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死んだ後、生きる事を選ばれた命 (4)


 心のざわつき

 女は、俺を死んだ事にして、その後出産し、、、施設へ棄てた。
 施設長さんは、俺を生きさせるために、育てる為に戸籍を作った。

 どうしてそうなったのか、、、、

 どうでも良いと思っていた俺を産んだ女の事が、少し気になりなじめた。
 それから若林さんからは、武藤産婦人科元看護師長の名前住所と電話番号を書いたものを渡された。

 君島 梅子 川口市弥生町2丁目 ** - **  048-272-****

 「子供さんの君なら、、、もっと詳しい内容、その頃の江藤美也子さんが何を考え、なぜその決断をしたか教えてくださるかもしれないと、、、」若林さんは別れ際にそう言った。

 若林さんと別れ、俺はバイト先へ向かった。出勤してきたお姉さんに俺は、
 「会って来ました。やっぱり俺に関わる事でした、、、、これからどうしたら、、、」と伝え、新潟に遺骨がある、川口市に産んだ時の事を知ってる人がいると話した。
 「駿君、、、君はその人の事、赦したいと思う?それとも、赦せないと思う?」
 「分かりません。今まで何も考えて来なかったんで、これから先どう思うかなんて、、、」
 「良い悪いを決めるんじゃなく、知っておくことは大切だと思うってこの前言ったじゃない。お母さんの事を色々知るとさ、駿君の価値観は変わると思うの。
 それが良い方に向くか悪い方に向くかは君次第なんだよね。私がそれは正しい事なのとか仕方ない事なのって言ってもさ、私はその人じゃないから本当の事は分からないのね。
 ただね、駿君は悪い方向へ受け取って欲しくないだけなのよ。良い方向にしてとも言えないし、、、
 ごめんね、勝手な事言ってるけど知ることは大切だよ。それだけ。」
 「なんとなくわかります。少し考えてみます。」

 俺は、答えなのかどうか分からないある種のけじめみたいなものを掴み取る事を、直ぐに掴むか先延ばしにするかどうか悩んだ。

 その人の子供時代の事はお寺の住職に聞けば多分、、、分かる。
 俺を産み、棄てた経緯は川口に居る人に聞けば教えてくれると思う。
 仙台の看護師学校、米沢の病院勤務時代に、俺を産んだ時の川口に至る何かが有るかもしれないとも思う。
 関わりのあった人に聞けば、何かしら分かるのかもしれない。

 しかし、分からないとしてもこの先自分は困らないと思えた。
 生れた時から俺は一人だったんだ。
 施設育ちでも、愛情に飢えていたわけでもない。
 むしろ恩着せがましい所が無い、適度な距離感が俺には心地よかったんだ。
 あの人の事を知る事で、育った今までが否定されるかもしれないとは思わないが、別な選択肢があったんだと思うと揺らぐ心が生まれる気がしてしまう。

 知らない方が良い、、、のかもしれない。と何度も考えた。

 俺の心はざわざわするまま、10月になった。
 10月は俺の誕生日がある。戸籍作成の日と認識している。
 施設の玄関脇にあるアルミのドア。そこを開くとベビーベッドがある。
 九州のある病院が設置した赤ちゃんポストが後年話題になったが、その施設では既にあった。
 行政からの指導では「育児放棄を助長する。」との事で、そういった物は設置してはいけないと通達はあったらしい。しかしそこの施設長は、

 「受け入れられる部屋が無ければ、野外に放置してでも置いて行くだろう。残された子に何かあっては取り返しのつかない事になる。暑い夜、寒い朝、野良犬や野良猫、猪や蛇がやってくるかもしれない。
 遺棄嬰児の受け入れ先のつもりではない。入所している子の一時的な休憩スペースである。」

 そう言って、エアコンの効いた小部屋を設えていた。
 今から21年前の10月。そこに俺はバスタオルに包まれ、数日分の紙おむつとシステム手帳の1ページに書かれた名前と共に入れられていたと言う。
 「川島 駿(しゅん)」
 だから名付け親は施設長ではなく、俺を産んで棄てた、、、その女と言う事になる。

 俺を見つけた施設長は、警察への届け出と総合病院での検査を行い市役所で相談の上、戸籍を作成してくれた。
 それから俺、川島駿は楡の木小鳩園で中学卒業まで育ち暮らすことになった。
 元々昭和20年代から続けていたこの施設も老朽化が進み、また自治体からの補助金も、申請から支給までの条件が厳しさを増して行き、卒園者からと篤志家、一般市民からの寄付で今まで何とか運営出来ていたが、ついに閉鎖することになった。
 それが俺の中学卒業と同じ時期となった。
 自分より年下の子で入所していた数名は、市内の公立児童養護施設へと転院していった。。

 個人による児童施設が運営出来なくなった理由を、施設長は俺に話した事がある。

 「この施設を始めた頃は、自治体や国からの補助金や支援金など無く、入所者の親や一般の人からの寄付で充分運営出来ていたんだ。
 施設出身者が良い仕事に就けないと言うデマが社会に蔓延し、活動家と自称する人達が国や自治体から金を引っ張ってくる事をし始めたんだよ。
 そうすると、その活動家達は何割か中抜きをするんだよな。施設には予算で決定された半分しか支給されないで、自治体側はそれで運営できないとはおかしいと言い始めて、、、
 活動家の中抜きが問題視されると、国や自治体が運営母体となって、運営の実務はその活動家が担う仕組みを仕掛けたんだ。
 そうすると活動家の人達は、非常勤の理事になって役員報酬を貰い、運営の実務は別な会社から派遣されるようになり、派遣会社の運営が出来ないとごねると予算が増額されて、役員報酬が跳ね上がる、、、そういう事になったんだ。
 私は子供たちや、事情があって離れ離れに暮らす親御さん達の為にここまで一生懸命に頑張って来たんだが、もう私も歳だ。自治体に預ける事にした。
 自治体の中には、活動家が侵食している事を快く思わない議員もいて、国直営の施設にしようとしている人もいるが、邪魔は入るし、上手くいかない様だな。
 この仕組みは変えようが無いよ。既得権益になっちゃってるからね。」

 卒園する俺に施設長は、普段は飲まないお酒を飲みながら話してくれた。
 知識のない俺は、聞いても訳が分からない話だったけど、施設長の話をそばでずっと聞いていた。
 施設長は閉園する寂しさや、取り巻く環境への憤りを、誰かに聞いて欲しかったんだと思う。

 俺にとってこの施設長が、父親そのものだったんだ。
 母親は奥さんと寮母さん達。
 俺は施設と言う家庭に恵まれて育ったと胸を張って、今も言える。

 
 だから、、、今更何を、、、

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