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『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』を読んで。

こちらの本、なんとなく興味を持ち読んでみたのですが、想像以上に勉強になるいい本でした。

ヤンキーという言葉から、どのようなイメージをもつだろうか。時代遅れというイメージがある一方で、近年では「マイルドヤンキー」のようにマーケティングの対象として注目されたりもしている。しかし、ヤンキーと呼ばれる若者が何を考え、どのように生活をしているのか、十分な調査に基づいた書物は少ない。

大阪府の高校で3年間、〈ヤンチャな子ら〉と過ごしフィールドワークして、対立だけではない教師との関係、〈インキャラ〉とみずからの集団の線引き、家族との距離感を丁寧にすくい上げる。そして、高校を中退/卒業したあとの生活も調査し、大人への移行期に社会関係を駆使して生き抜く実際の姿を活写する。

集団の内部の亀裂、地域・学校・家族との軋轢、貧困や孤立――折り重なる社会的亀裂を抱える若者の「現場」から、分断や排除に傾かない社会関係の重要性を指し示す。

教育社会学分野の学術書のため、かなり専門用語も出てくるけれど、全体的に読みやすいです。

〈ヤンチャな子ら〉がどのように学校生活を送り、どのように労働市場へと出ていくのか、その中で見えてくる社会的な関係性の重要性を一人一人の〈ヤンチャな子ら〉の事例からミクロな視点で取り上げつつ、まとめています。
そのなかで見つかった最大の知見が、一枚岩として考えていた〈ヤンチャな子ら〉の中にも社会的亀裂が生じており、ある程度家庭的な基盤の安定があって社会のネットワークの中で生きられている子と、そうでなく社会的孤立の中にいる子があるということでした。

これは私自身は感覚としては持っていたけれど、あぁやはりそうなのかと思いました。〈ヤンチャな子ら〉は共通項は持っていても同一のグループにはならない(なれない)こと、それが社会的な背景の違いによるものなのだということを改めて知りました。

知念先生は先生方の取り組みに関しても分析されています。

先生方は〈ヤンチャな子ら〉が時間や空間を自分にとって有利にしようとする言動をフォーマルな関係に限定せずに付き合うことで再度コントロールし、関係性を柔軟に組み替えて教育活動を実践しているとしています。

教師たちはフォーマルな学校の論理と実際に通ってくる生徒たちの実態の双方を常に視野に入れて、両者を調整しながら日々の教育実践をおこなっているのである。そして、そのことを生徒たちは認識していて、だからこそ、教師たちを信頼したり肯定的に評価したりしているのである。

ただその一方で、説明責任が問われる場面が増えた学校現場で生徒ひとりひとりに対して柔軟に対応を変えることが難しくなったり、業務量の多さによる多忙さなどにより〈しつける教員〉と〈つながる教員〉などの複数の役割を1人の教師が使い分けることが困難になってきていることを示しています。

私はそもそもこの技術を習得する難易度の問題もあるのではと思います。一応去年教員をしていた自分の感覚としても、この『フォーマルな学校の論理と実際に通ってくる生徒たちの実態の双方を常に視野に入れて、両者を調整しながら』教育実践を行うというのはかなりのバランス感覚が必要と感じます。大学の教職課程でこのようなことは学びませんし、実地で身につけられるかどうかは学校文化や教員個人の性質に大きく左右されるでしょう。「ルール」を元に判断する方が分かりやすく、説明もしやすいため「ルール至上主義」的な傾向が高まるのも無理はありません。

でもだからと言って学校での支援は限界だとは思いません。

私はこれを読んだときに、あぁここにD×Pが入るんだと思いました。

現在の教育システムでは先生方が生徒全員と向き合い関係性を築き、課題を発見し、福祉につなげることは現実的にかなり難しいことです。教員の重労働化は改善すべきとは思いますが今すぐそれを実現するのはかなり難しい。だから「役割分担」してD×Pがここに入ることが求められているのだと感じました。そして学校、家庭、社会と連携する仲立ちとして〈ヤンチャな子ら〉が自分の人生を生きられるようサポートしていくのだと思います。

最後に、私がハッとさせられた結びの文章。

最後に付け加えておくべきことがあるとするなら、本書で描き出してきた〈ヤンチャな子ら〉が抱える問題は、私たちの問題でもある、ということだろう。

生活保護の受給漏れをなくすこと、受給額を引き上げること、「家族であること」の様々な実践を承認しながらケアを提供すること、教師と子どもが信頼関係を築ける環境を用意すること、学校以外の多様なアクターへの社会支出を保証すること、といった本書の最後に述べた政策的・実践的な提案は、全て社会的な合意があってはじめて実現することである。

逆にいえば、本書で描いてきた〈ヤンチャな子ら〉の生活のなかで生じている様々な困難や問題は、私たちがそのような社会的合意を形成できていない帰結として生じているということだ。

社会をつくる私たちオトナひとりひとりが全然これらの解決策に対してまだ合意を形成できていないということ、それが〈ヤンチャな子ら〉のサポートを遅らせている根本的な課題なのだと思います。どうして合意形成できないんだろう。。もっと調べたい。

D×Pに関わり始めて2年、職員になってもうすぐ8ヶ月。定時制高校・通信制高校に通う様々な10代・20代と関わってきました。多くの〈ヤンチャな子ら〉とも出会いました。

でもこの本を読んでまだまだ自分は表面上のことしか知らないのだなと痛感しました。中退や卒業後の進路選択は家族関係や家庭の経済状況、過去の経験など私が知らない様々な事情によって制限されているのかもしれないし、もしかすると本人も自覚していないような社会的な文脈や構造の中で勝手に決まってしまっているのかもしれません。

自分が勉強すべきことはまっだまだあるなぁ。。

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