黎明の蜜蜂(第23話)
田植えが終わって一週間経つころ、涼子に章太郎から連絡が入った。事件解決と栄転のお祝いをしたい、と言う。いつものスナックに行くと、章太郎はもう来ていた。
「こんな時は豪華なレストランにでもご招待すべきだと思ったんですが」
「そんな気を遣わないで。私の方こそ助けて頂いたお礼をしなくてはいけないのに」
「僕は単に情報をお伝えしただけですよ。でも、僕は何故かここが落ち着くので。無粋ですが、ここでシャンパンでも開けてお祝いを言わせて頂こうと」
「あら、それは嬉しいわ。シャンパンは久しぶりだもの」
章太郎は、それは良かったと微笑んで、バーテンを呼び寄せた。おや、珍しいですね、何かおめでたですか?などど、言いながらバーテンはシャンパンの栓を音が立たないように抜き、細い縦長グラスに慎重に注ぐ。
章太郎は、ええ、まあ、と曖昧に頷き、バーテンが離れるのを待った。
「常務が懲戒免職になったお祝いなんて物騒で言えませんしね。高島さんの栄転のお祝いですとだけ言えばよかったですかね」
そう言いながら、涼子の顔を覗き込むように見た。涼子は我関せずという顔でいる。こういう人だ、と章太郎は心でつぶやいた。
「とにかく、おめでとうございます。乾杯!」
「ありがとうございます」
グラスを合わせて、金を溶かしたような色の液体を、立ち上がってくる泡ごと飲む。よく冷えていて、爽やかさが喉に拡がった。
「いよいよ支店長ですね」
「実のところ、私はゆうゆう銀行が好きになっていて、皆とお別れするのはつらいと思ったのだけど。でも、転勤先が地元に近い支店だったので。父の介護も続けられるし、皆にもたまには会えそうかなと思うし」
「そうですよ。それにこの人事は高島さんの無罪潔白を公表する意味もあるのだから、大事な栄転なんです」
「そうね」
「嬉しくないのですか」
「いえ、嬉しいわ。でも今回は、よくよく考えると地元を離れずに済むことが嬉しさの第一の理由ね」
「これまでの高島さんのイメージとは少し違う感じがしますよ。あれだけ仕事に打ち込んでいたのに」
「もちろん、仕事も一所懸命するわよ。やりたいと思っていることもある。でも、父の介護に関わりながら、時々は心を許せる仲間と話をしたり、農作業を楽しんだりできそうなのがとても楽しみなの」
「そうですよね。心を許して話ができる、とか、自然の中に溶け込んだ時間を過ごすとか、本当に豊かさを感じるなあ。それに比べてM銀の醜さ。やってられないですよ」
涼子は章太郎に気を配りながらも、黙ってグラスを傾ける。
「今回の事件で本当に腹が立って、こんな銀行で僕は何してきたんだろうと思って、ものすごく虚しくなってしまったんです」
涼子は先日の農作業の折はもっぱら間島や真一たちと行動を共にしていたが、初めて紹介された大夢(ひろむ)にも驚く様子もなかった。ごく自然に接してくれたのが、ありがたかった。
自分が一人こだわって緊張しすぎていたのだろうか。いや、やはり涼子だからだろうと思った。M銀の他の同僚は違った反応を示す人が多いのでは、と今でも思う。
それにしても、何故そういう人たちにびくびくするような気持ちを抱きながら接しなくてはいけないのか。大夢のことだけではない。スイスでの経験も脳裏によみがえる。
何故か職場関係の人には、素朴な疑問や本音を言うことは憚られた。言うと、自分の将来の足かせになる気がした。思い過ごしだと笑い飛ばしたかったが、日々のやり取りの中にそのような気配を感じて、殻に閉じこもるのが習い性になってしまった。
そういう風に息をひそめるように周りを窺い、合わせることにきゅうきゅうとして生きているのに、その職場って何なんだ。自分の小さな利害勘定しか念頭にないような人間が一杯だ。
と言って他人を非難する自分はなんだ? そういう風に、自分自身を冷たく見つめる自分もいる。カメレオンのように、周りの色に同化しようと腐心したのは何故だ? 結局、銀行での評価、つまりは出世が気になったからじゃないのか?
