黎明の蜜蜂(第11話)
もうすっかり慣れた手つきで表のガラス戸をガラガラと引くと、店員たちの聞きなれた声に迎えられる。左手のカウンターを横目に迷わず奥に進んだ。
真一、健斗、環奈がもう来ていた。席に着くなり結菜は間島から預かったパワーポイント資料のコピー二部を取り出す。今日役員会議室で使われた資料だ。
「間島さんから皆で読みながら待っていてと渡されたの」
健斗がヒューと軽く口笛を吹く。
「トップ・シークレットじゃん、これ」
「経営改革プランはいずれ対外的にも公表されるけど、それまでは内部重要資料だから、と間島さんに念を押されたわ。だから人数分はないのよ。ここで読むだけ」
皆がお互いの眼を見合わせ、環奈と健斗が一つのコピーを覗き込み、真一と結菜がもう一方を一緒に読んだ。
「ちょっと築山君! そんなに早くページ繰ったら読めないじゃん!」
「だって間島さんが来るまでに読むんでしょ? 前の方は現状分析でストラテジーは後の方だから、先に後の方を読んだ方がいいじゃん。それが肝心なんだから」
「それはそうかもしれないけど。でも、いきなりストラテジーとか言っても、なんでそのストラテジーがいいのか分からないよ」
「だからさ。ストラテジーを読んだ後に、現状分析読めば納得できるでしょ? それに、途中で間島さんが来てもストラテジー分かってる方が、現状分析しか知らないより話について行きやすいよ」
環奈と健斗が言い合っている間に、真一と結菜はストラテジー案のページを丹念に読んでいた。結菜は現状分析についてのページは制作にかかわっていたし、企画部に長くいる真一もその辺りは既に把握している。
やがて環奈も健斗の主張を取り入れて二人でストラテジーのページに集中し始めた。10分ほどして間島が到着し、ほどなく涼子も姿を見せる。
「お待たせ。出る時にちょっと手間取って。あれ?皆まだ飲み物も注文してないの?」
「いや、御大をお待ちしていたんですよ。と言うのもありますが、このパワポ資料かなり分厚いじゃないですか。間島さんたちが来る前に読み終えたかったんですよ」
真一が言うそばから健斗が皆にメニューを配る。まずはビールだな、まずは腹ごしらえ、と口々に言いながら注文を始めた。
食事中も、皆は役員の反応や会議の雰囲気について興味津々に間島から聞きだそうとする。間島は、差し支えないと思う範囲ではありそうだが、今日の会議のハイライトを聞かせる。
「それで、コンサルのレコメンデーションはそのまま採用ですか?このままではちょっと総花的な感じで、うちの規模だと却って体力不足が目立って、どれも中途半端になる気がするんですが」
「確かにね。コンサルも取り敢えず理想論をぶち上げたってところだね。その中から、うちの体力に合わせて厳選した戦略に集中投資するしかないのは、彼らも分かってるだろ。役員も、もちろんね」
いきなりそういう切り口での話となったので、皆食事どころではない顔つきになった。
「いやいや、先に腹ごしらえが大事だ。冷めないうちに食べよう」
間島は慌てて付け足す。皆は、はっとして今度はひたすら箸を動かし黙々と食事に取り組み始めた。それを見た涼子がくすっと笑ったのを合図のように、環奈が口を開く。
「それにしてもこのパワポ資料、結構分厚いうえにページごとにぎっしり字が埋まっていて情報満載って感じ。頭がくらくらしてきちゃうくらい」
「確かに。これプロジェクターで映したら、読むのに忙しくて、プレゼンターの話は耳に入らないんじゃね?」
健斗が同調すると、真一も笑いながら続く。
「本当だなあ。プレゼンで前に映す資料は話のポイントだけ短く箇条書きにした方が、内容が記憶に残ると思うけど。持っている情報は全部書き込んで、突っ込まれる穴を作らないという意図なのかなあ。よく分からん」
これ、うちの銀行の特徴? いやいや、日本の組織の特徴じゃない? こういうの、他のところのプレゼンでも結構見るよ。これだと、普通にワープロでレポート書いて、別にパワポでプレゼン資料作った方が良いんじゃない? まあ、でもこのお蔭で会議に出ていない人でもプレゼンがどういう内容だったかは分かる。そうだね、そういう効用はあるかも。
などと話しながら、食事はそそくさと進める。皆の前に少しのつまみと飲み物くらいが残ったところで間島が切り出した。
