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アニメ平家物語6話背景

ここでは感想というより見ていて知らなかったことやよくわからなかったことを調べてまとめています。

⛔少しネタバレはあるかもしれません。見たくない人はここで離脱してください。(原作が古典なのでネタバレといってよいかわかりませんが…)

時代

福原遷都~富士川の戦いより、1180年6月~1180年 11月になります。

福原遷都

1180年6月~11月までの期間都が福原(兵庫県神戸市)となりました。
清盛の考えは1.寺社勢力の影響力を削ぐため、2.完全に独立した武家政権樹立のため既得権益を破壊したかった、3.宋との貿易を盛んにするため、と言われています。
今の日本においても社会の破壊的な変革を行うことはとても難しいです。変化を嫌い、既得権益を守る性格、目立つ人を潰そうとするのはこの頃からあったのではと思います。
福原遷都は個人的には支持したいですね。

小枝さえだ

平敦盛たいらのあつもりの祖父平忠盛(清盛の父)が鳥羽院より賜ったという笛。

兵庫県の須磨寺に「青葉の笛」(小枝の別名)が保管されていています。(由来は諸説あります)

牢の御所

後白河法皇が福原に幽閉されていたことを言います。
神戸市のHPに跡の写真が載っています。
広さは3間四方で約29㎡です。大人4人だと確かに狭いですが、1人ならちょうどよいですね。景色も良さそうですし。

見るに心の澄むものは、社毀こぼれて禰宜ねぎも無く、はふり無き、野中の堂の又破れたる、子生まぬ式部の老いの果。
梁塵秘抄 397

頼朝の挙兵

源頼朝は1159年の平治の乱で平氏に敗れ伊豆国いずのくに(静岡県の伊豆半島)に流刑されていました。
その頼朝にも以仁王からの令旨りょうじが届きました。しかしこれでは頼朝は動かず、院宣を要求します。後白河法皇は直ぐに院宣を書き頼朝に送ります。頼朝は大義名分ができ挙兵を決意します。(1180年8月17日)
院宣を渡したのは文覚もんがくという僧です。過去に強訴を起こし、彼も伊豆国に流罪となっていました。

後白河法皇の院宣を渡す文覚

石橋山の戦い

1180年8月23日、現在の神奈川県小田原市で行われた頼朝軍と平氏軍の戦い。頼朝軍300騎と大庭景親ら平氏軍3,000騎。この戦で頼朝は負け、安房国(千葉県館山市)へ退却します。

富士川の戦い

1180年11月9日、現在の静岡県富士市で維盛を大将とする平氏軍と頼朝と甲斐源氏の連合軍の戦です。「平家物語」では平氏軍7万ということだが「吾妻鏡」では2千程となっています。有名な話ですが、平氏は戦の前夜鳥の羽ばたく音に驚き、戦わずして撤退してしまいます。
最近の研究では平氏の討伐隊は、頼朝は眼中になく、甲斐源氏の武田信義たけだのぶよしの討伐が目的だったという説もあります。

矢合わせ

対岸の源氏のたいまつの火の数におののく平氏軍。藤原忠清が維盛に対して「明日の朝一番に矢合わせとなっております。今宵は攻めて参りますまい。」と言います。
矢合わせとは戦闘開始の合図の作法で、大将か代表者が敵陣に1本矢を放ちます。そこからヨーイどんで初めてわざわざ名乗って一対一で戦う場を作ったりします。
平安、鎌倉時代の戦はこのような作法に則り勝敗を決めたそうです。この作法を無視したのが源義経と言われています。

対岸の源氏軍

登場人物

平敦盛たいらのあつもり CV村瀬歩
平清盛の弟・経盛の末子。この頃は12、3歳くらいです。

藤原忠清ふじわらのただきよ CV楠大典くすのきたいてん
重盛に仕え、維盛の乳父でもあります。富士川の戦いでは圧倒的な兵力差から撤退を進言しました。

斎藤実盛さいとうさねもり CV斎藤志郎
元は源義朝よしとも(頼朝の父)の家来だったが義朝の死後は清盛に仕えた。主に関東で活躍しました。
相手が義朝の子の頼朝であっても平氏側に付くのは義を重んじる人と想像できます。

源頼朝 CV杉田智和
鎌倉幕府の初代将軍。

杉田さんのコメントが面白いです。

土肥実平どひさねひら CV木下浩之
石橋の戦いで機転を利かせ頼朝を助け、以後頼朝に重用されます。

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