見出し画像

黎明の蜜蜂 (第2話)

結菜が急ぎ足気味に席に戻ると、役職席の多くが空いていた。先ほど片山玲子に渡したパワーポイントをチェックするために、皆で会議室に詰めているようだ。 

今回の資料はゆうゆう銀行の現状をまとめたもので、それを役員に提示し、今後の進むべき道への議論につなげるのが目的だ。ここで大きく手直しが入るとは思えない。

結菜は次の四半期報告書の作成に取りかかった。結菜の役職名は主任で、役職者の内部会議といえばその上の係長クラス以上に召集がかかることが多い。今回のパワーポイントも片山玲子の指示で作業を担った形になっており、作業者は会議には呼ばれないのだ。

折角、自分の提案が評価されて企画部に配属になったのに、ゆうゆう銀行の将来を話し合う部内会議に出席できないのは残念な気がする。でも、この予定外の仕事で後回しになっている作業をさっさと片付けないと残業することになる。

長くなりそうな会議に出なくて良いのはラッキーなんだと、気を取り直して作業に没頭した。手洗いに立ったところで母に「今日は遅くなっても大丈夫?」とラインを送った。しばらくして「大丈夫よ。今日は私が早く帰れそうだから」という返事が来る。

5時過ぎに仕事を終えて席を立ち、「じゃあ、ちょっと飲み会に誘われているから、つき合うことにするね」と返信すると「久しぶりにゆっくり楽しんでね」と返ってきた。本当に久しぶりだと思わずつぶやいたとき、真一からのラインが入った。
結菜の知らない店だ。地図を表示すると毎朝降りる最寄り駅からそう遠くはない所らしいと分かった。
 

スマホ片手に探し当てた店は住宅街に唐突に現れた飲み屋という雰囲気だ。暖簾を分けてガラスの格子戸を手で引くと、中はカウンターとその横に4人掛けのテーブルが一列に5つ並ぶ小さな店と分かった。

いらっしゃい、と威勢の良い声に迎えられたが真一は見当たらない。乾さんの名前で予約入っていますか、と少しおずおずとした声で聞くと、奥にいらっしゃいますよ、と返ってきた。カウンターの向こうから真一が顔を出して手招きをする。

カウンターとテーブルの間の細い空間を進むと、横手に畳敷きの小部屋があった。高島涼子はいないが、真一と間島先輩のほかに二人すでに来ていた。
「ちょっと分かりにくかったかな。でも、そういうのがここの良い所でもあって」
と真一は少しいたずらっぽい目をした。

それぞれの人に軽く挨拶をして、部屋の真ん中にある掘りごたつのようなテーブルに結菜も足を入れる。そこへ表のガラス戸が開く音がして高島涼子もやってきた。

間島が、今日は初めてだからとりあえず、と言ってそれぞれを紹介する。先に来ていた二人は、入行3年目で営業部所属の藤田環奈と入行2年目で支店勤務の築山健斗だ。

「今日は僕が飲み会の声を掛けさせてもらったんですが、ゆうゆう銀行の将来について真剣に考えて行かないと、もう本当にヤバイところまで来てるってみんな思っているよね」
間島は高島涼子の前で改まった口調で始めたものの、皆の方を見渡して話すうちに仲間内口調になってくる。

「それで折角高島さんも当行に来ておられるのだし、ざっくばらんに話し合う機会があればと思ったんだ。言わば『高島さんを囲む会』ですね」
最後は高島涼子のところで視線が止まる。涼子は笑いつつ応じた。

「その『囲む会』というのは抜きにして、こういうお仲間に入れて貰って私も嬉しいわ。折角なので、敬語を使わなければとか気を遣うのもやめましょう」
「そうですよね。その方がざっくばらんに話せますよね」
と若い築山健斗が急に勢いづいたように大きな声を出す。

じゃあ自然体でと間島が言ったところで店員が注文を聞きに来た。「シェアでいいかな」と間島が言い、「じゃあ一人一品ずつ頼んで」と誰ともなく言うと皆が口々に注文する。

飲み物が先に来たので口々に乾杯と言いながらグラスを差し出し、最初の一口を味わう。
「いやぁ、気兼ねのいらない酒はうまい!」
破顔して間島が続けた。

「でも一応勉強会なんだからな、趣旨としては。それでいきなり高島さんに単刀直入に聞きたかったことがあるんですよ。今企画部で中期経営計画のためのビジョンづくりに入ってるんですが、高島さんはうちの銀行の将来、というか地銀の将来をどう見てるんですか」

「あら、そういう将来予想にはコンサルを雇うことになってるのじゃないの?」
高島涼子は微笑むが、個人的に勝手な話をすればということで、と断りながら言葉を継いだ。

「この頃は盛んに生き残れる地銀はどこだとか、地銀生き残りをかけてとかいうテーマで週刊誌などでも特集が組まれているし、金融庁も地銀の合併を念頭に相談室を設けたりしているわね。まさに地銀大合併時代。そうでもしないと生き残れないという危機感は大いに醸成されたけれど、そもそもなんでそんな危機になっちゃったか」

「それはこの低金利環境が大きいでしょ。ほんの少し上がっては来たけど、全体的にこんなに金利が低くちゃ融資の利ザヤも半端なく小さいですからね」
と築山健斗は、得意な様子で言った。

