくんへと向かう。カヲルくんは、そこに「A. T. フィールド」を展開し、ナイフの進行を阻止する(図2)。踏み入られることのない「絶対領域」、すべてを受け止めてくれると思っていた存在の受け入れ拒否。この強固な「A. T. フィールド」と「プログレッシブ・ナイフ」の拮抗は、カヲルくんがシンジくんに対して、人と人は根源的に別の存在であることを突きつけているように見える。
「他者との同一化」という幻想と、「母の他性」
ここまで読んでいただけたら分かるかもしれないが、主人公は正直、人と関係をつくるのが得意ではない。得意ではないと言ってもいいし、不器用と言ってもいいだろう。ただ、これを個人の性質に帰するのも酷だろう。シンジくんが置かれてきた環境もあるわけだ。またその不器用さは、顕著に現れていないだけで、誰もが持っているようなものかもしれない。
この不器用さだが、それはこれまで話してきた「他者との同一化」に関するものだと言えよう。自分とは異なる存在でしかない他人に対して、その「異他性」を抹消しようとする行動、もしこうした振る舞いをされたら誰もが拒否反応を示すのではないだろうか。関係において「異他性」がないということは、相手と距離が取れないこと、全てが同調し、自分だけの領域がないことである。もしもそんなことを他人に求めたら、「あんたバカァ?私は、あんたの母親じゃない」と突きつけられるのではないだろうか。
そう、この「他者との同一化」とは、すなわち「母親」に対する幻想なのである。無条件に自分を受け止めてくれる「母親」、自分が誰であろうと、その存在を認めてくれるような「母親」、それを求めているのである。ただ現実には、そうした「母親」はいない。そうしたジェンダー・ロールを担ってくれる人(意図せず担わされていた人)はいたかもしれないが、その「母親」像は幻想なのである。そして、そうした振る舞いをしてくれていた人にも、他人である部分があるわけである。「母親」を求める者は、そうした「異他性」=「母の他性」を抹消しているのである。
同作品では、人と人とが幾度となく「すれ違う」。ただそれは単に現状認識や、慣習が異なることによる「すれ違い」ではない。それは「母の希求」と「母の他性」によるものなのである。同作では、「母」に関する形象(羊水など)が多く散りばめられているが、それは人を無条件に受け止めてくれる「母親」像を想起させる。ただ待ち受けるのは「母の他性」であり、人と人は違う存在だという現実なのである。
「でも僕はもう一度会いたいと思った。」
同作品は、すべてのシリーズで「人類の補完」が遂行されるが、主人公の決心で失敗に終わる。人と人との境界がなくなり一体となった世界で、それでも主人公が「他人と生きること」を選ぶシーンを最後に引用して、本評論を終えたい。
レイ: ここはL.C.L.の海 生命の源の海の中、A.T.フィールドを失った自分の形を失った世界、どこまでが自分でどこからが他人なのか分からない曖昧な世界 どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている脆弱な世界
シンジ: 僕は死んだの?
レイ: いいえ すべてが一つになっているだけ これがあなたの望んだ世界 そのものよ
シンジ: でも、これは違う 違うと思う
レイ: 他人の存在をいま一度望めば再び心の壁が全ての人々を引き離すわ また他人の恐怖が始まるのよ
シンジ: いいんだ ありがとう
シンジ: あそこでは、嫌なことしかなかった気がする。だからきっと逃げ出しても良かったんだ。でも逃げたところにもいいことはなかった。だって僕がいないもの 誰もいないのと同じだもの
カヲル: 再びA. T. フィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?
シンジ: 構わない
シンジ: でも僕の心の中にいる君たちは何?
レイ: 希望なのよ ヒトは互いに分かり合えるかもしれない… ということの 好きだという言葉と共にね
シンジ: だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなもんなんだ。ずっと続くはずはないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を見捨てるんだ。でも僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから。