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黎明の蜜蜂(第13話)

涼子の机上の電話が鳴ったのは、他の部員がほとんど食事に出かけた昼過ぎだった。行内からだ。左手を伸ばして受話器を取る。
「調査部。高島涼子です」

「ああ、高島君。大澤です」
大澤? 頭取? ゆうゆう銀行に出向した時も、それ以降も直接話をする機会はなかったから、声で判別できない。頭取ですかと電話口で声に出すのを躊躇った。机2つ隣に同僚がいる。

「ちょっと八階の僕の部屋に来てくれませんか」
八階は役員室と応接室と秘書室しかないから声の主は頭取に違いない。それにしても秘書に掛けさせるのでなく自分で直接かけてくるとは。

かしこまりました、と言って受話器を下ろし、涼子は静かに立って部屋を出る。同僚は涼子が昼食でも摂りに行くのだろうと思っているのか、コンピューターに向かったままである。この職階の人間が頭取から直接呼び出されるなど、この銀行ではやはり耳目を集めそうだから、涼子は同僚の無関心に少しほっとした。

8階でエレベーターの扉が開くと、目前のカウンターに受付が2人座っていた。名前を告げ頭取に呼ばれていると言うと、左側に座っている方が電話で確認し、分厚い両開きのドアの前まで涼子を先導しドアを開いて涼子を中に案内した。

涼子は初めて入る部屋である。20畳あまりの広さだろうか。一度入ったことのあるM銀行の頭取室に比べると小ぶりで簡素な感じはしたが、南に向いた窓の外には町並みの向こうに海が見える。モダン・シンプルな応接セットは、10人くらいはゆったりと座れそうだ。

大澤頭取は部屋の奥にある両袖付きの木製机に座っており、涼子はその前に立った。机には企画部の作ったパワーポイント資料が開かれており、涼子は頭取の示すまま机の前に置かれた椅子に腰かける。

 「高島君はこの資料はもう見たかね」
 「いえ」
 先日の間島達との席で読んだ資料だが、調査部としては、情報は出し資料の一部は製作したものの、その後は関わっていない。読んでいない、と言うのが適切だろう。

大澤は、そうか、と言って資料を涼子の方に寄越した。涼子は、失礼します、と言って手に取る。
「分厚い資料だがね。46ページから後の『ゆうゆう銀行、今後10年の戦略』というところを見てくれ」

涼子は言われたように46ページから目を通していく。パワーポイント資料だから読む量としてはそれ程多くなく、すぐ目を通せた。

「君はどう思う」
大澤は単刀直入に聞いてくる。M銀行から左遷されてきた者への疑りはないのだろうか、とふと思ったが、涼子はこだわらないことにした。

「全体として順当な戦略案と申せるかとは存じます」
「しかし、という言葉がその次に入りそうな言い方だね」

「はい。ここにある戦略はみな、もっともと頷けるものばかりです。ですが、世間で地銀の経営環境が問題視されるようになってから出版された書籍や雑誌の特集でも見たような戦略ばかりとも思えます」

ここで涼子は一つ呼吸をした。次も言ってしまおうか、言い過ぎになるだろうかという一瞬の迷いを頭の中で整理するためだ。やはり言ってしまおう、と即座に判断した。

頭取が行内の意見を聞きたい時は、普通なら役員、少なくとも部長レベルを通して意見を吸い上げる。その手続きを外して敢えて自分に直接電話をかけてきたということは、一個人の意見を何のフィルターもかけずに聞きたいということだろう。それなら、歯に衣着せぬ意見を出した方が良い。

「また、ここに書かれている戦略の一つ一つは尤もであっても、それを具体化するためのコストや人員確保などを考えると現実的でないと思われる戦略も散見されます」

大澤は、苦笑いとも含み笑いともとれるような頬の緩みを見せた。
「なかなか手厳しいな」
涼子は、はい、と小さく頷き、一息ついて続けた。

「例えば、地域中小企業へのアドバイス機能を充実させて手数料ビジネスを増やす、証券運用能力を高めて運用益を増加させる、とあります。しかし、個別企業へのアドバイスというのは、その企業の内部の人間よりも優れた知見と洞察力があってこそ成り立つものです」

「その仕事に長年手ずから携わってきた会社内の人間よりも卓越した知見と洞察力を持つというのは、確かに容易ではないね。そのような銀行員を多く育てるのは至難の業だ」

大澤の眼が次を促している。
「また証券運用というのは、極度に研ぎ澄まされた値付け活動の現場である市場で、高度に洗練されたスキルを持つ投資家達としのぎを削ることです。そこで勝ち抜くためには、そういった投資家たちを上回る能力や組織体制の構築が必要となります」

