16.嘘のはじまり /純喫茶リリー
律子が覚えている一番古い記憶は、けやき保育園の屋上だった。
0歳から通っていたこの保育園には、広々とした屋上があり、みんなでよく遊んでいた。
年長さんになった律子は、同い年の男の子3人、女の子2人と一緒に話していた。たぶん、初めて友達とちゃんとした話をした瞬間だったから、今でも覚えているんだろう。
その時、男の子の一人がこう聞いた。
「みんな、お母さんのこと、なんて呼んでる?」
「ママ!」
「うちもママ!」
「オレ、おかーさん!」
「ぼく、ママ!」
――みんなが次々に答えた。
でも、律子は「ママ!」って答えた男の子に、なぜかモヤっとした。
「え?男のくせに“ママ”って…」
そう思った瞬間、なぜか見下すような気持ちになった。
その男の子は優しくて、おとなしい子だった。
一方で、「おかーさん」って言った男の子はガキ大将タイプで、乱暴だけど強くて目立つ子だった。
律子は咄嗟に
「律も“おかーさん”って呼んでる」
と言ってしまった。
本当は“ママ”って呼んでいたのに。
初めてついた嘘。
それもただの見栄のために。
でもその時、もう一人の女の子が「ママ」と呼んでいるのを聞いて、なぜか優越感を感じた。
心の中で「私は“おかーさん”派だから、かっこいいんだ」と
勝手に誇らしげに思った。
それから律子は、家でも「おかーさん」と呼ぶようになった。
内心、「ママ」って呼ぶ子よりちょっとカッコいい気がしていたのだ。
でも、やっぱり時々 “ママ” が口をついて出てしまった。
ある日、保育園で つい “ママ” と言ってしまった瞬間、律子は一瞬にして顔が真っ赤になった。
『あっ、バレた!?』と心の中で叫んだ。
けれど、周りの誰も気づかない様子でほっと胸を撫で下ろした。
次はないぞと、自分に言い聞かせる律子だった。
だけど、よく考えたら、喫茶リリーに来るおじさんたちは、みんな律子のママのことを「ママ」って呼んでるんだよね。
あの時の嘘、もしかしたら律子の最初の「優越感のための成功体験」だったのかもしれない。