満タンライフの魂魄唐揚げ
マンナンライフの蒟蒻畑を喉に詰まらせて、父が死んだ。
この一文だけでも死の禁忌性は浮き彫りになる。どれだけ滑稽であろうと、どれだけおもしろいと感じても、人の死は笑ってはいけないものなのである。実際このような事故は多発していて、心を痛め三日三晩泣いた遺族もいたはずだ。しかしどうしても滑稽さが滲み出てしまう。「マンナンライフの蒟蒻畑」という言葉が日常に接しすぎている。ハレの要素がある分、まだ餅の方がマシだ。しかし、人は先の一文には笑えないし、笑えたとしてもどこか後ろめたさを感じるだろう。心から笑えた人はおそらく強者であろうから、以後この文章は読まなくても良い。本来、文章の受容というのは弱者の特権である。
人の死、それも「知らない人」の死に逐一感情移入をしている人はいない。流石に小さな子どもの事故死は痛ましくても、歯の抜けた小汚い「知らない」おじさんの死に誰も胸を痛めたりしない。通勤通学途中の人身事故は厄介に思うし、ボランティアとして富士の樹海に潜り込み、熱心に声掛け運動をするわけではない。我々は他人の「死」を前に、自らの偽善を突きつけられる。すなわち「万人を愛しているわけではない」という事実だ。
私個人としては、死が笑えるものであればどんなに良いかと思う。私が如何なる死に方をしたとしても、私の家族、そして親愛なる友人たちには手を叩いて笑っていてほしいと思う。私の棺に大量の大麻やねずみ花火を放り込んで燃やし、死ぬほどのテキーラを煽って、そして肩を組んで「勇気100%」でも合唱していてほしい。そして大慌てで駆けつけた警官にみな逮捕され、留置所でニヤニヤしながら「今日めっちゃおもろかったな」と語り合っていてほしい。
無論このようなことは実現不可能だろう。結局みな神妙な面持ちで遺影を眺め「このたびは……」とお決まりのセリフを放ち、そこそこの寿司でも食べて、過去の思い出に浸るのだろう。そう考えると、なかなか死ねないな、と思う。つまらない葬式を挙げさせたくない。私を含めて、まだみな若いのだから、辛気臭いのはごめんだ。
そもそも死のなにが悲しいのだろうか。二度と会えないこと、だろうか。それは恋愛関係における離別とさして変わらない、と思う。「また会えるじゃん!」とか言う馬鹿で甲高い声が聞こえてきそうだが、本来人間関係の終結とは「二度と会わないこと」ではないのか。友達として会えばいいじゃないか、というのは気に食わない。情けもなく一方的に関係を打ち切っているくせに、また都合よく会おうだなんて横柄な話だ。私は愛とは「殺し」か「赦し」かだと思っているのだが、それはまた別の機会にて。
とにかく私たちの日常に「二度と会わないこと」は溢れている。取引先の人、たまたま道を訪ねてきた人、酔っ払って一夜をともにした人、数え上げるのもキリがないほどに、私たちはほとんどの人に二度と会わない。しかし、そのことに心を痛めたりはしない。それに複雑な理由はなく、単純にどうでもいいからだ。
それでもなお、死のなにが悲しいのか、と考える。十数年前のテレビドラマに『クロサギ』がある。元々は漫画作品で、テレビドラマ化に際して主演に山下智久ことヤマピーを据え、その棒演技っぷりにはアウトサイダーアートの趣きすら感じられるのだが、とにかくこの七話には印象深いセリフがある。長年連れ添った亭主が死に、悲嘆に暮れる老婆のセリフである。
「つまんないの。おとうさん、なんで一人でおいてっちゃうのよお、つまんないじゃない」
私はこのセリフを聞いて、腑に落ちた気がした。人が死んでなにが悲しいか、「つまんない」ということだ。日々の何気ない会話、一緒に食べるご飯、ちょっとした旅行、些細な喧嘩そして仲直り、そのすべてが失われることは誰がどう考えても「つまんない」。
先述した通り、人の死は普遍的に悲しいとはいえない。その悲しさの度合いには相手との関係性が如実に反映される。そして「つまんない」というのは、完全に自己都合だ。私がつまんないから、私が悲しい。それで良いと私は思う。どれだけ悲しかろうと人は結局生きていけるものなのだ。相手の立場を考えて? 吐き気がする。それこそ悲しいかな、どれだけ誰かの死が悲しかろうとも人はほとんどのケースにおいて、自分が生きることをやめはしない。「つまんない」日常であろうと、私たちはあきらめきれないのである。