「正に、その通りだな」
「そもそも投資を専門とする組織と銀行ビジネスを推進する組織では根本的価値観も違うように思います」

「企業アドバイス、証券運用、どちらをとっても、世界の有名企業がスキルアップに死力を尽くして競争している世界だ」
大澤は、企業コンサルティングや証券運用の具体を頭の中で描くように、しばし沈黙した。

「そういったものを再構築していこうとするには、少なくともそれ相当の経営資源を割かなくてはならない。うちの体力から言って、無理だと」
「資金的、時間的な面から考えますと、なかなか」

「確かにそうだが、それを言うなら他の戦略だって皆そうだろう。残された道は他行と合併しかないということか」
「もちろん合併の道もあるでしょうが、シナジー効果が狙える合併となると、それはそれだけでも大きな課題となります。ここはやはり、一旦それ以外の戦略についてよく検討するのが良いと考えます」

大澤は結論を促していると、涼子は感じた。
「デジタル化の促進やオペレーション・コストの削減はいずれにしても取り組まなければならない問題です。デジタル化で削減できるオペレーション・コストもあります。この二つは両建てで、最善の結果を得られる最適な資源配分を行うための詳細な計画作りが望まれます」

「地域経済発展と共に発展、これは地銀にとっては存在意義にも関わる大前提だが、その為のプラットフォームづくりしても何にしても大変な規模の事業だ。それこそ具体化には、一地銀の体力を超えてくる投資が必要なんじゃないか」

「はい、まったく仰る通りと存じます。しかし、少し視点を変えてみると、案外この部分は具体的なやりように柔軟性を持たせられるのではないかと思われます」

大澤は腹から出た息を喉元に溜めて、口は閉じたまま静かに半量を外に送り出してから口を開く。
「例えば?」

「はい。今回『ゆうゆう銀行再生案募集』で役員賞を取った農業活性化案は、良い例になると考えます。対象となり得る範囲は非常に広く、潜在的な経済効果も大きいものの、手掛ける規模の大小は柔軟に設定でき、進捗度を見ながらプラン変更も柔軟に行えます」

「そうか。実は、あの提案を取り上げたのは僕なんだ」
大澤は、ちょっとした自慢をしたいのだろうか。涼子は少し訝しく思った。しかし、あまり大向こう受けしそうにない案も頭取の肝煎りとなれば採用に期待が持てるかもしれない、と考え直した。

大澤自身は、しかし、弱気な言葉で続けた。
「実のところ、銀行再生案の応募数は百近くあってね。検討委員会でも櫻野君の案は、ほとんど注目されていなかったんだ」

「そんな状態で櫻野さんの案が役員賞を取ったのは奇跡ですね」
「今回は委員会のメンバー全員が全部の案に目を通すことにしていたからね。櫻野君の案を推したのは僕一人だったよ。それで、反対する役員は、女性活用の例として宣伝にもなるじゃないかと宥めすかしてね」

女性活用の例として、という大澤の言葉に涼子は内心少し引っ掛かりを感じた。結菜の提案を選んだのは、その有用性ではなく、女性の提案も重視しているというポーズのためだったのか。

「だがね。ゆうゆう銀行再生のための長期計画にこの案を実際に入れて行くには、もっと具体的に説得力のある言葉が必要だ」
それなら、来週に予定されている役員会があるから、そこで結菜が説明するはずだ。

大澤は、涼子の訝しい気持ちに先回りするように言葉をつなぐ。
「来週は委員会での最終選考がある。櫻野君のプレゼンもあるが、僕は僕なりに広く意見の吸い上げもしておきたいと思ってね」

そういうことか、と涼子は合点した。つまり、大澤は大澤自身の考え、あるいは直感で既に進む方向の目途はつけているのだろう。その直感の確かさを裏付ける情報を集めているのだ。

役員会で認められれば、その案は先のコンサルの提案と共に織り込まれて、ゆうゆう銀行再生案として次の株主総会で発表される。 

議長を務める頭取の腹には既に青写真がある。しかし、頭取と言えども役員たちの意見を無視して、鶴の一声で物事を決めるのは最善策ではない。

理想はやはり、皆の共通意見が醸成されることで、そうなって初めて一致団結して実行に移せる。皆に意見を出させ、それをリーダーたる自分の知見や洞察の中に吸い上げ判断し決断し、できるだけ皆が納得できるような形となるよう誘導する。

