鏡の中の詩人





 愛のルーナが、その鏡を手に入れたのは偶然だった。
 浅草の骨董店の隅で埃をかぶっていた古鏡が、なぜか彼の目を引いた。値札もない代物だったが、店主の老人は「それは見た者の本性を映す鏡だ」と言って笑った。
 愛のルーナは、興味本位でそれを買い求めた。詩人としての感性が、そうした奇妙な話に魅せられるのは当然のことだった。

 帰宅後、机の上に鏡を置いた。黒ずんだ銅の縁に、細やかな唐草模様が刻まれている。
 ルーナは鏡を覗き込んだ。

 ——そこには、異形の鬼がいた。

 鬼は、紛れもなく彼の顔をしていた。
 しかし、その目は鋭く、口元には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。血のように赤い舌が覗く。まるで、心の奥底に潜む醜悪な自分が、鏡の中から彼を見つめ返しているかのようだった。

 「何だ……これは……」

 ルーナは、目をそらした。
 しかし、再び鏡を覗けば、そこにはまた鬼が映る。

 それからというもの、彼の生活は奇妙なものに変わった。



 ある日、ルーナは詩を書こうとした。
 しかし、ペンを握ると、妙な衝動が胸を突いた。

 「詩……? この程度の言葉遊びで、私は何を表現しようとしている?」

 ふと、鏡の鬼が嘲笑しているような気がした。

 「お前は詩人か? いや、違う。偽物だ」

 ルーナはペンを投げ出し、鏡を覆った。

 だが、それでも夜ごと夢に鬼は現れた。
 血まみれの口で笑いながら、彼に囁くのだ。

 「お前の詩に価値はない。詩人などではない。だが——鬼になれば、もっと美しい詩が書けるぞ?」

 ルーナは徐々に、何かに侵されていくようだった。



 ある夜、彼は鏡の前に立った。
 そこに映るのは、鬼ではなく、自分自身だった。

 「やはり、ただの妄想だったのか……」

 そう呟いた瞬間——鏡の中の”ルーナ”が、勝手に微笑んだ。

 「——違う。お前こそ、私だ」

 ルーナは叫び、鏡を叩き割った。
 すると、割れた破片の中から無数の鬼の目が覗いていた。

 彼は、思った。

 ——どちらが本当の”愛のルーナ”なのだろう?

 その答えを知るすべはない。



 翌朝、ルーナの部屋を訪れた友人は、奇妙な光景を目にした。
 机の上には一冊の詩集があった。

 その表紙には、こう書かれていた。

 『鬼の詩篇』 愛のルーナ

 ただし、部屋の主の姿はどこにもなかった。
 残されていたのは、一枚の鏡。

 ——そこには、今もなお鬼が微笑んでいたという。

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