確かに、両親の期待を背負っている感じはあった。だが、大学に入ってすぐ家を出たのは、家の事情に、現実に目をつぶりたい気持ちがあったからと認めざるを得ない。そうやって逃げて、何かを失った。
何か絵空事を描いて、自分でない人生を歩こうとしていたんじゃないか。だから自分を見失い、軸を持たないまま、ただひたすらに周りに同調しようとし、そうなりきれない自分を持て余していたのじゃないか。
もっと、現実に根を下ろし、等身大の自分で世間と関わり合う。そういう自分を嗤ったり、もしかしたら馬鹿にして圧を加えてくる人間もいるかもしれない。しかし、自分が自分の大地にしっかり根を張っていれば、そんな嵐も自分の養分となり、自分の成長につながるのではないか。
そうして、自分は自分らしい生き方ができるようになるのではないか。自分の幸せを探せるようになるのではないか。
「今回、農作業を手伝って、ひたすら苗を植えたりとか、顔を上げれば緑の風景や青い空があったりとか、本当に何年か何十年かぶりに息ができた気がしたんです。こういう機会をもっと増やしたい。もっと広めたいと思ったんです」
涼子は、少しもの言いたげな口をつぐんでいた。
「僕は銀行を辞めて、妹の言い出したプロジェクトに協力していけたらと思うんです」
「それが、あなたにとって一番良い生き方なの?」
「そう思います。少なくともM銀に自分の人生を捧げるよりは、よほど良いですよ。高島さんも、そう思いませんか? 今日の高島さんを見て、僕は賛成してもらえそうに思ったのですが」
「もちろんあなたが、それが一番と思うなら、自分の気持ちに正直になると良いと思うわ。でも」
「でも、何ですか」
「人はそれぞれだから、私の考えを押しつけることにならないと良いのだけど」
「押しつけなんて思いませんから、言ってください」
「昔読んだドイツの心理学者のフランクルの本に、人は平等には生まれて来ない、しかしそこからどう生きるかを選ぶ権利は平等にある、と言うような言葉があったのが心に残っているの。少し拡大解釈になるかもしれないけれど、色々な経験をすると本当にそうだなと思って」
「確かに、そうですね」
「ひろむくんは、精一杯頑張ってるな、偉いなと思った。ひろむくんに会って、またその言葉を思い出した」
今度は章太郎が無言になった。
「私ね。人はそれぞれが持って生まれたもの、授けられたものを最大限活かす努力をする、それが美しいと思うの。それが幸せと思うのよ」
その通りだと感じた。無心に空に向かって飛び跳ねる姿、空になった苗床の箱を一所懸命に運ぶ姿は美しかった。それに気が付いたから、だから、自分も変わろうとしているのに。
「僕が同じようにしては駄目なんですか。それを助けるのがいけないんですか」
「誤解しないでね。そういうことを言いたいのではないの。それは素敵なことよ。でも、あなたの場合、それだけで自分の能力を活かしきることになるかしら」
「それは買いかぶりだし、それにプロジェクトだって発展して、色々な業務処理や戦略も必要になるでしょうし」
「もちろんそうよ。だから、今すぐそちらの方面にあなたが進みたいなら、当然そういう選択肢もあるわ。ただ、あなたは他の人がなかなか入れない大学も出て、入れない銀行にも採用され、スイスのBISまで行って経験を積んだ、積める能力を授かっているのよ」
「大学や企業がなんですか。あと10 年もしたら、世の中ころっと変わっているかもしれないじゃないですか。と言うより、変わっている可能性が大きい、と高島さんも言ってたじゃないですか。企業も社会も価値観も何もかもひっくり返った世の中で、今の生き方が通用するとも思えません」
「同感だわ。櫻野結菜さんのアイデアは、そんな世の中が来た時こそ生きてくると、私は思っているの」
「世の中の秩序ある破綻、のためですか?」
「そういう言い方もできるのかしらね。破綻は望ましくないかも知れない。破綻なく、次の時代に向かっていければいい。そのために、このプロジェクトが国中に広がればという夢ももっているわ」
