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黎明の蜜蜂(第20話)

前回の飲み会で環奈と健斗の「実験」話を聞いてから2週間後、午前9時10分前に結菜はゆうゆう銀行本店8階のエレベーター・ホールに着いた。受付のカウンターにはまだ人はいない。 

腕にはプレゼン資料を下げている。全て暗記してきたが、手元にあると何となく安心感があるから持ってきた。
2分待たず、環奈と健斗が現れる。

「今日は、ありがとう」
「いいえ、私たちも農業シェア実験の話ができるなんてワクワクです」
「間島先輩が強力に押し込んでくれたらしいって、乾先輩から聞きました。役員会議室なんて、入れるだけでもすごいよ」
健斗は口の中で小さくヒューと口笛を吹いたが、カウンター向こうに人影が現れたので、慌てて口をつぐむ。

先に出てきたのは以前、結菜を指図して役員会議室に書類を配布した女性だ。しかし結菜を見ても何の表情の変化もなく、カウンターの角まで出てきて、廊下の中ほどにある扉の前でお待ちください、と右手の方を指す。

結菜は役員会議室に入ったことがあるので、はい、と頷いて迷うことなく奥へ進む。環奈と健斗が急いで後について行く。間島と真一は役員会の事務局だから中にいるはずだ。

月一回ある経営会議は、午前8時からの事前会議から始まる。それが終わったら真一が出てきて結菜たちを会議室に入れてくれる手筈だ。廊下には椅子がないので、ドアの前に立って待っていた。

9時5分、ドアノブが動いて、緊張の面持ちでいる結菜たちの前に真一が出てきた。ほとんど目と目の合図だけで、結菜たちは中に入る。

役員たちが一斉にこちらを見た。部屋の中央に大きな長方形の長机があり、部屋の一番奥、机の短縁中央に大澤頭取、その両横に会長と副頭取とが座っている。事務局を務める間島は机の長縁の右一番奥、そして左右それぞれの長縁に10人の役員が座っている。

頭取の席と反対側の壁に大きなスクリーンがあり、長机の各席前には小さいマイクが伸びている。オンライン会議にも使えるよう、最近整えられた設備だ。

結菜はスクリーンの前に立ち、環奈と健斗は壁際に置かれた椅子に座った。司会役の間島が口火を切る。

「それでは今月の経営会議を始めます。まず、第一号議案です」
その声に、結菜の心臓がドキンと波打つ。部屋の雰囲気、役員たちの顔を見ただけで既に頭がくらくらしていたが、喉もカラカラになってきた。怖気づくもんか、心の中で自分を励ます。

「当行の長期経営戦略に盛り込むかどうかご検討いただくため、先日役員賞を取った『農業プロジェクト案』のプレゼンを提案者にしてもらいます」

続いて大澤が一言加える。
「これは、行員のやる気を引きだすためのお飾りにしようというのではなく、当行が今後本気で取り組むべき長期戦略としての観点から検討ください」

その言葉が結菜の背筋にドンと入った。スクリーンの前に進む。スクリーンには既に「農業プロジェクト案」と題したパワポ資料が映し出されている。
 「最近企画部に転勤してきました櫻野結菜と申します。この度はこのような機会を頂き、ありがとうございます」

挨拶しながら、自分の声が上ずっていないか調整する。環奈と健斗の紹介も忘れない。
 「お二人に私の案について話しましたところ、すぐに身近なところから動いて下さり、それが具体案のイメージを発展させました」

それから、最初のプレゼンに10分間を割り当てられたこと、これに先立つ検討委員会からのレポートは既に役員に配布されていると承知していることに触れる。
 「その前提で、本日の最初のプレゼンは検討委員会で頂いた質問を念頭に、『農業プロジェクト案』の要点に絞ってお話いたします」

パワポの次ページへ移る。三つのポイントが映し出された。
*    農村の現状と農業プロジェクト案
*    実現化へのロード・マップ
*    想定される課題と克服方法

 「まず、農村の現状ですが、当行本社のある県内だけでも荒廃農地は14,000ヘクタールほどあり、毎年300ヘクタールのスピードで増加しています。また農地は放棄期間が長くなるほど再生可能性が低くなり、現在このうち6,000ヘクタールが該当します」

