シャワーと歌
こんにちは。
歌集を2冊買いました。
岡本真帆さんの「水上バス浅草行き」 と、くどうれいんさん・東直子さんの「水歌通信」。
食事の時やお茶する時なんかに少しずつ交互に読んでいる。ちょっと行儀は悪いけど、食事と短歌は相性がいいと思うから、こういう読み方。
なぜ合うんだろう。もしかしたら詩を読むことと食事は似ているのかもしれない。栄養を吸収するところが。食事は体に、短歌は心にかな。でも昨日子どもに「僕がご飯の時に漫画読んでるとダメっていうのになんでパパはいいの?」ってど正論を言われてどっちが子どもかわからなくなったからもうやめるかも。または詩は食事だからいいんだよと言って子どもと一緒に読んでしまうか。それがいいそうしよう。
言葉にすることでようやく気がつくことができることは思っているより多いということに、短歌を読むと気がつく。
案外そういうもので僕の世界は溢れていて、それが実はとても大切なのかもしれない。と思う。
そういうことを子どもに話す。ふーんと言われる。小学生のうちは、ふーんで十分だよ。
そういう漠然と感じていたものやふわふわして通り過ぎて行くことをそっと掬い上げて言葉にして知覚できるから短歌はいい。
輪郭を与えられた感覚や感情をゆっくり味わう。お茶の時間にコーヒーと一緒に飲み込む。夕飯の時にうどんと一緒に食べる。全部栄養にしてしまおう。この世界を生きるため。
岡本さんはTwitterでこの短歌を自らアレンジしていて、後半を「凍ったいくら風呂で解かすし」と変えたりしている。日常の何気ないことも言葉にすると素敵になるなあ。
「水歌通信」は短歌とその歌に関連する短いエッセイが載っている。短歌もエッセイも好きなので、この構成は嬉しい。そういえばエッセイの中でアスファルトのことをかさぶたと言っていた。それ以来、アスファルトを見る度に思い出してしまい、アスファルトの下からもちもちツルツルな新しい皮膚が出てくる姿を想像してしまう。
お風呂で子どもと一緒に短歌を作ってみたら面白かった。文字数がなかなか合わないでぐちゃぐちゃになったり、途中でしりとりになっちゃったり。
がんばって考えた短歌は全部シャワーと一緒に流れていってしまったけど、長風呂で真っ赤になった顔は今でもはっきり覚えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?