死は万人に平等に訪れるが、人は死に方を選べない。家族に囲まれ笑顔を湛えたまま病室で死を迎えるかもしれないし、次の瞬間に雷に打たれて、文字通り「畳の上で死ねない」のかもしれない。死に方を選べないのならば、生き方を選ぶことに執着しそうなものだが、しかし人は生き方を考えることにも苦労する。
芥川賞受賞作、又吉直樹『火花』において、主人公の徳永は次のように述べる。
「僕たちは生きている。生きている限りバッドエンドはない。僕たちはまだ途中だ。これから続きをやるのだ」
死について考えれば考えるほどに、反動として私たちの生は無条件に肯定される。しかし、わざわざ紙面を割いてそのようなことを言うつもりはない。「生きてさえいればいい」。これは優しすぎる。樹木希林の言葉ぐらいには優しすぎる。生きている、ただそれだけで美しい? 確かに美味しいご飯を食べると幸せになるし、ふかふかのベッドは居心地が良い。アランも『幸福論』において散々言うように、人は行動によってのみ幸せになるのだと思う。ただ、その行動をどのように定義するかは人によって様々で、その行動の定義する範囲によって人の幸福観は左右されるのだろう。
残念ながら、非常に残念ながら、人は自分に都合の良いところにだけ感情移入する。太宰治の『人間失格』における主人公、大庭葉蔵の幼少期においての道化っぷりには嬉しそうに頷いて感情移入をするくせに、その非業の最期には誰も自分ごととして関心を払わない。それは人の弱さではなく強さなのだろうと思う。全てに感情移入していては自分を保てない。それこそ自殺していないとおかしい。
絶望と生の間において、人は優しさを求めるのだろう。それは絶望して死にきれない自分への慰めであり、なお生き続けなければならない今後の人生へのエールになる。または「私は自己批判が出来ている」という自己満足にもなりうるのだ。だから、私は優しくなんてならないと決めた。見ず知らずの人にさらさらに薄めた優しさを逐一配っていては、とても体が持たない。
死はときに美しさを孕む。散り際の桜、ホタルの最期の微かな瞬き――。告白詩人と謳われたシルヴィア・プラスはオーブンに頭を突っ込んで死んだし、三島由紀夫は駐屯地で自ら腹を切った。しかし、それは死が死そのもの単独で醸し出した美しさではない。人が誰かの死を讃えるとき、それはもちろん生きているあいだに為したことを讃えているのである。私が自分の部屋で、全裸で踊りながら床に塗りたくったローションですべってこけて、自分の踵を頭に打ち付けて死んだとして、誰も私の死を賞賛しはしないのだ。そしてなお、誰も笑わない。当たり前のことではあるが、私はそれがどうしようもなく悲しいし歯がゆい。
シュルレアリスムの大家、アンドレ・ブルトンは著書『ナジャ』の最後にこう言う。
「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう」
死に痙攣は存在しない。死体はどう足掻いても死体のままで、いつまでも冷たく横たわっている。つまりは、死において美は存在しない。生きていればこそ、痙攣があるのかもしれない。心の震えはもちろんのことながら、体の震えもあるだろう。しかしただ生きてさえいれば、痙攣があるというわけでもない。身の毛がよだつような強大なものに対する震えかもしれないし、前代未聞の挑戦に対する武者震いかもしれない。ただ漫然と生きていても痙攣を感じるのは難しい。その痙攣は魂の煌めきと言っても良いかもしれない。私は自身も煌めきたいという欲求を捨てきれないしし、私以外の人間の煌めきを見たいとも思う。それは人生で何度もあるものかどうかもわからない。一度も見れないまま死んでしまうかもしれないし、欲しがるべきものではないのかもしれない。ただ、それが今の私にとって最大の生きる理由だ。
私はまだ死にたくはない。餅も蒟蒻畑も喉に詰まらせるのは御免だ。私は人の命を魂を、それが自分のエゴが根源であろうと、喰らい続けて生きることを選択したい。そしてできることならば、みながそう思ってくれるように望む。