黎明の蜜蜂(第5話)
頭の中をこれまでのことがぐるぐる回り、結菜はあてどなくさ迷うように歩き回っていたが、目の前に小さな公園が現れた。六十坪ほどの空間の周りを木が何本かで取り囲んでおり、道路側にブランコが2台、奥にジャングルジムがある。
大夢(ひろむ)がずっと小さい頃、機嫌の良い時はこの公園によく連れて来たわ。結菜は思い出した。過ぎ去ったその時間をかき抱くように、胸の前で腕を交差させた。
横手のベンチに人影がある。大夢だ!嚇かさないよう、そっと近寄る。
「ひろむ、ここにいたんだ。探したのよ」
隣に座って静かに語りかける結菜に気がついているのかどうか。
「ここ昔よく来たね。ひろむはこの公園がすきだったね」
結菜はうつむいている大夢をのぞき込み、右手を彼の左手に乗せた。ふと、甲に温かいものを感じる。
「どうしたの。泣いているの?」
結菜は静かに呼びかける。反応はないが、じっと待った。
「ぼ、僕は」
大夢がどもりながら口を開く。結菜は大夢の手を握り、その顔を覗き込む。
「僕は、生まれてこなかったら良かった」
たどたどしくはあるが、はっきりとそう言った。結菜は大夢を凝視する。大夢がそういう感情を吐露したことなど今までになかった。そういう感情を抱いていたのか、そんな言葉をどこで紡いだのかと、驚愕した。
何を言うの!という声をとっさに抑え込み、結菜は大夢の肩を抱いた。大夢の膝に涙がぽたぽたと落ちる。
「どうして。どうして?」
結菜はか細いかすれ声を絞り出す。
「私はひろむがここにいてくれて嬉しいのに」
「嘘だ!」
普段はいつもうつむいて眠ったように見える大夢の目が大きく見開かれ、結菜を凝視している。怒っているような、憎々しげでもあり、もがいており、そして泣いているような、何とも言えないまなざしだった。そんな目線で大夢に見られたのは初めてだ。
「なぜ嘘なの?なんでひろむは私が嘘ついていると思うの?」
そう問う結菜の瞳に一ミリの揺らぎもなかった、とは言えない。結菜も自分で気がついた。大夢が暴れてどうしようもない時、母が疲れ果てて悲嘆に暮れているとき、自分も明日学期末試験があるのに大夢の世話や家事に追われているとき、大夢がもしいなければと思ったことが一度もないなんて言えるだろうか。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ!」
大夢は繰り返す。
結菜は胸の奥に鋭い痛みを感じた。そんな風に思っていたんだ、大夢は。
13歳で精神病院に送られた大夢は、一時入院のはずが結局5年も退院できなかった。そのころの大夢の症状は重く、野獣のようにという表現がぴったりのような振舞いが多くあった。強度行動障害、それが大夢に下された診断だ。
結局治療効果なしということで公共の施設に入ることになった。そして過敏な神経を刺激しないよう、自傷を防ぐため、他人に危害を加えないためと言って、机やいすなど家具一切を置かない鍵付きの個室に収容されたまま6年を過ごした。本当に野獣として扱われたのだ、と結菜は思う。
状況が変わったのは、重度身体障害施設のやまゆり学園で元職員が19人の施設利用者を殺害した事件が起こってからである。その反省から大夢の入所していた施設でも見直しが行われ、介護の不適切なところが指摘され、その過程で大夢が人間として生きるための支援のあり方が初めて真剣に考えられた。
そして2年前、大夢はようやく帰宅を果たした。それからの毎日は試行錯誤である。少し良い時も、大変な時もあるが、一つ一つの経験を積み上げて一緒に人生を創っていく。
両親も、そして結菜も、大夢が通り抜けなければならなかった10年間の暗いトンネルを思う。大夢一人に押し付けた過去への贖罪の気持ちもあって、心を込めた日々を送っている。
結菜は涙が流れないよう上を見上げた。三日月が木の間から覗いていた。
「嘘なのかな。私、ひろむに嘘ついてるのかな。分かんない。でも、今ひろむとここで月見てると嬉しいよ。ひろむが見つかって嬉しいよ。心配したよ」
大夢の肩をそっと揺さぶった。大夢はうつむいて、うんうんと頷く。
「ちょっと待ってね。お父さんに連絡するから」
結菜はスマホで素早くメッセージを送る。
「見つかった!前に大夢とよく来てた公園にいます」
「すぐ行く」
「大丈夫。今落ち着いているから、二人で帰ります」
「そうか。今母さんと家に帰ったところだ。それなら家の中を片付けておく」
母も見つかったのだ。良かった。大夢をうながすと素直に立ち上がった。二人は時々空を見上げ、月を探し、ゆっくり歩いて家に帰った。
(第6話に続く)
黎明の蜜蜂(第6話)|芳松静恵 (note.com)
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