「でも、もし破綻が起きても、せめて秩序ある破綻に持ち込めるようにという意味もあるんですね」
「そう。これは、世の中がひっくり返るような時代にこそ活きてくるプロジェクトよ。世の中がひっくり返る時代でも、今ある経済や政治のメカニズムは一夜で変わりはしないし、力で潰せば済むとも限らないでしょう」
「このプロジェクトが社会に浸透すれば、秩序ある破綻を助けるという訳ですね」
「社会が混乱した時こそ、生活の基本である食糧へのアクセス、心身の健やかな基盤があるって大事ではないかしら。少なくとも、それが社会の下支えに役立つ」
「確かに、今みたいな低い食料自給率で、自分たちの食べる物の大半を輸入に頼っているようじゃ、そこに混乱をきたせば大変なことになりますね」
「食料自給率だけを見ても、そうね。このプロジェクトの未来への到達の仕方は色々あるでしょう。むしろ、一つの道筋だけでは脆弱になるから良くないのよ。その色々を支える色々な才能が必要なのよ、世の中は」
「おっしゃりたいことは、かなり分かった気はしますが」
「あなたは、あなたしかできないことをするのは如何? そういう才能はこのプロジェクトの潜在的効用を最大化するために、絶対必要なのよ」
「僕しかできないことって何ですか。M銀に入って十年余り、ただ身を縮めて流されていただけという気がしますよ」
「そんなことないわ。気づかないかもしれないけれど、色々なものを身につけてきている。例えば、あなたなら学者だろうと政治家だろうと、相手も対等に議論してくれる。彼らの懐に飛び込める」
「そういうことをする人間も必要だと言うのですね。プロジェクトが本当に成功するためには」
「本当の意味での成功を目指すにはね。あなたと私はここで経済の現状や色々なことを話し合ってきたわね。私は将来を憂えている。憂えているけれど、希望も持っているのよ」
「高島さんは、結構将来に対してポジティブな感覚をもっているんですね」
「まだできることがあるはず、と思うという意味では、そうかもしれない。私はね、このプロジェクトの潜在的可能性の大きさを時々思うと、気持ちが上がって空に飛び出したいくらいの気分になるの」
「そんなにすごいものなんですか」
「そんなにすごいものに、育てられる。そういう可能性があると思う」
「日本を救うとか?」
「世界を救うとか?」
と言って、涼子は少しいたずらっぽい笑みを見せた。
「そういう可能性があると思っている。もちろん、育て方によっては全然違う風にも展開するわ。それなら、それで良いかも知れない」
「でも、それではもったいない」
「そう。そして、そういう大きな可能性を現実化するためには、それだけの人々が関わらなくてはならないわ。色々なスケールの人の、色々なキャパを持つ人が、多方面から支えて育てる努力が必要だわ」
「その時に、その一翼が担えるよう、そこで僕が僕の授けられたものを最大限まで活かせるよう、今は準備をするということですね」
その夜涼子と別れた後、シャンパン一瓶を二人で飲み干して少し酔ったなと感じながら、しかし章太郎の気分は軽く、スキップするような気持ちで駅へ向かった。
ひろむの顔を思い出した。本当に喜びをあんなに純粋に表現するなんて、自分には到底できない。あんなに熱心に空箱を運んだりできない。
すごい奴だな。心底思った。いろいろ苦労もあったろうにな。頑張っているんだ。そう思うと、ひろむの存在が誇らしくなってきた。
銀行の皆に何と思われようと、それがなんだ。出世に響いたとして、それがなんだ。自分は、交渉術であろうがなんであろうが、M銀で身につけられるものは全部身につけてやろう。本当の意味でM銀の将来のために有用な人間になろう。
そして、それを役立たせるのだ。精一杯。自分の信念に向かって。希望に向かって。
章太郎は体の中から何かが噴出してきた感じがして、その場で一歩、ひらりと飛んだ。 (完)
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