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泥だらけの覚悟。
しんどいまま、苦しいまま生きるしかない。
そこに、字面から滲む絶望はなくて。諦めもなくて。でも、希望のような光もなくて。伸ばした手に触れた、「こうとしか生きられないんだ」という単なる結論。
見つけたばかりだから、それを持ち続けるのは大変だろうけど。
思えば、働き始めてから、社会とうまく接続できない自分がいた。
周りの人が“普通”にできているのに、自分はできない。幸か不幸か、そんな状況は初めてだった。
周りを見ると、適応して頑張る人がいた。適応できないから、自分を変えようとする人がいた。新たな社会を小さく作り、そこと接続しようとする人がいた。
そのすべての人に対して、劣等感を抱いていた。何もできない自分に無力感を抱いていた。
社会とうまく接続できない。その事実が、ドロドロした感情を生み出す。
この醜い感情は、どうやったら消し去ることができるんだろう。振り返ると、働き始めてからの5,6年は、全てこの問いとの格闘だったように思う。
結果は全敗だった。
何をしても、どこにいても、劣等感が消えない。無力感が消えない。
だから、何かを形にしようと踏み出してみる。
もちろん、すぐに芽はでない。土に埋もれている間に抱く無力感と劣等感。
その感情たちから逃れようと、そして、逃れることを「仕方ない」と納得させようと、無自覚的に心を病ませる。
回復後、何もない自分に耐えられず、今度こそと何かを形にしようとする。
何度も何度も繰り返してきた。ドロドロした感情は消えることがなく。だから、より強く消し去ろうとして。徐々にドス黒さは増していった。
1週間前に大先輩とお話していたとき、
個性ってのは、「そうとしか生きられないこと」なんだって。
と言われた。
社会に接続できないのは苦しいけど、だから形作られる自分もいる。有用じゃないままで生きるのは、めちゃくちゃしんどいけどね。
と言われた。
家に帰り、その言葉たちを思い返しながら考えていた。
数日経って、ぐずぐずと心に滲んできた。
しんどいまま、苦しいまま生きるしかないんだな。
社会と接続できないから生まれたドロドロした感情。それをすぐに消し去ろうとする営みは、どうあがいても、「社会と接続しようとする営み」にしかなり得ない。
自分を変えようとするのも、何かを形にしようとするのも、新しい価値観を作ろうとするのも。表に現れる形は違えど、すべて「社会と接続する方法」を探す試み。それは結局のところ、さまざまな角度で有用性を追い求めているにすぎない。
社会での有用性を持てなかった苦しさから逃れるため、有用性を手に入れようとあがく。
でも、それで接続できるような自分だったら、こんなに何年間も苦しんでいない。
救いを求めれば求めるほど、ずぶずぶと沈んでいく。
「だったら、社会と接続できない自分をも肯定しよう」と言う人もいる。僕もそう考えていた。
けれど、自己肯定を目指そうとしても、ドロドロした感情が邪魔をする。そこで醜い感情を消し去ろうとすると、振り出しに戻ってしまう。
いまの個人的な想いではあるけれど、「だったら、社会と接続できない自分をも肯定しよう」という意気込みは、無謀なものだと感じている。自己肯定は目指すべき目的ではなく、生きていく道中で気付いたら手のなかにあるものだと思うから。
暫定解は、無力感、劣等感から逃げようとしないこと。
「ドロドロした感情も、いつかの糧になるから」のような自己暗示じゃない。そんな生温い希望は意味がなくて。
醜い感情に、有用性なんて求めない。しんどい、苦しい。なくなった方がいいに決まっている。
でも、僕は社会に接続できないから。そうとしか生きられないから。
無力感、劣等感から逃げることなんてできないから。
しんどいまま、苦しいままでしか生きられない。それでも生きていく。
泥だらけの覚悟。
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