「という訳で長い資料なんだが、皆一応目を通してもらったのかな?」
「私細かい所は十分読めてないけど、大きな字で書いてあるポイントを見てて大体言いたいことは分かった気がする」
環奈が大きな目をくりくりさせながら一番乗りを決めた。
「要は、こうよね。
① 合併しろ。あるいはホールディング・カンパニー制でも良いから重複機能を整理しろ。
② 地域経済発展と共に発展できるよう、地域特化をしろ。
③ その為のプラットフォームを作れ。
④ 地域中小企業へのアドバイス機能を充実させて手数料ビジネスを増やせ。
⑤ デジタル化を促進して、個人客のニーズを満たせ。
⑥ 証券運用能力を高めて運用益を稼げ。
⑦ オペレーションをスリム化してコストダウンを図れ。これって、人員整理も含むってことなの?」
最後は少し不安げになった環奈である。健斗が負けじと知識を披歴する。
「合併だとか、ホールディング・カンパニー制にするとか、よく聞くよね。数年前に当時の菅首相が、地銀の数が多すぎるって言ったしね。そもそも、そうなんでしょ」
「金融庁も数年前に地銀合併サポート・デスクみたいなのを作ったしね。ここのところ地銀の統合が目白押しだ」
「そういう戦略を掲げてる銀行もあるし」
真一も結菜も同調した。で、うちはどうなのという顔になるが、間島は話を少し引き戻す。
「確かに、極端な低金利が長く続いたために、貸金で利ザヤを取るという従来一番大きかった収益源が細くなり、固定費が大きな負担となってきたからね。一方でテクノロジーの進化に加えて規制緩和もあり、他業種からの参入も増えて、銀行の収益環境は益々厳しくなってきた」
「で、銀行を統合して機能を共有化すれば、固定費比率が下がり利益率が上がるだろうというのは、シンプルで分かりやすい発想ですけどね」
「要は、さっき藤田君が挙げてくれた七つのポイントは全て、様々な環境変化で儲からなくなった銀行の既存ビジネスモデルを、どう変えたら儲かるモデルになるかという話なんだな」
「あ、私、大文字で書いてある所だけ羅列的に言ってみただけなんですけど」
間島に発言を褒められた気がして環奈は慌てて謙遜するが、それだけでは終わらない。
「でも、儲かるようにするためには、収入を増やすか支出を減らすかの二つしか方法はない訳でしょ? この七つはそれぞれどちらなのかしら」
「いいポイントだね。じゃあ、その観点からこの七つを整理してみようか」
間島が環奈を持ち上げるので、健斗も負けん気で参入する。
「④番の手数料ビジネスを増やせ、と⑥番の運用益を稼げってのは明らかに収益拡大を目指してるんですよね。⑦番のスリム化でコストダウンは支出を減らせってこと。①番の合併かホールディングスカンパニー制で重複機能を削減、もさっきの話からして支出を減らす方かな。②、③、⑤は、え~と」
二秒ほど口をもぐもぐさせたかと思うと、エイやという風に付け足した。
「地域経済発展とかプラットフォームとかデジタル化とか、未来構想みたいだから、何か今までにないことをするのかな」
「お、いい線行ってるな」
間島にそう言われると、健斗も嬉しそうである。
「でも、確かにそうと思う反面、すごく総花的で全部を目指すとあぶはち取らずの印象を受けるんですよね」
真一は先ほどの第一印象を繰り返して言う。
「そうよね。この7つのポイントっていま全国にある62の地銀どれにも当てはまりそうな話だし。でも、一つ一つのポイントを見てみると、達成するのは簡単じゃないわよね」
「そうさ、例えば⑥の『証券運用能力を高める』と一言で言っても、証券投資の世界で勝ち抜くって生易しくない。究極のところ、ウォールストリートなんかで凌ぎを削っている連中なんかとでも勝負しようっていうことなんだからさ。そもそも、決まった給料で決まった仕事を粛々とこなす銀行員とは違う風土にいる連中との勝負なんだよね。たとえ銀行をそういう風土になるよう機構改革するとしても、何年という単位では達成できない話と思うよ」
以前、外資の信託銀行に半年間トレーニーとして出向した経験のある真一が一気にまくしたてると、健斗も日ごろ見聞きしたことを披歴する。
