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表裏卑怯の者 真田昌幸

はじめに

真田と聞くと、2016年の大河ドラマ『真田丸』の主人公である真田信繁(幸村)のイメージが強いだろう。今回は信繁の父・真田昌幸を紹介する。このノートでは昌幸の生涯や逸話などを解説する。

1.真田昌幸の生涯

1-1,武田家従属時の昌幸
    昌幸は1547年に真田幸隆の三男として生まれた。父・幸隆は武田氏に支えていた。昌幸は真田が武田に仕えるという証として、武田家に人質として預けられていた。その後は武田信玄・勝頼と2代に支えた。しかし1582年に武田家が滅亡し、真田家を存続させるため奮闘することとなる。

1-2,上田城築城と領地の防衛
 まず昌幸は織田家に従属した。しかしその3ヶ月後に本能寺の変が起こり、織田信長が自害してしまう。その後は北条・徳川・上杉と主君を変えた。1583年に上田城を築城した。築城当時は徳川家を主君としており、上杉家への牽制のために築城したとされている。しかしその後沼田領の扱いで昌幸は徳川家と揉めたため上杉に主君を変えた。そのことに怒った徳川家康は真田討伐のために兵を差し向け、第一次上田合戦が起こる。昌幸は巧みな戦術で徳川軍を撤退に追い込んだ。そして最後には豊臣政権下で本領安堵を認められるものの、真田家は徳川家の与力大名となる。

1-3,関ヶ原の戦いと第二次上田合戦
 1598年に豊臣秀吉が死去する。秀吉は生前、幼い息子・秀頼を支えるために五大老と五奉行を定めた。家康は五大老に任命されていたが、秀吉の死去後影響力を強めていった。それに不満を持った石田三成率いる西軍が兵を挙げ、関ヶ原の戦いが開戦した。昌幸はどちらに着くかを息子の信幸・信繁と話し合った。その結果、長男の信幸は東軍、昌幸と次男の信繁は西軍に着くことになった。真田家が存続するために二手に分かれることを決めた。この話し合いは犬伏の別れと呼ばれている。昌幸は関ヶ原には参陣しなかったものの、後から来る徳川秀忠軍を真田領で足止めするという重要な役割があった。昌幸は上田城で徳川軍と戦うことを決め、軍を配置した。豊臣政権前にも徳川軍と上田城で戦ったことから、この戦を第二次上田合戦と呼ぶ、この合戦でも昌幸の戦略が光り、見事徳川軍の足止めに成功する。しかし関ヶ原の戦いは1日で東軍の圧倒的勝利で終わり、昌幸・信繁親子には流罪という処分が下った。

1-4,最期
 1611年に九度山で死去。享年65歳。
その後、同じく流罪となった息子・信繁は大阪の役で武功を立て、「日本一の兵」と後世で呼ばれる。

2,真田昌幸の逸話


2-1,昌幸の初陣
 昌幸の初陣は1561年の第4次川中島の戦いである。第4次川中島の戦いといえば、激戦であったことで有名で、武田家は有望な家臣が何人も討ち死にしていまった合戦でもある。昌幸の任務は武田信玄の警護と言われており、与えられた任務を遂行できたとされている。しかし武田家としては代償の大きすぎた戦だっただろう。

2-2,死後も家康に恐れられる昌幸
 昌幸の死後、大坂の役に参戦するために信繁が九度山を抜け出し、大阪に入った。そのことを家臣から報告された家康は「真田とは父か、息子か」と慌てて尋ねた。そして家臣は「息子の方でございます。父の方はもう死んでいるではありませんか。」という会話をしたといわれており、昌幸は死後もなお、家康が恐れた武将だった。

3,真田昌幸 最後の言葉


 「さても口惜しき事かな。内府をこそ、かくしよふと思ひしに」
意味:とても悔しいことだ。私は徳川家康の方
  を流罪にしてやろうと思っていたのに。
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   この言葉は高野山に行く前に長男の信幸にかけた言葉として有名です。上田城で徳川軍を追い返したにもかかわらず、本懐を達成出来なかった昌幸の悔しさが伝わってくる言葉です。

最後に

   今回は真田昌幸を紹介した。昌幸は巧みな軍略で2度も徳川軍を撤退に追い込み、死後も家康が恐れた知将である。しかし関ヶ原の戦いで流罪になり、本懐を遂げられずに死去してしまった。
   昌幸の知略と戦術は後世に大きな影響を与え、特に真田幸村(信繁)の活躍とともに日本史上で非常に人気の高い戦国武将の一人だろう。

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