村上春樹は毎日走る
退廃した生活、というものには魅力がある。
退廃した人間が生み出すもの、語る言葉には天啓めいたものさえ感じる人もいる。「芸術家」と自称されると、みな退廃した生活を思い浮かべる。
食費もままならない。毎日のように借金返済の催促が来る。割れた窓ガラス、止まった電気。しかし酒、煙草、クスリは欠かさない。机には煙草の空き箱と酒の缶。そして、筆をとっては書き殴る。怒りを鎮めるように、または嘆きを迸らせるかのように。
このようなイメージの元に、みな退廃と芸術を結びつけているのだろう。確かに、きっちりとした生活に比べれば、“にくめなさ”があるのは否めない。デザイナーズマンションの一室、アイランドキッチン、高級オーブンで和牛をローストし、自分の生まれ年のワインを空けているさまは、誰しも反感を持つだろう。そんなヤツが作り出すものなんて、つまらないに決まっている。僕/私の気持ちなんて、わかるものか。そう思いたくなる気持ちもわからなくはない。
しかし、大抵の場合、事実は小説よりしょうもないし、我々が想像するほど「退廃」は容易くない。
古い作家の美談は、往々にして「退廃」だ。
モディリアニはブランデーを飲んだくれながら肖像画を描いた。坂口安吾はひどい薬物中毒で『堕落論』を書いた。芸術と退廃は当たり前のように関連づけられる。売れない絵描きも三文文士も、みな酒やクスリ、あるいは情婦に逃げた。例を挙げるとキリがない。
「退廃した生活のなかにこそ、審美眼が磨かれる」、そう思ってしまうのは無理がない。しかし、彼らの作品が「退廃」由来であると即断してしまうのはいかがなものだろうか。
退廃した生活を送ると、真理、のようなものが見えてくるわけではない。
退廃した生活を送った人間がわかるのは「退廃した生活を送っている人間の気持ち」、ただ一点だけだ。たしかに退廃ゆえのすさまじい社会憎悪もあるかもしれない。そんなものは、そのまま作品にしたとして、大衆には理解できないものになってしまう。
また、人はどうしても“きっちりと”生きてしまう。ゴミが(ある程度)溜まれば捨ててしまうし、暇になれば外の空気を吸いに出てしまう。少し気を抜けば、赤の他人と社交的に話してしまうし、ともすれば連絡先を交換してしまう。新しいカップ麺を見かければ買ってしまうし、気の緩んだ日には外食する。あろうことか、キンキンに冷えたビールまで頼んでしまう。
退廃は一時的には観測しえるものの、それを恒常のものとするのは難しい。
退廃と貧乏は少なからず関係がある。金があると、人はなかなかに退廃できない。
金があれば、金さえあれば、食う飯には困らないし、お手伝いさんだって雇える。身の回りで不自由することはないし、どんな贅沢だって出来る。しかし「金がない」=「退廃」ともならない。なぜなら、世の中は飯を一人で食う分には、幾らか甘い。朝五時に起き、バスにガラス瓶工場まで揺られ、十時間ほど瓶の口を眺めているだけで、九千円ほどの現金が手に入る。牛丼だって特盛りで千円もかからない。パスタは百円で五百グラムも手に入る。無論、贅沢ができないと心は荒む。ただ食べるため生活するためでは、人はやっていけないから酒を飲むし人と会う。好きな人のためにプレゼントを用意するし、どうでもよい相手に対して小金をかけたりする。
一方で、贅沢ばかりでも心は荒む。こちらはいくらか荒みにくいが、それでも消費し続けるというのにも体力が要る。消費ばかりの日常にも飽きるから、結局人は働いてしまう。働かなくても、消費を控えてしまう。あろうことか、恵まれない人間にくれてやったりもする。
どれぐらいの消費が心地良いかは、それぞれのバランスであって、人がとやかく言うことではない(もしあなたに社会を変革しようとする意思があるのなら、それはまた別の話だ)。
ただ、消費というのはどうやら羨望の対象となる。「誇示的消費」とはよく言ったものだが、否が応にも人は消費を競ってしまう。質、量、誰と使ったか。どれだけ“遊び”として使ったか、あるいはどれだけ“ステータス”として使ったか。
一方で質素な暮らしが賛美されることもある。ミニマリストという言葉は、数年前に流行り、結局我々の語彙として根付いてしまった(セックスも捨てられないのにミニマリストを名乗るなと思う)。
人との比較なくして「消費」というものは存在しえない。誇示的消費であれ、誇示的倹約であれ、人は自らの消費行動を他者との比較無くして評価することはできない。
そのような意味で「消費」と一線を画したかのように見える退廃した“落伍者”に賛美の目が存在するのは想像に難くない。
貧乏暮らしをしていると、知人に「いいね、そういう暮らしの方が良い作品が書けそう」などと言われることがある。表面上は「そうかな? ほなら、貧乏暮らししてる甲斐もあるわ」と答えることもある。しかし、実際の所は激しい自己嫌悪に陥る。冗談じゃない! 貧乏だろうが金持ちだろうが、そんなことは作品になんの関係もない、「今のところは」。
僕は誰かに何かを言いたいだけであって、金持ちのカジノルーレットの一枠になりたいわけではない。一兆円積まれたって、譲れないものを探したいだけだ。そりゃ、今のところは見つからないし、未来永劫見つけられないのかもしれない。だからって、探すのをやめるなんて、親にも先祖にも周りの人間にも、何より自分自身に申し訳ないし、顔も合わせられない。そりゃあ飲み会では「一兆円あれば、全部あげまーす全部やめまーす」と言う。しかし、本当に、みながみな心からそう思っているとしたら、あまりにもつまらない世の中だ。
「そこそこ稼いで、そこそこ楽しい家庭を築いていけばいいじゃないか」とアドバイスをされることもある。もちろん理解する。しかし、共感はしない。それもまったくもって簡単な話ではないし、僕は欲張りなので「そこそこの家庭」も「そこそこの世界」も手に入れたいと思ってしまう。あわよくば「最高の家庭」も、「最高の世界」も。気の合う人間と楽しく笑い会う時間は最高だ、そんなことは百も承知だ。ただ、それを人生の第一義として達成したら、その後は「維持」が第一義になるのだろうか、と思う。ぞっとする。それこそ第三者への過小評価に由来する意見だと思う。赤の他人ならまだしも、自分に近い人間ならコントロール出来る? 誠心誠意尽くせば、わかりあえる? 妻だから、夫だから、話せばわかる? 同じ血なのだから? 蛙の子は蛙?
「わかりあえない」「絶対にわかりあえない」という前提を持ちながら、なお「わかりあえたかもしれない」瞬間を「わかりあえた!」と刹那的に喜ぶことこそ、孤独なソーシャルアニマルとして生まれた我々の最大最高の生の享受ではないのか。
その瞬間の有無に「退廃」なんて何の関係もない。ある作家が親のスネを囓って、アイランドキッチンからローストビーフが出てきていようが、コンビニのゴミ箱を漁っていようが、私たちが観測できる部分は限られているし、知ろうと思わなければ知る由もない。金持ちのコミュニティにはそれなりの悩みがあるし、ホームレスにだって社会性を帯びた問題はある。それぞれにそれぞれの苦悩がある。
結局のところ、人の目に触れる作品というのは誰かしらが評価したがゆえに大衆に曝されるものとなる。その大衆というのは、もちろん自分の好きな人ばかりではない。嫌いな人もたくさんいる。何を書いたかではなく「誰が」書いたかが評価されるのも、仕様がないことだと思う。
だからこそ、声を大にして言いたい。
村上春樹は毎日走るのだ。