「『企業へのアドバイス機能を充実』なんて言ってもさ、僕は営業部で上司や先輩についてお客さん回りしてるけど、コンサルチックな話ってほとんど聞いたことないっすよ。なんか、過去の収支報告書や貸借対照表の数字比率とかだけで顧客のランクを決めてるだけに見えるし。コンサルできるだけのノウハウが、そんなにすぐ習得できるものかって聞きたいっすよ」
「ああ、そうだな。もともと銀行の貸出業務は企業の成長力を目利きして行っていたのが、バブル期に土地の担保価値だけを元にした貸し出しが増えた。その上、バブル崩壊で銀行自体が存続の危機に瀕した際に金融庁が導入したマニュアルが、過去の会計実績での企業のランク付けに基づく貸出先の選別だった。それが今日まで残り、銀行員の目利き能力が無くなったって言われている。僕なんかも、入行年はバブル崩壊後だから、その一員かもな」
間島がやや自嘲気味に頷く。
「あ、分かった。総花的って、つまり花、つまり良さげな話が百花繚乱に並んでいるけど、その全ての花を咲かせようとすると無理が来て総倒れになるってことなんですね」
環奈が素っ頓狂な声を上げると、何言ってんの今頃、と健斗が呆れたように横目で見る。環奈はそれを完全無視して続ける。
「だからこのパワポの提案は総花的なのは分かったけど、それじゃ、どうすればいいの? ④と⑥は実現が難しいとなると、コストダウンで行くんですか? 人員整理とか」
最後は声が小さくなって、不安そうな目で皆を見回した。
「え、え、え? じゃ、僕たち今流行りの転職をするしかないの? 高い金払ってコンサル入れたのは、何か良い案がないかを探るためでしょ。でもこれじゃ結局どうしたらいいんだか」
右往左往している環奈と健斗をなだめるように、間島が話を進める。
「いや、ここですぐに結論をだそうとしないで。物事がどこか腑に落ちないときは、僕たちが当たり前のこととして改めて考えもしないことについて、その核心にまで立ち返って考えてみるのは有用だ。と、これは高島さんのよく言う言葉の受け売りですが」
「私に話を振られちゃったかしらね。そうね、私も皆に同感だわ。ここに書いてある戦略は、“銀行”というものを前提に今ある銀行機能をそれぞれ強化せよという話ね。既存のものは我々だってなじみがあるのだから皮肉な言い方をすれば、それができるなら、もうしているはずね」
「“銀行”の戦略だけど、“銀行”を外して考えろってことですか?」
「ええ、“銀行”ありきではなく、まず我々を取り巻く環境がどう変わってきて、今どういう機能が社会に求められているのかというところから考えてみてはどうかしら」
「言われてみれば、確かにそうですよね。これだけ世の中変わってきたのだから、とにかく頭の中から既存事実を取り払って考えてみる必要があるんですね?」
結菜が勇気づけられたように言うと、環奈は悲鳴を上げる。
「えぇ! 銀行要らないなんて、そんなのあり得るんですか? 私たちどうなっちゃうんですか?」
「もぉ、すぐそういう方向に行っちゃうんじゃなくてぇ」
健斗は語尾を上げて環奈を遮る。
「櫻野さん、何か考えがありそうね」
涼子に促されて結菜は少しどぎまぎする。
「え、と。その。私ちょっと思ったのですけれど、『企業へのアドバイス機能を充実させる』という戦略は、それで地域経済の活性化を図る、図れるという文脈につながっている感じですよね。でも地方銀行にとっては、その前に、地域全体の人口減少だとかの影響で企業活動がしにくくなっているということがきついんじゃないかと思うんです」
皆の眼が次の言葉を促す。
「それで、あの。これだけですべて解決という訳ではないですが、アイデアがあって」
「それが『ゆうゆう銀行再生案募集』で役員賞を取ったやつですか?」
「やつって何ですか。やつって。役員賞なんだからもっと上品で高尚な言葉で言って」
健斗と環奈の掛け合い漫才のようなやり取りに、皆がはははと笑い、結菜は少し気持ちが楽になった。
「さっきの人口減少の話なんですが、農業人口の減少も問題となっていますよね。それで遊休農地の問題も。少子化が進んでいるうえに、若い人が都会に出てしまって農業の担い手がいない」
「そう、東京近郊のこの辺りでも何万ヘクタールという農地が耕作されないままに荒地と化している」
真一がそう言うと環奈が勢いづいて口を開く。
「そうよ。私のお祖父ちゃんも農家だけど。子供が四人もいるのに、皆都会で働くかお嫁に行ってしまって、今じゃ十町歩もの土地を一人で面倒見てるのよ」
