ボードレールの一行



 数ヶ月前、芸能人の政治的発言についての議論があった。歌手でタレントのきゃりーぱみゅぱみゅが、政治的な発言「#検察庁法改正案に抗議します」とtwitterに投稿したことでいわゆる「ネット右翼」「ネット左翼」は大きな盛り上がりを見せた。

議論と言っても「芸能人は黙ってお人形さんしてろ」と批判する人と、「芸能人だって政治の参加者、主張する権利は誰にだってある」と擁護する人、あるいはその発言内容についての賛否と、特に主張はなくとも盛り上がっていた人、それぞれがそれぞれ大きな声で、混沌としていた印象は否めない。ネットの上での論争なんてそんなものだろうと思う。

そのような声のなかで、ある一つの表現が目についた。

「税金沢山払ってるんだからいいじゃん」

しかしこの擁護の仕方は破綻を生む、と思う。「高額納税者なんだから言いたいことを言わせたげればいい」。これは典型表現としてよく聞く。この発言者の過去の発言を見るに、いわゆる「ネット左派」に属する主張をしていた。しかし、当該発言は、「大きな政府」を目指し、弱者を庇護していく気風(と私は思っている)のネット左派の考えとは全く真逆の表現になっている。納税額で政治への参加度が決められるというのは、前時代的すぎる。百年前に逆戻りだ(もっとも、それが「果たして人類は進歩してきたのか」という問いにまで昇華されているのならば、一考の余地はある)。

もしこの方が、「直接国税を○○円以上納める人にのみ選挙権を与えるべき」といラジカルな主張をする方なら整合性はとれている。残念ながらそうではない。

典型的な表現をあまりに気軽に使ってしまうと、自らの思想や言語から首尾一貫性は失われるし、自分がどういう考え方をしているかもわからなくなってしまう。

以上の例えをもって、人の無学を指差して笑いたいわけでも、揚げ足をとってバカにしているわけでもない。これは多かれ少なかれ誰もが陥る現象であり、言語を用いて生活を送る以上誰もが避けられないことだ。

慣用句や典型表現でなくとも、あるコミュニティ内で暗黙知として頻繁に使われる言葉もある。

例えば私の友人まわりでは「ゲキアツ」「おいしょ」「あすあす」など

(気持ち悪い、不快と思った方は正常である、自らの所属しないコミュニティの言語というものは元来嫌悪感を催すものだ)。

アートや文藝の世界において。「眼差し」、「あいだ」、「あわい」、体言止め、ひらがなでかいてみる、わかったわかった。君たちのコミュニティで流行ってる言葉はわかったから。それなら「コンセプトステイトメント」なんて言わず、「ツレへのおてがみ」に表題を変えればいい。

語気が強くなったが、言葉なんてこんなものである。私が何を言いたいかと言うと、至極単純に「徒(いたずら)に言葉に神性を付与するな」ということだ。ないしは「その言葉を発する自らにも神性を付与するな」だ。なぜなら、言葉なんてものは適当で、整合性も首尾一貫性もないし、時代や環境あるいは自分のそのときの心一つで表現の仕方は変わるものだからだ。

慣用句、典型的表現は便利であるし、口語にあっても頻繁に用いられる。しかしそのような表現を使うときほど、我々は脇の甘さを思い知らされるし、言語なんて大した価値をもたないものだと悟る、いや悟るべきなのである。

もともと、人との会話なんてものは前提として「自己への過大評価」と、「他者への過小評価」があって成り立つ、吐瀉物のかけ合いのようなものだと思う。大凡の人が、言葉を心の「鏡」だとか「フィルター」だとか、あるいは語彙の多寡を「解像度」だとか表現する。特に非言語の表現に携わる人間はこの傾向があるように思う。言葉はそんな自己愛に塗(まみ)れさせるほどのものではなく、単純に毎日吐き続けるものだ。毎日吐き続けるものを、じっと「まなざす」ことと、丁重に扱いすぎないことは必ずしも矛盾しない。もちろん、言語化言語化、と自分の行動の要因、考えを言葉にしようとする姿勢は無下にすべきではない。しかしもっとも気を払うべきは、その言語すら「自ら」出てくるものなのだから、発した言葉の規定する定義にも疑いの目を持つことだ。本当にその意味なのか? 本当にそう言いたかったのか? なぜそう言いたかったのか?

「人生は一行のボオドレエルにもしかない」というのは、芥川龍之介の言葉だ。このような名言がいっそう「ことば」を神格化するが、このことばに関しても忘れてはならないのは、当たり前であるが、「芥川龍之介」にとっての「人生」は(芥川龍之介が敬愛する)「ボオドレエル」の「一行」にも若かない、ということだ。

もちろん、「人生がボードレールの一行に若かない」なんてこと、あるわけがない。