結菜は、表やグラフの記載されたパワポのページをめくりながら、簡潔に現状を説明する。
 「農業放棄の理由として高齢化が約30パーセント、人口減少が約20パーセント、合わせて半数が労働力不足によるものです」
これに対して地方自治体は様々な対策を講じている。しかし、労働力不足は農村だけの問題ではなく、移住者を増やすにも限度があると思われる。

しかし、ゆうゆう銀行の発展は、地域経済の発展なくしてあり得ない。そこで発想転換をして、都会に住みながら緑豊かな自然と農作業とを楽しむプランを立て、農村における日中労働人口の増加を試みる。

次ページに移る。このプロジェクトの成功への鍵は、人の結びつきだ。如何に多くの人を引き付け、如何にそれらの人の関わりをスムーズにできるか。

中核になるのは農家のニーズと人々の余暇時間を結びつけるシステム開発だ。それ自体は、比較的シンプルで低コストの投資となろう。

 重要なのは、農家のニーズのコーディネートだ。それと共に、人々の関心をいかに高め、その両方をいかにマッチングさせるか、だ。
 そして、どのような人がどのような関わり方をすれば、このプロジェクトが自律的な運動となり、発展していくかを見極めること。その後押しをすることがゆうゆう銀行の役回りだ。

 結菜はパワポの次のページ「課題と克服方法」に移りながら、話を進めた。
一応説明が終わったところで、役員から早速質問が飛ぶ。

 「農家のニーズのコーディネートや、農業に参加する人とのマッチングが大事だろうと言うのは容易に想像できるがね。言うは易く行うはかたしの問題だと言うのも明白だね」
 「そもそも、都会の人間が農作業なんかやりたがるものかね。検討委員会の抱いた懸念を、今日のプレゼンで払しょくできたとは言いがたいね」

 予想された質問だ。結菜は、澄んだ声で応える。
「それには実際の活動を始めた、ここにいる2人の話を聞いていただくのが一番の答えになると思います」

それを合図に、壁際に座って控えていた環奈と健斗が立ち上がり、スクリーンに歩み寄る。
「私たちは提案の「農業プロジェクト案」がどのように具体化できるか、どのようなことが課題になるか、実地に調べ始めました」
環奈が張りのある声で話し始める。

「まず農家側の課題として、素人に農作業を任せることへの当事者の抵抗感があります。高齢の農業従事者も多く、人に説明することに慣れていない人がほとんどです」

環奈は両足を踏ん張って、役員一人一人の顔を見ながら話し続けた。農家である祖父に話して、実際の農作業を細分化し、所要時間や作業時間帯も分かる簡単なマニュアルを作ったこと。それを、実際に作成した表を示しながら説明した。

「私は」
健斗は、使い慣れないワタクシという言葉を口にして、自分ながら驚き、言い直す。
「私は、まず自分の学生時代の友人、当行の同僚、友人の友人などを通じて、週末のプチ農業に興味のある人間を探しました」

緊張で震えそうになる口のあたりを、思わず手で撫でる。
「そして、マッチングのシステムとしては、今回は取り敢えず会合調整のための無料アプリを使いました。環奈、あ、いえ藤田さんの作成した表と、友達間で余暇時間と農作業のマッチングをしました」

役員の中にほんの少し身を乗り出す雰囲気が感じられる。環奈はここぞとばかり、勢い込む。
「築山さんのお蔭もあり、参加希望者は意外に多く集まり、ハンドル不可能になるのを防ぐため人数制限をする必要さえありました。実際の農作業は、今回はごく単純なものに限り、事前打ち合わせも入念に行った結果、比較的スムーズに進みました」

「農作業への参加を、ボランティアというより一つの娯楽やお祭りのような楽しみにしたく、ちょっとしたイベントも考えました」
築山が言えば、環奈が受ける。
「親戚に話したら、自分の家で採れた米で作ったおにぎりに自家製のお漬物を添えたものなんかを差し入れてくれました。参加者は、二時間ほどの農作業の後、おにぎりやおしゃべりを楽しんで三々五々、付近の散策などに出かけたようです」