「そういう話よく聞くよね。今農業をしている人も高齢化が進んでいるから潜在的遊休農地はもっとあると見ていいね」
「人が減る、だから農業をするのもますます厳しくなる、だから若い人は農業を継がず都会に出る。物を買う人も減る、そうすると店も採算が合わなくなって閉めてしまう。すると、不便になって人がまた減る。そういう悪循環があって地域経済の地盤沈下が進むんだ」
皆が話に乗ってきている気がして、結菜は勇気づけられる。
「そうですよね。地域にそもそも活気がなくなってしまえば、ビジネスの環境は悪くなる。悪循環です」
「だからさ、県だって町おこし、村おこしに熱心でいろんな補助金も出すし、農業移住も推進してるでしょ?」
「ええ、でも、その効果が。補助金を出して農業を続けてもらうとして、例えば機械化は進んでそれだけ少ない人数で耕作できるかも知れないけれど。それで農業人口の減少を補えるかどうか」
「そうよ。うちのお祖父ちゃんは、もうすでに機械を究極使って一人で十町歩耕してるのよ。補助金貰って、どうするかな。人雇うったって、そもそもいないのよ、人が」
「それに、都会の喧騒が嫌になって、自然の豊かなところで農業をしようと移住する人は一定数いるかも知れないけれど、本格的移住が大幅に増えることは期待しづらいのではないかしら」
「そうだなあ。教育の機会や高度医療施設へのアクセスなんかを優先したい人も多いだろうからなあ」
皆の合いの手を聞いて、間島が締めてくる。
「それで櫻野さんは、どういう手があると思うの?」
「あの、農業っていろんな作業がありますよね。そういう作業を小分けにして、農業マッチング・アプリみたいなのを作って、手伝ってほしい農家と、ちょこっと農作業したい人を結びつけるんです。手伝ってほしい作業と、期間と時間帯をアプリで出して。」
「へぇ、農業マッチング・アプリ? 面白そうじゃん。この頃の流行りは、モノじゃなくてコトだって言うし。週末はテーマパークに行く代わりに、種まきデートとか親子で芋掘りとか楽しむんだ。でも何それ、要は農業ボランティアを募るってこと?」
先に喰いついたのは健斗だが、目には懐疑の色がある。
「そうじゃないの。ちゃんと働いた分は農作物に換えてもらうようにするの。例えば、二時間この作業すれば何ポイントとか、ポイント貯められるようにして、ポイント交換で野菜とかを貰えるとかね」
「え、でも、でも、でも」
環奈は目をくるくるさせている。
「そりゃあ、都会で生活しながらも時々農業なんて結構面白いと思う人はいると思うわよ。それで人手不足が少しでも解決できれば良いだろうし。でも、ポイント貰うとか野菜をポイント交換で貰うとかって、銀行ビジネスと何の関係があるの?」
涼子がにこにこ笑いながら、それに応える。
「そうね。私たちが慣れ親しんでいる銀行、というより金融は全てお金、と言うか「貨幣」に関わる話だったわね。ポイントという言葉には貨幣という語訳はつかないわ」
そりゃ、当たり前でしょ、という皆の顔。
「でも、それでは貨幣ってそもそも何なのかしら? 貨幣の一般的な定義は『価値の尺度』『交換の媒介あるいは決済手段』『価値の蓄蔵』。例えば今現在だって、お店やデパートがくれるポイントにも、少なくともそういう機能はあるでしょ?」
「ええっ! ポイントが貨幣なんて、急に言われてもすぐに吞み込めません」
すると真一は九十度に開いた親指と人差し指を顎に当てて言う。
「だが確かに、ポイントだって貨幣みたいなもんだ。少し前まで仮想通貨と呼ばれていた暗号資産も、価格の安定性がないから貨幣としての機能は果たしにくいとしても、やはり貨幣だと思うし、ポイントだって言われてみれば貨幣の役割果たしているね」
「そう、唯一違うのは」
涼子が謎かけのように言い始めると、結菜がつぶやいた。
「今、貨幣と呼ばれているのは中央銀行の発行した物だけだってことですか」
皆が少し驚いたような顔をして結菜を見る。涼子は何気に続ける。
「ご明解」
「僕たちが当たり前のこととして改めて考えもしないことについて、その核心にまで立ち返って考えてみるって、そこまで遡るんですか」
間島が感嘆の声を上げた。
「ポイントの話が出たのが興味深くて、ついそこまで遡ってしまったけれど」
