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妄想爺のとんでも史観 (42)

 妄想爺のとんでも史観 (42)

  徐福

 前々回、鬼海カルデラの大爆発で避難した縄文人が数百年後にこの国に帰り、大規模な米栽培を進めたと書きました。それが約7,000年前の事です。
 それから約5,000年後、大陸は秦の始皇帝で統一されたと教科書では書かれています。
 揚子江の河口では、倭人の国が出来ていました。黄河周辺にもそれは広がっていったと思います。
 揚子江や黄河河口の倭人集落には、大陸各地から人が流入してきます。『あそこらへんに行けば、飯食えるかも、、、』の噂が広がっていたのでしょう。
 遥か遠く西の方からは、失われた10支族の人達も来たのではないかと思います。
 もしかすると数千年前には、鬼海カルデラの大爆発で避難した縄文人の一部が西にの方へ移住していたとも考えられます。
 その西の中には、鉄の生産を始めたメソポタミアやトルコも含まれていました。
 しかし陸続きの土地では、侵攻侵略の連続で追い出される事で文明も消滅したりしたのではないでしょうか?、いえ正確には別な場所へ移り別な文明として栄えたのかもしれません。
 そんなメソポタミアやトルコ、後のシュメールやイスラエルの人達の一部が、揚子江や黄河河口の倭人の国にやってきました。
 水田耕作で食料の備蓄も出来ていた所へ、鉄製造技術を持ったシュメールの人達が来たのですから、大歓迎を受けたのだと思います。
 耕作地を耕し、実った稲を収穫したり、燃料となる木や草を刈り取る刃物を作るのに最適な、鉄の製造が出来る人達です。
 よく話を聞けばその昔、同じ縄文の香りがします。言葉も名残があった事でしょう。伝承話の中に共通する項目が出てきます。
 色んな人が暮らせる村や国が、そこに出来ます。争いの少ない協力し合える縄文人の末裔たち、倭人の集まりの国が出来ていきます。
 見た目や姿形、目の色や髪の毛などはそれぞれの交流地との混血ですから、多種多様だったと思います。
 もしかすると、同族の印の 勾玉 とか持っていたりして、、、、

 秦の始皇帝の頃、黄河河口周辺の国に、徐福と言う方士の人がいました。
 始皇帝は不老不死の妙薬を求め、その徐福に船と食料と道具と若者を約3,000人託し、東海に浮かぶ蓬莱山へと旅立させたと言います。
 その徐福一行は蓬莱山の近くに到着し、生活を始めます。
 近隣に居た先住者達は最初は警戒したでしょうが、ある技術に驚き接近してきます。
 大規模耕作地開発(水路水田造成)、農業や工業用作業道具の作成(製鉄と鉄加工)だったのではないでしょうか?
 『是非、うちに来て。神として迎えるし。』引く手数多となった事でしょう。
 素戔嗚尊、ヤマタノオロチや天火鉾、大国主と少彦名の神話と重なります。
 奈良湖干拓における物部氏や出雲族、東海地方からの作業員供給とも重なります。
 その徐福、秦国の滅亡後に書かれた書物では 「その地の王となった。」と書かれているそうです。
 埼玉県大宮市の氷川神社、その近くの稲荷山古墳で見つかった鉄剣。象嵌で宝飾された漢字を用いた銘文が有名です。
 この国の中心だったとされている奈良湖の大和朝廷よりも、優れた技術を持った集団がそこに存在していたのです。

 記紀には書かれていません。蓬莱山も書かれていません。徐福の名も見当たりません。
 仕方ありません。記紀は作り話ですから、ファンタジーですから、自己正当化の言い訳ですから。

 この国の色んな始まりを、たった一人が作って来た訳ではありません。
 交易と助け合い、異人種との交流と交配、技術の伝承と成長拡大、縄文人を祖先に持つなんとなくひと固まりの集団。
 八百万の神として、心の拠り所としての神として、徐福も素戔嗚尊も大国主も天照大神も根っこは一緒だよと。
 イスラエルの流浪の民も、大陸の倭人も、この国の土蜘蛛(国津神)も「しらはおんなじよ。」と。

 自然災害から逃れ、新たなる技術を携え、色んな人と交流交配を重ね、この国へ戻って来た縄文人、弥生人、いえ倭人たち。
 この国の何が良いのでしょう。
 たまに荒ぶる、恵みをもたらす自然でしょうか、
 争えば生き残れないと思わせる、人と人の繋がりでしょうか?
 秀でた何かを持てば、神として崇めてくれる尊敬や畏敬の念でしょうか?