「それはその通り。じゃあなぜ低金利環境が続くのかしら」
涼子が言うと、藤田環奈は思案気に指をあごに当てて、その言葉を受ける。
「え、と、それはバブルの崩壊とかあって失われた30年とかがその後続いたっていうことが大きいのかしら。その後リーマン・ショックもあったし」

「でもさ、低金利は世界的な傾向でもあるからね。中国とか東南アジアとかからの安い輸入品が物価のレベルを押し下げて、金利も低くなる。コロナ自粛続きで景気も一段と悪くなって金利もさらに下がった。その後、反動的な上昇はあるにはあるけどね」
と言うのは真一だ。

その言葉を継ぐのは間島だ。
「まあ確かに、経済成長率と金利レベルってのは関連があるね。バブル崩壊なんかがあれば、資産価格下落の結果として不況にもなり金利にも下押し圧力がかかる。しかしバブルとその崩壊って、ここ何十年か周期的に起きてきている感じがするな」

真一が合いの手を入れる。
「大きいところでは80年代にはアメリカ株のブラックマンデー、90年に入ると日本株バブルは崩壊、一方アメリカではITバブルが出現し、10年ほどするとそれも崩壊、2008年にはリーマン・ショック、最近では中国の不動産バブル崩壊が始まったんじゃないかとか言われている。局地的なバブル現象とないまぜだ」

「崩壊のたびに中央銀行や政府が金融政策や財政政策を講じる。それは応急処置のカンフル剤として効きはする。しかし僕に言わせればその場しのぎをやって、それが次のバブルを呼んでる気もするな。そんなことを繰り返すうちに世の中は金でジャブジャブ、政府の台所は火の車で走ってるというか」
「間島先輩は、こんな政策にはいつか、つけが回ってくるってよく言いますよね」

真一の合いの手に築山健斗が勢い込んで続く。
「財政ファイナンスが、どうとかってことでしょ?そんなことやってる政府も中央銀行も、いつか破綻するって。でも日本の場合はそんなこと気にすることないって、僕聞いてますよ」

ちょっと、ちょっと、と環奈が割り込む。
「つまりなに?今の金融政策とか景気刺激策のこと?」

「いや、もう少し正確に言うと財政ファイナンスとは、政府の発行した国債を中央銀行、つまり日本の場合は日銀が直接引き受けることをいうのであって、それは制度的には少なくとも日本では禁止されている。でも日銀が5百兆を超える当座預金を抱えるまでに国債を購入しているのは、事実上の財政ファイナンスだという声も多いんだ。日銀自身は、それは金融政策上の必要に基づくものだから財政ファイナンスではないと否定しているけどね」

真一の説明に環奈は眉をしかめる。
「ちょっと、ややこしくなってきた。で、どっちなのと言いたいけれど」

「まあ、そういう定義のことは取り敢えず突き詰めないで実際面に注目することにしよう。築山君が言っているように、政府が借金を重ねて、つまり国債をどんどん発行して実質的にそれを日銀が抱え込んで資金を供給し続けていることに問題がないかどうかだ」

と間島が言っているところに料理が次々と運ばれてきた。「とりあえずは腹ごしらえだ」という間島の声に皆がテーブルの端に積まれた箸と皿を回し料理を取り始める。

出された焼き鳥やとんかつ、サラダなどを少しずつ自分用の皿に入れて食べ始めたところで環奈が続けた。
「築山くん、じゃ財政ファイナンスという名前についてはとりあえず横に置いて、それが何で気にする必要ないことなの? 政府が借金をし過ぎたら、結局その返済は私たち一般国民の税金でということになるのじゃないの? それじゃなきゃ、政府がいつか行き詰るでしょ?」

築山健斗はちょっと得意げな眼になって環奈を見て、人差し指を顔の前で左右に往復させた。
「ところがどっこい、日本ってお金持ちなんですよ。対外純資産は世界で日本がダントツ一位、それも30年以上その地位を守ってる」

「いや、対外純資産が多いというのは、政府のお金勘定だけじゃなくて民間企業や個人の勘定もあわせての話だからね。民間企業や個人の対外純資産が多いと、それが廻り回って税収となる可能性があるとは一般的には言えるかしれないが、そう単純に政府の借金と相殺できるかのような印象は持つべきではないね」
真一が即座に注釈をつけた。

ふうん、という皆の顔を見て築山健斗は少しむきになる。
「え、でも、実は政府が公表しない隠し財産もあるとか聞いてますよ」
「そういう都市伝説みたいな話を混ぜるのってどうなのかな」
環奈は不満そうな顔になる。

「そうだな、少なくともデータや情報の出どころのはっきりしていることについて話す方がよさそうだ。実は僕も政府債務がらみでちょっと悩ましい気分になってることがあるんだ」

そう言って間島はとんかつの一切れを口に入れる。皆が次の言葉を待って自分の顔を見ているのに頓着なくゆっくり咀嚼して、ビールで喉に送ってから続けた。

「築山君の言っていることは実はアメリカの経済学者が言い出したんだ。日本みたいに自国通貨を発行できる政府は、財政赤字を拡大しても債務不履行になることはないっていう主張をする学者がいる。彼らによると日本はその理論実践の成功例なんだそうだ」
「あ、MMTですか?」
反射的に結菜が言った。 
                     (第3話へ続く)

黎明の蜜蜂 (第3話)|芳松静恵 (note.com)
                                                                            


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?