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黎明の蜜蜂(第6話)

あくる日、午前6時前、結菜は寝不足の頭をむりやり布団から持ち上げた。台所で手早く四人分の味噌汁を作り、卵を一個割入れて一人分をお椀に盛り、その間に電子レンジで温めたごはんと一緒に掻き込んだ。朝食の味噌汁はいつも結菜が家族分も作って置いておく。

大夢が家に戻ってから母はパートを辞めたが、大夢の為にしばしば夜中も起きなくてはならないため、朝は結菜が味噌汁を作る。そして父、母、大夢はそれぞれの時間帯で卵を割り入れて食べる習慣になっている。

バター付トーストにコーヒーやハムエッグなどという手のかかる朝食は、たまたま時間に余裕のある週末に食べられるかどうか。 

しかし結菜はそんなことは気にしない。60歳定年の後も新しい職場に父はフルタイムで通っている。母のパート収入がなくなったし、大夢にはやはりお金がかかる。そんな家族の時間と好みと栄養の最大公約数が卵入り味噌汁にご飯だ。

食べ終わった茶碗と汁椀を素早く洗い、カバンを下げて玄関に向かうところに父が起きてきた。まだパジャマ姿で、起き抜けの髪に随分と白髪が目立っていた。

「昨日は大変だったな。朝早く起きて寝不足だろう?」
「大丈夫。今日は金曜だから睡眠は今夜取り戻すわ。それよりお父さんは大丈夫?」
「大丈夫さ。まだまだ若いさ、父さんも」

そうよね、と結菜はいたずらっぽく笑って家を出たが、お父さんも年を取ったな、と切ない思いを抱きながら駅まで歩く。

父は大手商社マンだった。若い頃は将来有望と言われたらしい。しかし大夢のために地域限定職にキャリア転換した。大夢を受入れてくれる施設は限られているし、施設に入ったからといって家族のサポートがいらなくなるわけではない。母一人には任せられないと判断したようだ。

それは商社マンとしては出世街道から完全に離れることを意味した。そして一昨年六十歳で定年となり、関連会社に移って第二の仕事人生を歩んでいる。

 父はどんな思いをしていたのだろう。地位も上がらず、したがって給料も上がらず、仕事内容も本来望んでいたものではなく、やりがいも感じられなかったのではないだろうか。しかし父はそれについては何も言わなかった。少なくとも結菜の耳には入らなかった。

 40分後、結菜は見慣れた建物の、しかし自分にとっては新しいフロアの新しい机に到着した。今日は少し遅めに家を出たので他の行員は既に来ているはずだが、フロアの机にはあちこち空席があった。

今日は、昨日仕上げた資料を使って午前中に役員会が開かれる予定だ。だから企画部からの出席者は既に集合して、会議室に詰めて役員へのプレゼンの最終チェックをしているのだろう。

結菜は机を一つずつ目で確認していった。部次長の他、片山玲子も間島もいない。彼らは資料作成の実働部隊のリーダーとして同席するらしい。

 昼過ぎに片山玲子と間島が戻ってきた。部次長は彼らに資料を託し、直接昼食に行ったようだ。結菜は片山玲子に呼ばれた。

 「ここにある資料、部長と次長には表紙に名前書いてもらったから、後で配って。内部資料だから、机なんかに置き放しにしないで直接手渡すのよ」
 玲子はこういう風に結菜を使う。内部資料、つまり大事な資料なんだから私を信頼して託してもらったのだと結菜は思おうとした。

何冊もの資料を自分の机まで運んで積み上げ、その横で自分の仕事に戻った。昼食に出かけた持ち主たちが戻るまで、つまりは私がこの資料のお守をするんだ。

エネルギー補給のため昨日真一に貰って食べずにいたグラノラ・バーを取り出したとき、先日食事の席で作ったグループ・ラインに間島のメッセージが入った。

「昨日はお疲れ様。有意義な時間だったと思います。また、来週か再来週あたりに集まりませんか?‘世の中’の動きも激しくなりそうだし」
 ‘世の中’に振ってある‘’は、世の中という言葉はここでは固有名詞だという意味らしい。ゆうゆう銀行のことを指しているのだと察しがつく。すぐに次のメッセージが来た。

 「出席調整アプリを添付するから、ここに皆の都合の良い日を書き込んでください」
添付されたURLをタップすると、表が出てきた。間島は既に自分の都合を書き込んでいる。結菜も書き込みをしてから、下のコメント欄に「家庭の事情で都合が悪くなった場合は、申し訳ありません」と書き込んだ。

アプリを閉じて顔を上げると、遠くの机で間島がこちらを向き親指を立てた。既に企画部のフロアはほぼ空の状態だったが、結菜は小さく会釈してから思わず周りを見回す。

大きなフロアで皆が働く。誰と誰が話をしていたなどという些細なことが皆の間ですぐに話題となるような環境だ。

 良かった。誰も見ていない。間島といえば、もう席を立って昼食に行ったようだ。結菜は机の下でグラノラ・バーを割って、こっそり口に運んだ。

                      (第7話に続く)
黎明の蜜蜂(第7話)|芳松静恵 (note.com)

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