佛神教 六
實に今(いま)の僧(そう)を見(み)よ。常(つね)の人(ひと)と異(ことな)らず。否(い)な、其(そ)れより悪(あく)の行(おこな)いを成(な)す人(ひと)も有(あ)り。又(また)悪(あし)き心(こころ)を持(も)つ人(ひと)も有(あ)り。此(こ)れ又(また)、僧(そう)とは名(な)有(あ)る丈(だ)けにして、未(ま)だ表(おもて)に出(い)でては強(つよ)き悪(あく)を成(な)すに至(いた)らず。裏(うら)を見(み)れば、目(め)も付(つ)けられざる様(さま)なり。何(なん)の顔有(かおあ)りて、佛(ぶつ)に向(むか)いて経(きょう)を讀(よ)むか。佛(ぶつ)の驚(おどろ)き絶(た)えず。又(また)此(こ)れ、讀(よ)みて貰(もら)う人(ひと)成(な)るも、身(み)の過去(かこ)を返(かえ)り見(み)れば、佛(ぶつ)に向(むか)う事(こと)丈(だけ)でも出来(でき)ず。此(こ)れ成(な)れば何故(いか)に其(そ)の如(ごと)き者(もの)が、堂々(どうどう)と佛(ぶつ)に向(むか)うに良(よ)きかと云(い)えば、此(こ)れ實(じつ)の佛(ぶつ)に向(むか)うに有(あ)らず。空(くう)の佛(ぶつ)成(な)れば、平気(へいき)に向(むか)うに良(よ)きなり。此(こ)れ、誠(まこと)の佛(ぶつ)成(な)れば、威光(いこう)に輝(かがや)き、向(むか)うも愚(おろ)か、傍(そば)にも寄(よ)れず。
實(じつ)に乱(みだ)れし佛(ぶつ)の教(おしえ)は、此(こ)れ佛(ぶつ)の方(ほう)は敢(あえ)て構(かま)わざるも、魔(ま)の為(ため)に乱(みだ)され、此(こ)れ教(おし)える僧迄(そうまで)乱(みだ)れ、佛(ぶつ)の教(おしえ)は今危(いまあやう)きに至(いた)る。又(また)神(かみ)も同(おな)じく成(な)れば、神佛(しんぶつ)は此(こ)れ出(い)づる成(な)れば、良(よ)く此(こ)れ出(い)でずして世(よ)の行末(ゆくすえ)、人(ひと)の行末(ゆくすえ)は全(まった)く暗(くら)し。此(こ)の暗(くら)きも、今(いま)に見(み)よ。神日(かみひ)出(い)でて、隅々迄(すみずみまで)も照(てら)す。此(こ)れ世(よ)の僧(そう)は皆(みな)と云(い)うに有(あ)らざれども、少(すこし)く取(と)りた外(ほ)か、佛(ぶつ)の威(い)を借(か)る者(もの)なり。此(こ)れ人聞(ひとき)きて返(かえ)り見(み)よ。必(かなら)ず實(じつ)と思(おも)う時来(ときく)る。
又(また)此(こ)れ、佛(ぶつ)は正(ただし)く皆同(みなおな)じ本(もと)なり。其(そ)れ種々様々(しゅじゅさまざま)に名(な)を変(へん)じて今迄(いままで)出(い)だせしなり。佛(ぶつ)は唯(ただ)、嘆(なげ)きの外(ほ)か無(な)し。開(ひら)きたる口(くち)は閉(と)じられず。今(いま)に見(み)よ、其(そ)れ神出(かみい)づと云(い)うも、神(かみ)のみ出(い)づるに有(あ)らず。神(かみ)も出(い)づ、佛(ぶつ)も出(い)づ。其(そ)れ出(い)でて見(み)よ。魔(ま)に等(ひと)く悪(あく)の行(おこな)いをなし居(い)る人等(ひとら)は、七転八倒(しちてんばっとう)の苦(くるし)みをなす。成(な)れど此(こ)れ、皆(みな)罪亡(つみほろぼ)しなり。其(そ)れ亡(ほろ)び終(おわ)れば造(つく)らざる限(かぎ)りは永久(とわ)に清(きよ)き身(み)の人(ひと)と成(な)るにあり。此(こ)れ死(し)して、此(こ)れ地獄(じごく)に苦(くるし)み罪(つみ)を補(おぎな)う。人(ひと)は世(よ)に居(お)りて罪(つみ)を返(かえ)し、後(のち)に楽(たの)しみ来(きた)る。