黎明の蜜蜂(第8話)
その上司とは日本にいる時も、バーゼルに来てからもほとんど話などしたことはない。職位ランクが違い過ぎるのだ。
しかし、M銀行の手弁当でBISに出向し、バーゼル委員会に出席する自分のサポート・スタッフを務めている章太郎へのちょっとした礼のつもりだったのだろう。ある夕、食事をご馳走してくれた。
こじんまりした郷土料理レストランである。物価高のスイスで比較的リーズナブルな値段で美味しいフォンデュが食べられるとして、バーゼル出向組の日銀スタッフが内輪の食事会によく使っているところだ。
素朴な感じのレストランだが上司と一緒で緊張気味の章太郎に、このベテラン日銀マンはたわいない話をしながら気さくに接してくれた。運ばれてきたチーズフォンデュの鍋の底を金串に刺したフランスパンでこすりながら、章太郎も徐々に肩の力が抜けて行く。
バーゼルの印象はどうかと聞かれて、世界の名だたる金融トップの面々による議論に直に接する機会に恵まれた幸運など、相手を持ち上げる優等生回答をする。
上司は微笑みながら、少し困ったように眉根を寄せる。
「しかしねえ、今回はバーゼルⅢだ。正に世界の知能を結集して策定されたバーゼル規制は、そのⅠ、そのⅡもその後の金融危機は防げなかったわけだ」
その言葉に相槌を打とうとして、章太郎の頭に溜まった本音がこぼれた。
「金融危機の背景として、金余り現象が見られるとする人は多いと思いますが。一方金融危機が起きてしまえば、一番有効な処方箋として金融緩和政策が採られます。それは金余り現象を助長するのですから、少々アイロニックな関係とは感じられます」
「確かに、金融危機は金余りが原因で発生したバブルが崩壊して引き起こされる、という話はよく聞くね。しかし、金融危機が発生したら金融緩和策を講じるしかない」
同席していた先輩が口を継ぐ。
「君も1920年代末にアメリカ株が大暴落し、それが大恐慌につながった歴史は知っているだろう? あの大恐慌は、株式大暴落のため不可避に起こったのではなく、その後に採られた金融引き締め政策が大きな原因だった」
「その点、僕もその通りと感じてはいます。金融危機が起きれば、まず金融緩和をするしかない。何か代替案を持っている訳でもないのに、感想だけを述べるのは無駄なこととも思います。ただ、やはり日本などは特に、ここ何十年かGDPの伸び率に比較してマネーサプライの伸びがとても高く、その金余り現象が気にかかっているところではあります」
「確かに、代替案もないなら仕方ないね」
先輩は突き放す。章太郎は、この会話を抜け出すべきと感じて、話題の向きを変えなければと思った。上司が先に口を開く。
「まずは国際協調して何とか危機に強い金融システムを作るのは大事なんだがね。それでバーゼルⅠ、Ⅱ、Ⅲだ」
上司の嘆息を聞いて、章太郎は思わず言った。
「金融は国内事情と極めて密接な関係がありますから、その国内事情を反映しづらい国際協調によって却って国内の舵取りが難しくなることもあるのではないでしょうか」
先輩は、呆れたように章太郎の顔を見た。
「君は、日本がバーゼル委員会を脱退すれば良いと思っているの?」
「いえ、とんでもないです。そういう訳では決して」
言葉に詰まった章太郎を十秒ほども見て、上司は静かに言った。
「君ね。言わんとするところは分かるよ。だがね、民間銀行員とは言え、選ばれて日銀に出向となり、さらにBISに出向もしているんだ。多分M銀行の経営陣が君に期待していることはね、金融の『金融』という特化した部分だけではないだろう。金融を包括している世界全体に視野を広げてほしいということではないかな」
はい、と章太郎は姿勢を正して応えた。本当にその通りだ。
上司は何気ない調子で、まるで何か別なことを思い出したように呟いた。
「こんな話があったな。GDPは、その一人当たりの値は国民の幸せを測る尺度となる。一方、GDPの総和値が高いほど、その国は戦争に強い」
上司は、それだけを言って、やにわにフランスパンの一かけを金串に刺し、鍋の底をかきまぜた。
「おい、チーズが焦げてるぞ。君たちもパンで鍋の底をこすってくれ」
二人も慌てて金串を持ちパンを刺し、鍋をかきまぜる。三本の金串が時に絡み合いそうになりながら忙しくチーズの中を行き来した。
それから暫くして、章太郎はM銀行より帰国命令を受け取った。
今、高島涼子と話をしていて、章太郎は改めて上司のつぶやきの奥の意味を探った。
経済の成長を上回るマネーの増加は、つまり金余り現象を呼び金融危機のリスクを醸成する。しかし、一方金融引き締めを行ってマネーの増加を抑えれば、経済活動に冷や水を浴びせることになる。
GDPの総和値が戦争に強いか弱いかを決定すると言われれば、確かに軍備も金がなければできないのだから、その通りと思う。
今の世界情勢だ。他国からの危機感を実際以上にあおっているとする意見もあるにはあるし、平和運動もある。しかし、それは理想論として、平和はお互いの軍備が均衡するところに築かれると考える向きも多い。であれば、GDPの総和の増加は重要だ。
政治は、そういうところで回っている。自分の国だけ弱くなるわけにはいかない。国といわず個人同士のレベルでさえ、相手が弱いと見れば嵩にかかって攻めてくる奴は確かにいるのだから、とも思う。
なんとも割り切れない気持ちになった。そして、そういう“考えの青い”ところが出向打ち切りにつながったのか、とちらりと思った。失望されたのだろうか。
「知らねえよ」
吐き捨てるように、やくざな言葉が章太郎の口から飛び出した。涼子が驚いたようにこちらを見る。そうだ、高島涼子と話していたんだ。
「すみません。以前のことで、もやもやとなって、つい。酔ってしまったのかな」
「そうなのね。さっきからウイスキーを飲むペースが速いとは思っていたわ」
少しも声の調子が変わらない涼子を見て、章太郎は自分を恥じた。この人はM銀行の出世頭と言われたポジションから、明らかに左遷と思える出向をさせられても、淡々としている。それに比べて、人の一言一言に敏感になって、銀行での身の処し方にきゅうきゅうとしている自分が随分と小さな人間に思えてきた。
「今日は、すごく勉強になりました。高島さんと話していると、いろいろな角度からものを考えられてありがたいです。また今度もよろしくお願いします」
「お話を聞くくらいしかお役に立てないけれど、私も櫻野さんから刺激を貰ってありがたいわ。こちらこそ、よろしくお願いします」
それで、お開きとした。
(第9話へ続く)
黎明の蜜蜂(第9話)|芳松静恵 (note.com)
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