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syoujiki

父親の話。

私の父はもうどうしようもない酒カスでした。酔って大声で怒鳴るだけならマシで、母はあばら骨を折られたり鎖骨を折られたりしたことがあるそうです。朝起きたら居間が台風でも通過したみたいになってて、散らばったビール瓶や灰皿や書類の真ん中で、父が「これ、おれがやったんか」と申し訳なさそうにへたり込んでいるのはよくある光景。
「最初のころはちゃんと片付けてたけどな、あいつ起きたら忘れて、おれそんなんしてへんとか言うねん。腹立つから証拠残してんねん」母はそう言いながら、父が出勤した後にガラスの破片を拾っていた。

父は四人兄弟の長男。祖父も、兄弟もみんな職人でした。祖父が興した会社で働き、祖父が死んだあとは父が継ぎ、ほかの弟達は従業員という形式の家族経営。経理も営業も身内でしているこぢんまりした会社。スーツで決まった時間におうちを出る近所のお父さんたちと違って、私の父の出掛ける時間はバラバラ。休みも日曜だけ。服は汚れた作業着、髪は寝ぐせだらけ。吐息はいつも酒臭い。
父は毎晩飲んだくれていたので、翌朝は酒が残っていて全然起きてきません。弟であり仕事仲間である叔父たちが毎朝ほとんど目も開いてない父を引きずるようにして車に乗せて出発していました。
これは父の葬式で笑い話として聞かされた話ですが、大口の仕事を父が深酒が理由の寝坊ですっぽかしたことがあったそうで。驚くことに父はぶすくれて謝罪しなかったとのこと。お前のとこにはもう仕事は回さん! など、お世話になってかわいがってもらっていた社長さんと大揉めして絶縁状態になったこともあったらしい。あんたのお父ちゃんには困らされたわ、と笑って、その社長さんはかなり厚めの香典を下さいました。香典返しはいらんよ、頑張りや、と言われてどうしていいかわからなくて困った。そういえばこのおっちゃん、小さい頃はよくうちに飲みに来てたのに、来なくなったんはそういう理由やったんかと腑に落ちて、後で父の死に顔に「ほんまあほ」と囁きました。寝坊したなら謝れ。こうやって書くと、まったくいいところがないダメ人間だなと自分の父親ながら呆れます。

それでも不思議なことに、父はなぜか弟たちから尊敬されていました。職人として一から鍛えてくれたのは兄貴だった、お前のお父ちゃんはすごい職人さんやったんやで、とか。それから父はこういう業種の人の中では珍しく昔は読書が好きな文学少年だったらしい。本を読むのが苦手な弟達はそれだけで知的な印象を持っていたようです。兄貴はほんまに何でも知ってるからな、とお酒を飲むといつも言っていました。

私が本を好きになったのは、父のおかげです。父は普段は口下手で物静かな人なのに、酔うと陽気で、豪快で、話をするのが上手い人でした。幼い私はビールを飲む父の膝の上で星新一、水滸伝や十八史略、千一夜物語、阿Q正伝、三国志の話などをかいつまんで聞かされるのが好きでした。しかもうまい具合に中途半端なところで語るのをやめてしまうので、続きが気になりまんまと本を広げることになる。うちには毎日のように叔父や仕事仲間の職人さんが飲みに来て、夜の八時を過ぎるころには狭い居間は煙草の煙で白くけぶって、大声で笑い声が飛び交って賑やかでした。仕事の話をしているから面白くないよと言われたって、私は父の近くに居たがりました。子供のころの思い出っていいことないと思っていたけど、こうやって思い出せば楽しい少女時代でした。人間て楽しいことはすぐ忘れっちゃって、だめですね。

どうしようもない父は、でもなぜか周りの人に「**さんはほんましゃあないな」と言われながらも甲斐甲斐しくお世話され、愛されていました。私だったらこんな人と結婚しないし、母も事実、私が13歳のときに父と離婚するのですが、それでも母は生まれ変わっても父とまた結婚すると思う、とのこと。母はいつも言っていました。「あんたのお父ちゃん嘘だけは絶対つかへんからな」

父は驚くほど馬鹿正直でした。「嘘をつく方がややこしくてめんどくさい」とのことで、それはごまかしてもいいんちゃう、と子供心に思うようなことでも、きっちり、ごまかさず、相手が戸惑って困惑するくらい真面目に、ありのままに話す。でも言いたくないことは黙る。黙りとおす。父が死んでから、事業の負債が信じられないくらいあったことを知りました。借金はあるだろうと思っていたけれど、それにしても。父が死んだとき、叔父は泣きながら「相談してくれたら、こんな会社潰してもよかったのに」とこぼしていました。本当に馬鹿で見栄っ張りなので、家族に頼ることを思いつかなかったのでしょう。誤解があってはいけないので、父の死因は自殺ではなかったことをお伝えしておきます。

父はフェルメールが好きでした。生前、私がまだ実家にいたころに「京都でフェルメール展やってるから行く?」と親孝行のつもりで聞いてみたことがありました。当時私は十代だったので、ほんとうはあまり父とは出掛けたくはありませんでした。なので「金ない奴がそんな贅沢できひん」と言われたときはちょっとホッとしたのもあるし、金ないなら酒やめろや、とちょっと苛立ったのものおぼえている。酒がやめられなかったのは、お金の心配があったからだろうなと今では分かります。やめなきゃ、しちゃだめだと思うほど人間はそれをしてしまう、という心のメカニズムを大人になって知りました。貧困は心を追い詰める。あの時の父の気持ちを想像して、やるせなくなります。母も出て、妹も結婚し、私も逃げるようにして出て行ったあの静かな家で、父は何を思って日々暮らしていたのか。私が父のことでこんなに苦しいのは、きっと罪悪感が大きいのでしょう。フェルメールのあの青色、ほんまにきれいやったなあ、死ぬまでにもっかい見たいなあと、酔っぱらって言っていたけど、お父さんどうかな? いま後悔してる? あの時無理やりにでも引っ張って京都行けばよかったね。

父をあほだのダメだのこき下ろす私ですが、私も結局父の子供なので、本質はすごく似ていて嫌だなあと思います。私も見栄っ張りだけど、でも嘘をつく方が面倒くさいんだよなあ、と言わなくて言いことを言ってしまったり。自分の正直でない部分にぶち当たって、ひどく傷付いたり。その癖自分のうまく立ち回れない鈍くささにも苛立つ。もっと狡猾に生きればいいのに。どっちつかずで中途半端に私はふつうの人でした。あーつまんない。がっかり。
正直でなくてもいいのに、どうして善良に生きられない自分にがっかりするんだろう。ふとその時に父親のことが浮かびました。正直に生きる。いつだって正直でいるのはむつかしいけれど、そう生きたいと、人生の指標を掲げるのは悪くないんじゃないかなあ。こんな感じで、私の人生迷ってばっかり。

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