「今後は、自分の植え付けた作物の収穫時にお裾分けをもらうなど、農作業の謝礼についても農家と参加者のマッチングを模索する計画です」

「最初に試しに行った農作業マッチングや実際の参加時でうまく行った点、行かなかった点を分析改良し、2回目も行いました」
結菜は2回目に行われた農作業参加イベントを思い出しながら、聞いていた。
 

その日は農家側の参加は2軒、どちらも環奈の親戚だ。参加者は結菜たちを入れて20人ほど。10人ずつ分かれて作業を行った。

結菜たちのグループはほうれん草の種まきだ。土作りと畝立ては農家の方で既に作業を終えており、結菜たちは畝の上にまき溝を作り、種を撒いていく作業を行った。

一畝が60センチくらいの幅で作ってあるので、畝に沿って幅3センチ、深さ2センチくらいの溝を4本作っていく。そこに種を撒いていくのだ。

撒き終えた後は、1センチくらいの深さに土で覆い、手で軽く押さえて水をやる。それだけの作業だが、溝の底はなるべく平らにとか、種の間は互いに2センチくらいの間隔をあけて撒くとか、細かな注意も必要だ。

しゃがんで行う作業だから、慣れない者にとっては楽ではないが、耕されたフワフワの土を触るのは気持ちが良い。うっすらと汗をかいた顔にそよ風が当たり、タオルで拭うために顔を上げると、青い空が見える。

周りには沢山の畑が広がり、その先に緑の丘が広がる。こんなに澄んだ空気の中で時間を過ごすのは、子供の時の遠足以来のことじゃないかと思う。
10人もいれば100坪ほどの畑でも一時間もしないうちに種まきと水やりも終えることができた。後片付けも皆で行う。知らない人同士の間にも自然に会話が生まれる。

農作業って、案外楽しい。そう感じた。もちろん、今日の作業は農作業のうちの簡単で楽な部分には違いない。
ほうれん草の種まきをするためには、先に土壌を弱アルカリ性にするための石灰を撒いて土を耕し、畝を作るなど、もっと大変な作業がある。そういう部分は、今回は農家で行い自分たちは楽な部分だけを手伝った形だ。

入り口は簡単なことから、と言う環奈と健斗の言葉に結菜も賛成した。これだけの作業でも、参加者を募るところから交通手段、説明、実際の作業、後片付けなどなど、様々な要改善点が見つかっているのだ。
 

役員を前にして、それらをまとめたパワポを映しながら、環奈と健斗が交互に説明をしていく。2人のテンポの良い話しぶり、実際の作業場面を思い出しながらの説明は聞いて楽しく、説得力があった。

だんだん乗ってくる役員が増える中、質問の声が上がった。
「実際の体験に基づく話は面白いし、説得力もある。しかし、結局のところ、これは何なの?今必要なのは、今後、当行の収益をどう上げるかという長期的経営戦略なんだよ。」

二人にとっては意表を突く質問に、一瞬沈黙が生じる。結菜が進み出た。
「確かに、このプロジェクトは銀行が中心になって、何か大きなお金を動かすという話ではありません。そういう意味では、初期投資は低く抑えられるのです」
逆に役員の意表を突く結菜の答えに、今度は役員が驚いたような顔になる。

「確かに、これに関するシステムを開発するとしても、それほど大きな費用はかからないかも知れない。しかし、それでは銀行としてはビジネス・チャンスが少ない、という意味になる。分かるね?」

子供をあやすような声で言う。若い者たちの青い考えを嗤っているのだ。
「当行の持つ強みを活かして長期的に大きく育てられるビジネスの種を探しているんだよ、我々は」

「このプロジェクトは正に、そういう種となると考えられます」
結菜は、きっぱりと言った。
「当行の持つ強みは何かと考えてみました。銀行の持つ強みは資金力だけではありません。情報、そして情報を集めるネットワークが大きな強みと思います」

結菜の顔が活き活きしてきたのを、環奈と健斗が目を丸くして見ている。
「こういうプロジェクトがある、参加するとはどういうこと、どうすれば参加できる、などの情報は、例えば我々行員、取引先などのネットワークでSNSも使いながら伝えて行くと、伝わる力は格段に大きくなるでしょう。当行の信用が情報の裏付けになる場合もあるでしょう」

