十三
夜の十二時を過ぎた十三駅のホームでは、大声で話す若者や、眠たい顔をこするサラリーマンが昨日の続きを生きている。僕も彼らと同じように、昨日は働きそして飲み、しかし勇気が足りないがためにこうして家に帰ろうとしていた。それも彼女の家に、だ。終電間際のホームにドラマなんかは落ちていない。それは重々承知しているつもりだった。しかし現実はときに僕たちにちょっとしたご褒美をくれることもある。
梅田行きのホームにある三人掛けのベンチの下に、寝転がって酔いつぶれている男がいた。特段珍しくもないが、ベンチの”下”というのが少しいたたまれない。十二月の寒空に冷やされたホームの床は、それは冷たいことだろう。しかし誰も目もくれない。いや、正しく言えば一瞥をくれたあと、何事も無かったかのようにスマートフォンに目を戻していた。自業自得。いい歳して。見ているだけで恥ずかしい。心の声が聞こえる。僕は男の元にしゃがんで声を掛けた。大丈夫ですか。もちろん男のためではなく、僕のためにやったことだった。男は相当に酔っ払っているようで、うーんうーん、としか答えない。ここで寝ると寒いですよ、家はどちらですか、もうすぐ終電終わっちゃいますよ。続けざまに声を掛けていると、男は少しずつ頭を働かせてきたようで、天満やねん、と目を瞑ったまま答えた。すると異変に気付いた駅員がやってきた。顔はこわばっており、面倒ごとを嫌がっているのを隠そうともしていない。お知り合いですか、と僕に尋ねる声には心配も同情もこもってはいなかった。いえ、ただ倒れていたんで。家は天満だそうです。と駅員に説明していると男が目を開けた。
「お前ら誰やねん」
そう呟くと男は起き上がって、こちらに脇目もふらず、よろよろと階段へ向かって行った。理不尽な文句だが、同じ状況なら僕もそう言うだろう。駅員と僕は目を見合わせて、少しだけ笑った。駅員に、ありがとうごさいました、と言われ、その言葉だけで満足した。当初の僕の動機は満たされたと思った。
西宮北口行きの終電を待つ人の群れをかいくぐり、顔をあげると、しょんべん横町が僕を出迎えてくれる。たちんぼの女やキャッチの男、銀行のシャッターの前で眠る中年を見ると、老いた印象を受ける。町自体が、という意味でだ。前の方から大きな声が聞こえてきた。街全体の品は確かに良くはないとは思っていたが、喧嘩というのもなかなか見ない。どうせ酔っ払った男が一人で叫んでいるのだろう。僕の予感は的中していた。
「なんやぁ、澄ました顔しやがって。ぼけえ」
こういうところに関西弁の悪いところが集約されている。特に敵意を向ける対象のいない言葉だったとしても、暴力的な響きを漂わせてしまう。
「なにみてんのや。お前ら悪さばっかりしやがって。悪いコトせずに金なんか儲かるかい」
みなその中年を避けるように歩いていたために、中年の周りにきれいに円が出来ていた。皮肉なことに演説会のようにも見える。もちろん誰も話は聞いていないのだが。
「モノを売るいうことは仇売るいうことなんちゃうんか」
なるほど上手いことを言う。人に何かを売るというのは心の痛みを伴う。それは僕にも最近わかってきた。この中年の言葉はひょっとすると傾聴する価値があるのかもしれない。しかし立ち止まるのは心苦しい。この中年にも悪い気がする。僕はいたって上機嫌でしょんべん横町を通り過ぎた。なんならこの後一杯飲んでもいい。そう思って、僕は栄町通りに足を向けた。
「飲み屋どうですか」
この場合の「飲み屋」というのは単純に居酒屋を指しているわけではなく、キャバクラやラウンジのようなものをいうのだろう。キャッチの男はおそらく僕より七、八歳下のように見えた。たぶん学校には行っていない。良かれ悪しかれ、知性というものは顔に出る。しかし明らかに若く、しかも仕事もしていなさそうな僕に対して声を掛けるとはなかなか見上げた根性だと思った。流しとして声を掛けてきたわけでは無さそうだった。事実、この若者はもう十メートル以上も僕の横にへばりついていたのである。
