坐禅体験に行ってきた
待ちに待った坐禅体験
今日は、先月予約してからずーっと楽しみにしていた、坐禅体験会に行ってきた!
予約した当初は「日本文化の体験」という文脈で申し込んでいたのだけど、そこから一ヶ月間で東洋哲学、仏教、禅について学びを深めてきたので、もうワックワクが止まらない状態で迎えた今日。
ワックワクすぎて、一番乗りで会場入り。笑
まずは、禅僧が参加者にアイスブレイク的な感じで雑談をして、場がほぐれた頃に体験がスタート。
禅僧も参加者の皆さんも、とてもフレンドリーな感じで、もうすでに楽しい。笑
「露天風呂に浸かっている」ような感覚
まずは坐禅についての哲学的なお話や、坐禅の哲学についての解説があり、実際に坐禅をしていく。
先月は瞑想のスクールの体験会にも行ったし、自分でも毎日実践しているので理解できていることも多かったが、今回の禅僧のお話で一番印象に残っているのが「坐禅のいい状態の感覚」についてだ。
坐禅がうまくいったな、と思うときがどんな状態かというと、「温泉でゆっくり露天風呂に浸かっているような状態」なのだそうだ。
日頃課されている役割をすべて脱ぎ去り、素っ裸になって、ゆったりと湯に浸かる。
だんだんお湯と自分の境界がなくなっていき、溶け合っているような感覚になってくる。
外に目を向ければ、風で木々がゆらゆらと揺れている。
遠くで鳥や虫の声がするのを、ただただ聞いている状態。
最近、瞑想をやっても少し心が乱れているのを感じていて、うまくいかないなと思うことが多かったが、この感覚を共有いただいたことでコツがわかったように思う。
「温泉でゆっくり露天風呂に浸かっているような状態」を意識したことで、今日は坐禅中、空気と自分の境界線があいまいになっているのを感じることができた。
坐禅中は、湧き上がってきた意識をとにかく”捕まえない”ことが大事で、もし音が聞こえたりしても右から受け取って左に流すようにする。
でも、坐禅中、無理に「無になれ」と思いすぎなくてよいのだとか。
もし考えごとをしてしまったら、「何もしないをしているとき、自分はこういうことを考えるんだな」と思えばいいのだそうだ。
「五観の偈」で食事の尊さを知る
その後、精進料理を頂き、写経体験もするのだが、ここで習った「五観の偈」というお教が、とても素敵だったのでこれも紹介したい。
例えばお粥一つとっても、お粥を作ってくれた人がいて、その材料である米を作ってくれた人がいて、販売してくれた人、そして届けてくれた人がいる。
更に言えば、お米を作るために使った道具の一つひとつ、料理道具の一つひとつが誰かの仕事の上で成り立っている。
どんな料理もそう。
すべての食べ物に、多くの人が関わっていることに感謝をする。
そして、その食事をいただくに値するほど、自分は正しく、世の中の役に立てているかを振り返る。
食事は、貪欲さがでてしまいがちな行為だからこそ、それを見極める修行の一つであること。
食事を「薬」として捉え、適量を心がけること。
それらを踏まえて、食事をするのが、精進料理なのだそうだ。
これを食事の前に読ませてもらい、写経もさせてもらったが、わたしのこれまでの食事を振り返って猛省した……。
命をいただくこと、それをいただくまでの人々のことを思ったら、もっと食事に対してしっかりと向き合わないと失礼だ。
そう思うと、毎度の食事が、どれだけ尊いものだったのかを知ることができたし、感謝の気持ちで溢れた。
立ち止まることで見えるものがあるから
日々の生活では、効率的に動くことが求められる。
例えば、北海道に出張する場合、最短で北海道にいくために飛行機で移動することを選ぶだろう。
でも、もっと時間があって、例えば在来線でいくとして、途中下車した駅で可愛らしく咲いている花を見つけて、心があったかくなったりするかもしれない。
生活に置き換えても同じことが言える。
毎日忙しくしていると、あっという間に夜になっている。
そういう日々の中で、本当ならすぐそこにあったのに、気付くことができずに通り過ぎてしまった素敵なものがもしかしたらたくさんあったのかもしれない。
だから、こうやって、意識的に立ち止まってみることが大事なのだそうだ。
先日書いた「休みの定義」についてのnoteの内容とリンクした気がして、なんだか嬉しくなった。