かすかに頷く役員もいる。
「このプロジェクトは最初から形を決めて、誰かが上から主導するというのでは大きく育たないと思っております。そうではなく、このプロジェクトのコンセプトを伝え、実際の活動を今回の試験ケースのように始めることで、色々な形で自律的に発展することを念頭に置いています」

まだまだ納得しない役員もいる。
「いや、農業振興策は大賛成だがね。だいたい今までの農業は労働はきついのに収益は低かったから、離農者が増えても当然だ。しかし、農場を集約してAIなんかを駆使したりして、農業を儲かるビジネスにという動きは既に起きているよ。君の話は新しくもないよ」

この意見は少しちぐはぐだ、アイデアが伝わっていないと結菜は感じたが、めげはしない。
「もちろん、そういう動きは、今の農業が資本主義経済の枠組みにも適して発展できるようにという努力は、もちろん素晴らしいことと思います」

と言って、結菜はさらに言葉を続ける。
「それはそれで経済の基盤を充実させるのに役立つと思います。今回の提案は、それに相反するものではなく、もっと社会全体の底上げを、社会基盤の充実を狙ったものです」

「例えば、ということでお聞きいただければと思います。例えば、従来の農業のやり方では利益が上がらないので、農場を集約し機械化を進める、高級果物などに特化する、更には工場で人工的に栄養素を加えた水で農作物を栽培する、などして利益が上がるようにする。そうすれば確かに少ない農業人口で、より多くの生産高、そして利益を上げられるかも知れません」

結菜は役員皆の顔を見回す。
「それを否定しようというのではありません。しかし、単一栽培の弊害も知られるようになりました。一種類の農作物だけを広い面積で栽培すれば収益は上がるが、病気や害虫の大発生のリスクが高まる。そして、それを抑えるための農薬を増やし続けるなどの負のスパイラルが起きるのです。農業のやり方にも多様化が求められていると思います」

「いやいや、もう農業回帰を目指す人はすでにいるでしょう。地方自治体も都会の若者のUターンやIターンを促進しようとしているし」
なんだか、話が戻ってしまったかと感じたが、結菜は落ち着いていた。

「その動きも確かにあり、それはそれでまた多様化の一部として良いことだと感じております。しかし、農家を増やせば良いという結論付けもできないかと考えます」

それは何故だという顔も見える。
「一つには、UターンやIターンを実行できる人の数にも限りがあると思われること、もう一つは、もし実際にUターンやIターンが続出すれば、それはそれで日本の経済のバランスを崩すと思われることです。私は経済学者とは程遠い一般人ですが、工業や商業に従事する人口だって今は足りない時代ですし、ここまで増えた人口を支えるのに工業や商業は必要不可欠と想像できます」

結菜はさらに踏み込む。
「今は、人が一日で費やす労働時間は昔より減りました。職種にもよりますが、全体としてその傾向があると思います。その余りの時間を少し農業に振り分けるだけなら、工業や商業に従事する人口も維持できます。そして、モノよりコトと言われる時代のニーズにもマッチするのではないか、という発想が今回の提案に結び付きました」

それで銀行のビジネスは?という顔をしている役員に話しかける。
「このプロジェクトは、それ自体が直ぐに何か大きな貸し出し案件に結び付くことを想定しているものではありません。地域全体の経済活性化を図ることで、方々にビジネス・チャンスが生まれ、それが当行の発展にも資することを期待するものです」

ここで、場の雰囲気が変わった。
「これは潜在的ビジネス・チャンスを大きく育てるプロジェクトなんだね」
大澤頭取がすかさず、発言を差し込んだ。

その後は、農作業はボランティアでするのではなく、農作物で対価を払う形にする、それにポイント制を使う、その実際は、など様々な議論が続いた。
 
午前11時近くになって、大澤頭取が締めにかかる。役員を見回し、一人一人の顔に表れる反応を確かめながら、確認するように言う。
「地域と共に生きる地方銀行の使命を果たし、当行にとってもビジネス・チャンスを広げることが期待でき、しかも初期投資が少なくて済むとは、理想的なプロジェクトじゃないですか。これを上手く言い表す方法を考えて、是非来月の株主総会でも発表したいものです」
その言葉で、会議の結論が決まった。
                          (第21話へ続く)
黎明の蜜蜂(第21話)|芳松静恵 (note.com)


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