体験というパッケージ

最近考えてることを
書いてみようと思う

この間
散歩先のコーヒー屋でデッカいみかんを貰った
皮をナイフで剥くような
田舎みかん

店で剥いてあるのを
食べさせてもらったら
もの凄く美味しかったから

貰ったみかんも
すぐに皮むいて食べられるようにしておこうと
ナイフを入れた

柑橘系特有の
皮からオイリーなしぶきが
パァァァっと飛び散り
その香りが鼻に届く

めっちゃいい香り〜

アレ、
私何やってたんだっけ?

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私は仕事で社内DXに取り組んでいた

地方都市なので
顧客はもちろん
自社もDXは進んでおらず

社長から同僚、顧客を巻き込んで

DXプロジェクトと言っても良いレベルの
仕事に打ち込んでいた

こんなにデジタルが進化してるのに
訳のわからない書類作成や
承認決裁のやりとりが
一向に進まない事にイライラしていた

学校から届く大量の書類

やれPTAだ役員会だと
その場に行かなくても済むような
発言権は一切与えられない説明会や
書類の配布会

様々な集まりや行事に追われ

自宅に帰れば

地域町内会だ何だと
何十年も慣例で続いている
決定権も発案者も居ないし
予算の意味もわからない集会の数々に呼び出され
そこにはもちろん
効率化も目的達成もない

私はとにかく
疲弊し切っていた

そして皆一様に変わろうとはせず
今まで通りやっとけば良いのよ
という感じ

私は諦めかけてもいた
そして無力感で悲しくなった
行政も学校も地域もクソだ

そしたら
そんな矢先

このコロナという大きな波が来て
私は
これは大チャンスだ!と思った訳だ

実際
以前よりずっとスムーズで
スピード感を増して
多くの事が自然な流れで変化し

世の中の意識も変わった
(ように見えた)

集団ではなく
個々の声
が聞ける世の中になったように思う

そんなこんなで
私は
経済産業省のDX推進思想なんかに乗っかったり
IT補助金の申請をしてみたりなんかしながら

ここから社会を変えるんだ!
もっと個々の幸せのためにエネルギーを使える世の中にしたい
と本気で思っていた

、、、バカだな笑


DXについては
社内と顧客への取り組みだったし
もちろん私程度のスキルや能力では
当初からある程度の限界があったわけだが

と言っても
コロナの追い風もあり
想定していたより
かなり少ないエネルギーで
表面的な問題や
意識改革という意味では
問題はだいぶ解決したかの様に思えた

でも実際
それは仕組みが変わっただけで

根底にある空洞化問題については
日本社会や人間が持つ
もっと本質的な問題なのかもしれない

そう感じるようになった

と同時に
何だかとても疲れてしまった


現在、休職を経て復帰の準備中である

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私が働いていた会社では
マインドフルネスを推奨していた

私自身も昔から
哲学や倫理学、脳科学のような
スピリチュアル科学や
ヨガやシャーマン的な悟りの世界に
興味を持っている事もあり

瞑想や呼吸法を
研究して生活に取り入れている

積極的にマインドフルネスをしている

忙しすぎるせいか
先の見えないものを追いかけ続けるせいか
そういう事を取り入れないと
頭がおかしくなる

そんな状態であったが故に

マインドフルネス
「今ここにあることに集中する」

そういう意識状態を
意図的に作るという一連の行為について

私の主観だが
自分の中に
ある程度体得して
その感覚が身についているし
実際に
その効果も
体感と仕事の成果を通して実感している


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ここで話が戻るが

みかんのしぶきが飛んで来た瞬間

何と、
その
マインドフルネスと同じ感覚に陥ったのだ


ナイフでみかんの皮をむいて
ああーいい匂い


と思った瞬間


みかんの香りも嗅がず
生きてたんだな

ものすごい衝撃を受けた


最近に至っては
ご飯を食べる事もおろそかだった私は
(実際、医者に栄養失調の診断をされた)

フルーツなんて
しかもナイフで皮をむかなきゃいけない
なんて
私の生命維持や仕事へ
影響を与える度合いが低いと
勝手に判断して
面倒だとかタイパが悪いとかで
排除していたけど

結果
マインドフルネスしても
拭えなくなってしまった
違和感

人生って、、、
って思いました


結局
人生って自分らしく楽しまなきゃ
意味ないじゃん

そこに行き着いた

みかんを食べるというのは
みかんからエネルギーを摂取する
という事じゃなく

人生における経験のパッケージであり

人間(私)がそこに見出す価値なんて
所詮人間(私)が見たいものや
知ってる範疇で価値定義出来るものに
過ぎない


人生とは
何かを得るために
何かを追い求めるもの
なのかもしれないけど
それは常に追いかけなければならないものでもなく

腹いっぱいになったら
寝る
飢えたら
狩りに出る

そんな緩急があって良いのだ
そして
腹が減るのも満腹になるのも
個人的な感覚の上にしかないもの

なのに

日本社会の不幸として
常に何かに追われ
それが一種の美徳や常識や義務となっている事

時にそれが空洞化している事の
副産物であったり
俯瞰してみたら
誰かのエゴだったり
時代の流れでそうなってしまっただけで
自分にとってはそんなに大きな意味も無い事だったりする

先に何も得るものも無ければ
もはや絶望でしかない

笑えない通り越して
笑えるな


例えるなら

今日の肉を得るために
狩猟や漁に出る
取れても取れなくても
わかりやすく
そこには生きている実感がある

しかし
干ばつに備えて
用水路の整備をするような仕事
毎日毎日
終わりの見えない広大な土地の用水路を手で掘り起こしてる時

時として
生きるために
何かを追求しているという実感が生まれないのではないか
実際もう辞めたいって
きっと何度も思うでしょ?

そこでは

理想を思い描く
イマジネーションだけが
原動力であり
それを実感として錯覚させる
意思の力だけが
生きる事と作業をリンクさせている

その理想を思い描くのが
自分であるか
家族や会社であるか
社会や行政であるか

強いリーダーは
集団にイメージを強く共有させ
全体の意志力を最大化させて
より大きな狩猟が出来るのだ

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DXを進めて
みかんを味わう余裕もなく
私は何をやっていたんだろうか

体験というパッケージを
生活に取り戻したい

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