なぜ人は生きるの?(その10)

車好きでも営業職は向いていないのだとつくづく感じた自動車ディーラーでの勤務。
正直、車が好きで営業をしている人が殆どいなかった。
これでは自動車業界で生きる意味もない。
お客に媚び諂って少しでも高価な車を買わせる。
もともと僕はそんな事ができる人間ではないし、正直だけが取り柄だと思っているから自分を変えたくなかった。

この頃から「自分が生涯続けたい仕事」と「この身体で続けられる仕事」との選択に葛藤していた。
好きを仕事にすれば、行き詰まった時に進む道が狭くなる。
けれど仕事にはモチベーションは不可欠。

結局どちらを選ぶ事もできずに時間ばかり過ぎていった。

車好きが生じてラリーに興味を持ったのもこの頃だった気がする。
元々マツダが好きで息子を連れてディーラーによく足を運んでいたのだが、マツダが他のメーカーに比べて優れている点と同時に足りない面も知りたかった。
そこで国産メーカーだけでなく、日本で販売網があるメーカーにも足繁く通っては、それぞれの素晴らしさを体験していった。

たかが自動車。
けれどメーカーごとに「こだわり」があり、実に個性的な側面が見えてきた。
中でもスバルと三菱は世界ラリー選手権(WRC)で記録を伸ばしていた頃だったため、オーバースペックなくらい良い車を生み出していた時期だった。

息子にも「今はマツダが好きかもしれないけど、将来は自分が惚れた車を買えばいいんだよ♪」と言って聞かせて、小学校にあがる前から試乗に同行させて助手席に座らせた。
まもなくゲーセンで湾岸ミッドナイトが流行り出したときにはまだ幼稚園児だったので僕の膝にのり、アクセルは僕が踏み込み、息子はステアリング操作に集中。
隣の中高生も息子には全く勝てなかった。

僕は自動車のディーラーを辞めてからレンタカー屋に再び戻るつもりだったのだが「うつ病が治らなければ再雇用できない」と門前払いだった。
そこでかつてTTEからサファリラリーのスペシャリストとしてワークスにスポット参戦したラリーストの経営するショップに無理を言って採用していただいた。
本当はそこで地道に整備の仕事を覚えて整備士を目指したかったのだが、僕の見た目が軟弱なもので社長が事務に配属してくれた。

ただ、事務職は社長の右腕で何かと気に触る事を言ってくるおばちゃんだった。
当然僕は何も知らないのだから、わからなければ「はい!」と言って動いているつもりだったのだが、社長の一存で採用してもらったということもあり、何かとチクチクと針をさされた。
自分では多少の知識はあっても所詮DIYのレベル。それを見透かして「私の方が車を知っているんだから」と頭ごなしに言われればカチンとくる。

ある朝、やはりおばちゃんの小言を聞きたくないし、自分を育てようとしてくれない事に不満を感じて仕事を休んだ。
それが2、3日続いた時、嫁さんから「働かないの?」と心臓にナイフを突き刺されたような一言を言われた。
僕だって行きたいけど、体調の悪さとおばちゃんとの人間関係とで身体が動かなかった。

「アルバイトさえできないんだ。家族よりも自分が大切なんだ。こんな自分は何をやってももう生きていけないんだ」
ブログに「今までありがとう。そしてごめんね…」と書いて、既に寝ていた息子の事を抱きしめながら眠剤のODをした。
息子には本当に心から「お父さんがこんなで本当に本当にごめんね」と頬にキスをして床についた。


(その11につづく)