妄想爺のとんでも史観 (21) 感謝
妄想爺のとんでも史観 (21)
感謝
古代の交易。この国の隅から隅まで川がある所なら、何処へでも刳り船で、時には牛や馬で船を曳きながら遡上し、(神社に牛や馬が奉られているのはその名残りの場合があります)時には山を越え(対馬、丹後半島や若狭から琵琶湖、能登半島のその痕跡があります)、必要とする人の元へと運んでいました。
何本もの丸太を繋いで、筏にした物もあったと思いますが、繋いでいる蔓などが切れればバラバラになり、荷物は落ちます。
やはり、一度に運べる量は少なくとも、大木の刳り船が安全です。しかも転覆しても沈みません。
行った先々で物々交換をします。当地には無い必需品が手に入ります。持って帰ると羨ましがられる物を手に入れます。
そこには双方の感謝があったはずです。
以前、別の記事で 幸霊(さちみたま、さきみたま)の事を書きました。
また別の記事で、仕事って何だ?
約束を守る事で、その結果で感謝を貰い、しるしとして代金や報酬を得る。と書きました。
感謝の無い物々交換は、不満の元になり、争いの種になり得ます。
ある所では、海や山、畑で採れた自然からの贈り物を。ある所ではその贈り物を加工し、道具や装飾品、宝飾品として。
ある所では日と月の関係の知識を。ある所では屈強な男性や特技とする技術、見目麗しき女性が持つ食物やお酒作りの能力と、接待。
感謝があると継続します。継続が中断したり終了すると、不安や不満が募ります。約束を守る為、継続を優先します。
幸霊 を優先します。感謝の意を込めて、幸霊の一部を神に捧げます。感謝を込めて供えます。
みんなが集まり、感謝の意を伝え褒め称えます。神に供えた一部を一緒に食します。
お祭り、お祀り、おまつりです。
交易や交流が深まり、要求も増えてくれば不公平感も増していくと思います。
意見の違いが、言葉の違いによる理解や認識の違いが疑心暗鬼を生み、争いが起きる事も想像できます。
大きな事件や衝突になる前に、仲裁が欲しくなりますよね。
誰か信用、信頼できる人が「ここはこうしよう。」「ここは俺の顔を立ててくれ。矛を収めてくれ。この件を預けてくれ。」と言ってくれれば、、、「そこまで言ってくれるのなら、、、」となる場合も有りますよね。
それが、権威 となります。
現代で言えば、警察、裁判所と言う事になるでしょうか。盛んに不祥事を騒ぎ立てられたり、暴力的だ。冤罪だ。と肩身の狭い思いをされている様ですけど。
その権威を地域のリーダーが担い、数か所の地域のリーダーで大王を立て更に大きな権威とする。
いつの頃からか、その最高位を 皇室 天皇 としました。直近の権力者が、権威は面倒臭いから権力や権益を持ち、決まりや御法度を考えるから「承認」してよね。と言う仕組みを作りました。
歴代の中国の仕組みを取り入れたと、歴史学習では習いますが、似て非なるものは散見されるようです。
地域の中や交流先とのトラブル防止の為の、決まりや方向性を 奇魂 くしみたま としました。
出雲大社では、神語を唱えたり、奉書する伝統がある。神語(しんご)とは、「幸魂奇魂守給幸給」(さきみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ)の事で、最も重要な「唱詞(となえことば)」でもある。
と書いてあります。 By Wikipedia
その出雲大社の神前には、大きな波の上に乗る金の玉に向かい両手を掲げる大国主のモニュメントがあり、それが「幸魂奇魂」(さきみたまくしみたま) だと刻まれています。
大国主はだれから譲り受けたのでしょうか?
誰からのご褒美だったのでしょうか?
それとも奪い取ったのでしょうか?
その後、またほかの誰かに奪い取られ国譲りとなったのでしょうか?
因果応報だったのでしょうか?そういう時代だったのでしょうか?
長い間の協力関係、三位一体が綻び、本家出雲が冷遇されたのでしょうか?
盛者必衰の理では、片付けられない何かが起きたのでしょうか?
ある貴族の盛隆で、数多の豪族が切り捨てられたり、粛清に会う出来事が奈良時代や平安時代に起きています。
その頃の出来事を無理やり、神話の世界に閉じ込めた気がする、今日この頃。
ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。