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思考の共犯者と手をとりたくて。とろ火のWebができました

昨年はじめた、「その人を“その人”たらしめるドロッとしたものを探って、迷い、書を読み、語りあう」を掲げた活動「とろ火」のWebページができました。

独学でWordpressをぽちぽちして作ったにしては、とてもお気に入り。細々と5ヶ月くらい戦った甲斐がありました。とはいえ、細かな点を見落としていたり、至らなかったりだと思うので。「ここおかしいよ!」があれば教えてください。

とろ火の活動記録としてはもちろん、ひとつのメディアとしても育てていきたい場所。どうぞよろしくお願いします。

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文章を残す場としては、いまやいろんなプラットフォームがある。このnoteだってそう。わざわざコストもかかる個別のページをなぜつくったのか。

いろいろと渦巻くものはあるけれど、感覚としては「大切なものに囲まれた部屋が欲しかったから」だろうか。

以前、タイニーハウスで暮らしている方の取材をさせてもらったとき、こんなことをお話していた。

(タイニーハウスで暮らしはじめて)生きるベースが幸せになった、と思います。

中略 

まず目に入るものが全部、私の好きなものなんですよ。それって、とてもエネルギーをもらえること。毎日の居心地が良いですね

ないから、考える余地がある。知恵を絞った暮らしが生む、“手放す豊かさ”とは

とろ火に詰め込んだ思考、とろ火で掴んでいきたい感覚は、僕にとって大切なもの。それらを愛でる・育てるにあたって、僕が僕の世界観にどっぷり浸かる場所が欲しかった。

プラットフォームには、どうしても誰かの作為が入ってくる。それは悪いことではなく、だからこそ新たな出会いも生まれるし、深まる部分だってある。でも、そこはやっぱり誰かのものだ。

僕は強くないので、どうしてもスキの数だったり、フォロワーだったりを意識してしまう。というより、意識したくないのに意識してしまっている自分に気付いて嫌気が差す、といった感覚。

純度を高く保ちながら、僕が僕に潜っていく。そんな場所が欲しくて、Webをつくってみた次第。

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じゃあ公開しなかったらいいのでは? 紙のノート上でいいのでは?

という僕自身の声に答えるのならば、「思考の共犯者と手をとりたいから」となると思う。

下記のページに、こんなことを書いた。

ひとりで無理なら、誰かと一緒に考えればいい。ひとりだとわかった気になったり、匙を投げたりするのなら、揺さぶってくれる誰かと考えればいい。共に手探りで思考を進めながら、迷い、書を読み、語りあえばいい。

この誰かを、『闇の自己啓発』や『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』といった書籍のなかでは、「思考の共犯者」と呼んでいます。

ひとりだと、僕は“僕”になれない。だから、思考の共犯者を増やしたい。とろ火を外に開こうとしているのは、そういった理由です。

そもそも、とろ火の活動をはじめた理由は、僕が抱え続けている問題を僕ひとりではどうしようもなかったから。誰かと一緒に「ままならんねぇ、しんどいねぇ…さて、じゃあどうしようかねぇ」と頭を抱えながら考えたかったから。

開きながらも閉じている。閉じているけど、開いている。そんな場所を持ちたくて、Webをつくったのだと思う。

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さて、Webができたことで、とろ火でやっていることが(多少)掴みやすくなった気がする。ちらっと書いたけれど、このWebには大きくふたつの機能がある。

①活動記録として

とろ火では、私設図書室や読書会、研究会、ポッドキャスト配信をやっている。あれやこれやが散らばりすぎて、自分でもよくわからなかったけれど、とりあえずは「過去にこういうことやってきたんやった」と振り返れるようにはなった。

それは、新しくとろ火を知ってくれた人にとってもそうで。活動を記録している場所があることには、大きな意味があるはず。

これも、以前取材させてもらった方のお言葉に影響を受けているのかも。

安久都:仲間もできて、自分のなかの衝動に自信を持つこともできた。そこから、自らの想いに沿った活動をするには、どのような一歩を踏み出せばいいのでしょう?

山田さん:私がやっていたのは、記録と公開、だね。

安久都:自分の想いを発信する、ということでしょうか?

山田さん:いや、発信とは違うかな。いまの社会って情報に溢れているでしょ。こっちから「これ見てよ!」って言っても、見向きされないと思っていて。

発信するんじゃなくて、自分がなにを考えて、なにをしてきたのかをホームページとかnoteとかに記録して、公開しておく。それって、自分のことを気にしてくれた人が、検索でたどり着ける場所があるってことなんだよね。

人に流されたっていいじゃないか。日本一おかしな公務員・山田崇と考える、自分の想いを大切にする生き方

②メディア=僕と世界を媒介させるもの、として

図書室やポッドキャストの他に、「火守りのドロっとしたもの」と称して、3つ掲げている。

❏生まれたことと、死にゆくことと、…
❏生活者の探究
❏思考とことばが生きる意味

これらを妻に見せたとき、「さとしくんそのものだねぇ」と言われた。潜っている僕が現れているもの。それらを届けることは、僕と世界がつながることになる。

ここでは、僕が考えたことを載せるのはもちろん、取材記事も載せていく予定。すでに取材させてもらいもした。とても大切なものを受け取らせてもらった取材だった。

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この場所をどう育てていくのか。いや、育てるじゃないか。この場所がどう育っていくのか。芽に水をやり続ける感覚で、言葉を重ねていこうと思います。

改めまして、「その人を“その人”たらしめるドロッとしたものを探って、迷い、書を読み、語りあう」を掲げた活動「とろ火」です。どうぞよろしくお願いします。

※noteでは、メディアとして媒介させる前の段階、生煮えも生煮えの思考を散らしていこうと思います。

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安久都智史/とろ火
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