 令和となった今でも、そうそう変わらない気がします。

 おそらくですが、徐福が「その地の王となった。」話は、この国と大陸との交易者によって彼の地で広まったと思います。
 秦の始皇帝が死亡し、劉邦による「漢(前漢)」成立までの間に、かなりの数の大陸人がこの国へ”避難”してきたはずです。
 
 先祖は同じ倭人ですから、徐福も同族だと考えられていたのではないでしょうか?
 台湾島から先島諸島経由だったり、山東半島から遼東半島やその南の対岸(そこにも倭人はいました。)へ渡ったり、大きく回って歩いたりしてこの国へやってきました。一部の人には「里帰り」だったかもしれません。
 その大陸からの避難民およびUターン民の事を、弥生人 と後に呼ぶ事にしたようです。
 徐福が来た頃のこの国の人口は約20万強らしく、弥生時代になるとそれが約60万になったと言われています。40万人の避難民を受け入れる事の出来た豊かなこの国は、やはり憧れの的だったようです。
 もしかしてこの光景を、天孫降臨 としたのでしょうか?
 揚子江や黄河河口から九州南部へ渡り、隼人族の力を借りながら蓬莱山の麓へと向かった 大陸の倭人 達。
 ちょっとした衝突はあったにせよ大規模な戦闘も無く、天孫ご一行は途中先々で留まる人を残しながら、奈良湖へ向かう。それは孫の代までかかった数十年単位の話の様です。
 ちょうどその頃は、世界規模の寒冷期の終わり頃で、人口が激減していたこの国では、流入者を受け入れるか拒否するかで揺れていたのではないかと思います。
 拒否する側( 長髄彦?)言い分は、「病気を持ってくるし、何かといえば攻撃的だし、決まりを守んねえし、、、」
 受け入れる側( 饒速日?、徐福御一行の一人?)言い分は、「病気に対する抗体を多分持ってるべ。だってあいつら生き残りじゃん。それに同じ様に水田で稲、作ってたし。元々同族だし。」
 尚且つ、色んな技術を持っていたと思います。造船、土木、金属鋳造加工などじゃないでしょうか。
 この国の人口が激減していた時期です。技術者も減っています。歓迎する方が優勢になったのでしょう。
 しかし反対する勢力もいたはずです。接近される前に逃げたのかもしれません。山の中へです。それが後に 山窩サンカ と呼ばれたのかもしれません。

 記紀に書かれた神話の類は、この国の中だけで起きた事を語り継いで来たとは思わない方が良さそうです。
 縄文人たちが大海原を行き来し、鬼海カルデラ大噴火によりほうぼうへ逃げて、暫くして帰郷し縄文時代を生き抜いて来ました。
 その一方で大陸やら、もっと西方の遠くの現地の人達と交流交配し弥生人へと変化してはいるものの、同じ倭人として交流も交配も進み、大陸の混乱期に大挙して帰って来たのです。
 大規模な戦乱は起きなかった。なぜなら争いを選択しない縄文人の子孫だからです。
 稲作を大規模に発展させた倭人です。農業の共同作業はお手の物です。同様に土木や船や家のの建造建築、製鉄などの金属加工。
 縄文人、倭人、弥生人の区別無く技術の継承発展をして来たと思います。

 この国は、多民族国家です。価値観は違えど特別な能力や技術を持つ者を崇め奉ります。その恩恵を預かったりそれを習おうと、従順になります。
 自然災害に打ち勝つ助け合いをベースにした共同生活、協業産業、協力関係を優先にした生き残り先人たちの子孫なのです、我々は。

 やまとやじろべえでした。
 では、また、ごきげんよう。

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