それがゆうゆう銀行の頭取の役目だと大澤は思っていた。その為に自身の中に、できるだけ多くのポケットを作っておきたい。

「潜在的経済効果の方から聞こうじゃないか」
「はい。地域経済発展と共に発展することが地銀にとっては存在意義にも関わる大前提と頭取は仰いましたが、正に銀行の発展と銀行を取り巻く経済の発展は相互作用の関係があります。相互作用であり、片方の銀行側から働きかけるだけで地域経済の活性化を成し遂げることはできません」

「つまり、地域経済の基礎的要素が脆弱化しているところに、いくら資金をつぎ込んでも経済は活性化しないし、経営アドバイスもやりようがない、と言うことだな」
「はい。経済の基礎的要素として、まず人です。人がいないところに経済活動はありません」

「当然のことだ。だから、日本全体を見ても少子化が問題になっている。地方はその上、若年層が都会に出てしまう現象を抱えている。Uターン、Iターン政策に地方自治体も力を入れているが、そう簡単な問題ではない」

「人口の減少傾向を止めたり反転させたりするのは、確かに容易ではないと思われます。ですが経済という視点で見てみれば、重要なのは人の数そのものよりも、人の流れと言えるのではないでしょうか」
「つまり、この地域の統計上の人口は増えなくとも、人がやってくるようして、実質の人口が増えれば良いと?」

涼子はうなずく。
「それから、地方が抱える大きな問題の一つとして、遊休農地があります。人口問題と遊休農地の問題は言わば背と腹のような関係にあります。これを解消していくことが、地域経済の基盤強化には欠かせません。櫻野さんの農業プロジェクト案は、その為の人の流れを作るものだと捉えられます」

大澤の眼がきらりと光った。独り言のように呟く。
「人の流れができれば、農業の為の労働力の補強だけでなく、その地域の経済活動が活発になる。農家に午前中二時間の農作業をしに来た家族は、緑の自然の中で新鮮で美味しい土地の農産物を使ったランチを楽しみたいかもしれない、と言うようなことだな」

「人が集まれば、そこで何らかのパフォーマンスをしたり作ったものを売ったりという、新たな経済活動の素地もできます」
「移住して来なくても、昼間の活動時間帯には人が増えるわけだ」

「はい、この地域は東京という大都市が近くにありますから、そこの人たちが余暇を利用して農家の手伝いをし、その後、地産の食材を使ったランチやお土産などを楽しむことを始めれば、それはこの地域の人口が増えるのと同じ経済効果をもたらすと思われます」

「それは、うまく行けばの話だな。だが現実は理想と大違いというのはよくある話だ。実際、都会の人間がたとえ一日二時間だけと言っても農作業なんかに興味があるだろうか。あっても、農業をしたことのない人間が入り込んで、却って足手まといになるだけじゃないか。少なくとも、そう考えてしり込みする農家は多いだろう」

「確かに越えなければならないハードルは数多くあります。ただ、この案の強みは、柔軟な取り組みが可能なところです。たった一軒の農家と、知り合いの4,5人からでも一歩を踏み出せます。そこでは、農作業の細分化やマニュアル化などを試してみることができます。それは既に、プロジェクトの重要な要素となるのです」
「それだと、初期投資は極小で済む」

「もし地域全体が次第にこのプロジェクトに前向きになれば、大きな流れとなるでしょう」
「しかし、地域の農家全部が前向きになったとしても、都会の人間をどうやって引っ張ってくるのだ。広告宣伝費は誰が負担するのだ」

「今東京で働いている多くの人がこの近くの街に住んでいたり、この地域の出身者だったりしますから、その人たちに情報発信をすることから始められると思います」
「SNSの発達した現代なら、情報が広まるのは速いとは言えるな」

「大きく、国レベルで考えても、食料自給率の低さはこの国の抱えるリスクの一つですし、全国の遊休農地の減少が食料自給率の増加に少しでもつながれば、それは国力の基礎的要素の改善につながります」
「今度は国規模の話か」
「このプロジェクトの柔軟性と潜在的可能性について申し上げたかったのです」
大澤は、短く笑い声を立てた。

「潜在的可能性は大きく、実現への道は柔軟に選択できる。まさしく当行に適した長期戦略だ」
                       (第14話へ続く)
黎明の蜜蜂(第14話)|芳松静恵 (note.com)

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