アニメ平家物語5話背景
ここでは感想というより見ていて知らなかったことやよくわからなかったことを調べてまとめています。
⛔少しネタバレはあるかもしれません。見たくない人はここで離脱してください。(原作が古典なのでネタバレといってよいかわかりませんが…)
時代
重盛の死後~以仁王の挙兵より、1179年8月~1180年5月になります。
重盛死後
重盛死後、宗盛が頭領になりました。宗盛は1178年に妻清子を亡くしており政治への意欲を無くしていました。実際には重盛死後、役職は何も無く政治意欲も失っていたと思われます。
滋子、重盛の死後、清盛と後白河法皇の仲が修復不能なほど悪くなったのでその板挟みに合って苦労したようです。
また、清盛の四男知盛は春宮権大夫、五男重衡は左近衛権中将になっています。
治承三年の政変
後白河法皇は重盛死後平家の力が弱まったと見て、重盛の長男維盛の相続した越前の領地と盛子の藤原家の財産を没収します。これに清盛は激怒し、半隠居していた福原から京に戻りクーデターを起こします。
関白松殿基房・権中納言師家含めて43名の更迭し、親平家の公家に交代
基房は備前に流罪
後白河法皇を幽閉
この時、後白河の第三皇子である以仁王も所領を没収されます。
安徳天皇即位
1980年4月22日に安徳天皇が即位します。この時3歳です。清盛は天皇の祖父として最高権力を持ちます。
名馬の強奪
源頼政の子仲綱は「木下」という名馬を持っていました。
その馬を無理やり奪い馬に「仲綱」という刻印を押したそうです。
これは歴史的根拠はないそうです。おそらく創作かと感じました。
治承・寿永の乱~以仁王の挙兵
源頼政と仲綱に泣きつかれたように描かれますが、治承三年の政変で領地を没収された恨みもあるのかもしれません。
以仁王は平氏討伐の令旨を全国に出し、自らも挙兵しようとします。
但し、挙兵理由の歴史的根拠ははっきりしないようです。
しかし、すぐに清盛に情報が洩れたので、園城寺に逃走します。
園城寺
滋賀県大津市、琵琶湖南西にある寺で、以仁王が清盛の追手から逃げ込みました。
権力者と親密ということで、延暦寺とは仲が悪かったようです。延暦寺は園城寺がかくまった以仁王からの協力要請を拒否しました。
延暦寺の別称「山門」に対して、「寺門」と呼ばれていました。
三井寺(園城寺)
トップページの写真はとても美しいですね。行ってみたいです。
橋合戦
園城寺が持ちこたえられなくなり、以仁王は興福寺に逃げようと試みます。その途中の平等院で平氏が追いつき宇治川を挟んで戦いとなりました。
平氏は2万8千というのは誇張で数千だったと言われています。
作中、川を渡る提言したのは重衡で、渡ったのは重衡と維盛が含まれていましたが、実際は足利俊綱・忠綱父子だったようです。
この戦い後、源頼政、仲綱などは戦死、何とか逃れた以仁王も道中で打ち取られました。
興福寺
以仁王が園城寺の次に向かったが辿り着けなかった寺。南都というのは奈良のことです。国宝、重要文化財が建物含め多く保管されています。
興福寺
スイカ
びわがスイカを食べていますが、スイカがいつ日本に伝わったのかは諸説あります。スイカの原産地は南アフリカですが、「鳥獣戯画」にスイカのようなものが描かれていることから平安時代に伝わったという説をこの作品では採用したと思います。
登場人物
守貞親王
1179年4月に守貞親王が生まれました。高倉天皇の第二皇子。母は藤原殖子。弟に後鳥羽天皇がいます。ここでは書きませんが、守貞親王の生涯も波乱に満ちています。
安徳天皇 CV 佐藤美由希
高倉天皇、徳子の子で3歳で天皇に即位しました。
以仁王 CV 藤原大智
後白河法皇の第二皇子。
藤原基房 CV 美斉津 恵友
関白。治承三年の政変で流罪となりました。また、一話の「殿下乗合事件」で平家の報復を受けた人でもあります。
平 重衡 CV 宮崎遊
清盛の五男。母は時子。左近衛権中将。
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