「それはもしかして、我々を取り巻く経済環境ががらりと変わる時が来る、そうなっても時代に適合できるような『銀行』にならなければならないと言う意味なんですか?」
「私は、そう思うのだけど。まあ、あまり先走ったような人の耳慣れないことを初めから押し出すと、誰も耳を貸してくれなくなるかも知れないし。地域経済の総合的な底上げ効果を狙った戦略というだけでも今は十分だと思うわ」
涼子は少し引いた姿勢になっている。
「同時に、ポイントを扱うのにも慣れてくると、それはデジタル戦略にも関係してくる」
真一はさらに喰い込んでくる。
「農業マッチングアプリを拡大して、色々なビジネスのプラットフォームもできるかも」
環奈も遅れをとるまいとしている。
「いやぁ、でもさ。実際にどうするの?アプリ自体を作るのは簡単でしょうよ。でも、実際にいろんな人がやって来たら、どうやってそういう人たちを捌くの? ガチ素人だよ。種まくにしても、収穫作業にしても、ちゃんとできるかどうか」
健斗の懐疑心は払拭されない。環奈はすぐに揺れる。
「そうね。うちのお祖父ちゃんなんか、人に教えたりするくらいなら自分がやった方が早いって思う人だよ。それに村の人とか、知らない人が入ってくることに警戒するんじゃないかな」
「コーディネーターが、必要なのは確かです。沢山の農家と大勢の人を結びつけるには、その働きが成功の鍵とも言えます」
結菜はできるだけ落ち着いた声で話そうとした。
「コーディネーターは誰がするの?その報酬はどうするの?この事業でその報酬も賄えるのかな?」
「農作業をして、その対価として農産物を貰う。中心になる活動はそれだけですから、そこに余分のお金は生まれません」
「ということは、このエコシステムを回すためのお金をそこから生み出すのは無理ってことね。なら、公共事業にするの?」
「このプランは公的補助金や寄付を前提にしているものではないです。ただ、コーディネートについては、まずは村おこしに関わっている人や、県や市が予算を当てて行っている農業振興事業にかかわっている人は、活動の一環としてできないかしら?」
「お役人は、上から降ってきたもの以外は受け付けないよ」
環奈や健斗は早くも脱落しそうになる。
「まあまあ、課題が多いのは確かだけど、最初からそう諦めムードにならないで」
間島がなだめると、真一も結菜に加勢しなきゃと思ったようである。
「うまく行って人の往来が増えると、地元野菜販売とかあれこれビジネスも考えられるからね。そこからコーディネーターやその他の費用を賄うこともできるようになるかも知れない」
「そうね。コンサルの提案②の地域経済への貢献というのは、地域経済が活況になれば廻り回って銀行ビジネスも生み出すという意味でも重要だから」
涼子にも言われて、環奈と健斗は慌て気味に付け加える。
「私、櫻野さんの案そのものに反対って言うのではないです。実際、そんなことが出来たら楽しいだろうなとは思います」
「僕もです。ただ実現にはハードルが高そうだというところを議論した方が良いと思っただけで」
「そうだな。そういうところはよく検討した方が良い。二人の今日のコメントは、櫻野さんがこの提案を当行の次期戦略に埋め込む具体的イメージを描くのにすごく参考になると思うよ」
間島にそう言われると、結菜は体中の筋肉が引き締まる感じがした。
「はい、でも、あの。役員賞は貰いましたが、今回のパワポでは全く取り上げられていないので、実際はボツになった案かと思ったのですが」
そう言われて間島は一瞬うーん、と腕組みをする。
「いや、そうとも言えないよ。このパワポは役員会で検討されて今後の戦略の骨格となるのは確かだ。しかし、さっき皆も言ったように、まだ加筆修正が行われるから、その際に具体的戦略の一つとして櫻野さんの提案も反映される可能性はある」
可能性かぁ、と健斗が思わず気の抜けたような声を出し、結菜はとても無理という気持ちになった。
「僕らも応援するよ」
そう言って、間島は思わず知らず涼子の顔を見る。涼子はいつものように冷静な顔をして、しかし何か深く考え込んだ眼をしていた。
(第12話に続く)
黎明の蜜蜂(第12話)|芳松静恵 (note.com)
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