お兄さんが席に着いてくれるならいいですよ、と僕は答えた。どう捉えられるのだろう。同性愛者だととられるのか、はたまたボーイとしゃべりたがる面倒で厄介な、それでいて自分は上品だと思っている、鬱陶しい客だととられるのか。
「あ、ほんますか。それやったら千円引きでいいすよ」
後者ととられたらしい。なるほど、キャバクラで女もつけずにボーイと数十分話すのもおもしろいかもしれない。どうせ僕の想像の範疇は超えないだろうが、何かの足しにはなるだろう。僕もかつてキャバクラに勤めていたことがあるし、キャストの悪口や裏事情で盛り上がるのだろう。
「僕お兄さんより若いすけど、人生経験めっちゃあるんで」
僕はとても気分を害されたので、そのあとの言葉は全て無視して栄町通りを過ぎた。百円ローソンでサラダチキンを二つと缶酎ハイを一缶買い、十三公園のベンチに座った。十二月の寒さは身を刺すようだったが、酒さえ入ればなんてことはない。酒を左手に、鉛筆を右手に持ってメモ帳を開いた。
この世の中を憂うわけではない。ただ、生きている価値がある人間なんて、おそらくほとんどいないのだろうと思う。横柄な暴論なのはもちろんわかっている。「わかっている」といって話すことが汚いことなのもわかっている。みな悲しみを抱えて生きている。そんなのは当たり前だと思う。その気持に寄り添う作品が存在し、それに寄りかかる人がいるのも知っている。ただ寄りかかりたくない人間はどうしたらいい。縋りたくない人間は何に縋ればいい。そういう人たちをどうやって救えばいい。どうやって殺せばいい。
こんなことをメモ帳に書きとめて、公園を出た。寒さにいくらでも耐えられるのは、本や映画の中の主人公だけだったらしい。
夜の淀川通りは、車通りこそ多いものの、活気があるとはいえない。通りすぎていく男たちの顔も暗くて見えないし、どうせ見えたところでふてくされた顔をしているのだろう。批判をしているわけではない。男というものはある程度の歳を越えたら、活気のある顔をしている方が気持ち悪い。
ガソリンスタンドの前を越えたところで、ブレーキ音が響いた。続いてガシャンと自転車の倒れる音が聞こえた。倒れていたのは若い女だった。どうやら酔っ払っているようで、自転車を起こす手つきも覚束ない。籠に入っていたのであろう鞄はガソリンスタンドの敷地内まで飛んでおり、女はそれに気付いていないようだ。
声をかけるのは無粋かもしれない。彼女の物語は、一人で起き上がるところまでで完結していて、そこに見知らぬ男の介入などあってはならないのかもしれない。そう思案しているところに、知らぬ男が女の元へ駆け寄っていた。だいじょうぶですか。一人、また一人と女の元に駆け寄る男が増え、気がつくと女の周りに三人の男が集っていた。僕はホームで冷たい床に横たわっていた男を思い出していた。仕様がないことだと思った。ただ、諦めと怒りとは同居する。猫なで声で話しかける男三人の声、そして酔ってほとんど相槌も打てていない女の声が僕の耳に滑り込んできた。僕は早歩きをすることにした。
塚本駅近くの彼女のマンションの前まで来たところで、僕は一つだけ決意を新たにした。いつになるかはわからないけれど、この街を出よう。そう思った。今年中は無理だろう。来年もわからない。でも必ずいつかこの街を出る。
やかましくサイレンを鳴らしながら、背後を一台のパトカーが通り過ぎた。思い当たることは無かったが、顔を伏せなければいけない気がした。