『いつか大人になって恋をして 心が変わっていても』



 僕の母は筋金入りのSMAPファンだった。

 勿論ファンクラブには入っている。コンサートのチケットはあの手この手で必ずとる。家にはキムタクの団扇が溢れていたし、スタジオの出待ちにも幼い僕は連れて行かれた(当時は東京に住んでいた)。長らくの出待ちが功を奏して、奇跡的にスタジオ内のレストラン(「今昔庵」と言うところだった)で、キムタクの隣の席でご飯を食べられたこともある。母は叫び、後に静かに涙を流していた。

 そんなわけで、僕はSMAPの楽曲とともに青春時代を過ごした。日中、家ではSMAPの曲がかかっているか、SMAPのLIVEビデオが流れていた。僕は、今までの人生で、SMAPのライブは十回以上行ったと思う。

 僕の家には、変わった写真立てがあり、一歳の僕の写真が入っている。そこには粘土で作った一歳当時の僕の手形と、母のコメントが添えてある。「人の心の痛みがわかる、“イイ男”になってね」。この“イイ男”というのは、父ではなく、キムタクを指していた。余談ではあるが、親の意図に反して育ってしまったことを申し訳なく思う。

 時は流れ、SMAPは解散した。解散直前の母のわめきっぷりったらなかったが、僕はそこまで感慨があったわけではない。大げさかもしれないが、SMAPは充分にみなの「救い」であったと思う。これ以上のものを求めるのは酷だと思った。形あるものは、いつかなくなってしまうし、そうなれば、僕たちは出来るだけ覚えておけばいい。

 僕は「音楽」という文化に対して、肯定的でない。「No music, No life」という言葉なんか、全くしっくりこない。かなしいことがあって、イヤホンをつける。そしてお気に入りの音楽をかけて、感傷に浸る。その一連の作業の「マスターベーション性」、あるいは「弱者性」に嫌気が差してしまう。だから、SMAP以外のアーティストのライブには行ったことがない。ライブハウスでの、自らの「傍観者性」に悲しくなってしまう。どこに行っても自分は蚊帳の外、輪の外で、音楽を消費する一匹の金づる、あるいは猿のように思えてしまう。自意識が過剰なのはわかっているが、ともかく、そういう風にライブを避けて生きてきた。


 そんなひねくれた僕でも、音楽を聴こうと思うときはある。自分の無力さを感じたとき、辛いことがあったとき。気持がなんとなく乗ったとき。マスターベーションだというのはわかっている。しかし、無理矢理にでもあえて感情に波を立てて、何も考えたくないときもある。そうして、後に自己嫌悪に陥るのではあるが。

 SMAPの『朝日を見に行こうよ』という曲がある。僕はこの曲が好きで、日常でもふと口ずさんでしまう。僕は自分のスマートフォンに音楽を入れない(安いモデルで容量が少なすぎる)ので、わざわざパソコンを開いた。昔のSMAPのベストアルバムに入っていたはずだった。

 しかし、何の因果か、僕のiTunesの不良なのか、なんと『朝日を見に行こうよ』の楽曲データだけが消失していた。他の曲は全て残っているのに、である。僕は悔しくなって、何度も何度も『朝日を見に行こうよ』をクリックした。それでも、十年モノのMac book Proに「元のファイルが見つからなかったので、曲“朝日を見に行こうよ”は使用できませんでした。元のファイルを探しますか?」と返されるだけだった。

 一番聴きたい曲に限ってそんなことが起きるのだから、僕はパソコンの人格を疑った。しかし文明の進歩というのは、こんなエモーショナルでノスタルジックな出来事さえなかったことにしてしまう。大概の曲は、インターネット上にアップロードされているのだ(勿論違法ではあるが)。

https://www.youtube.com/watch?v=4lI65hGdKe4

https://www.dailymotion.com/video/x6ejwg8

 特にBメロのキムタクパートが良い。調べてみて初めて知ったのだが、この曲は“ミラクルシャドウ”というバンドのカバー曲であったらしい。ちなみに、このバンドは調べれば調べるほど味わい深い。

https://www.youtube.com/watch?v=vaR1xTJ3qB4

 他にも様々な方々のカバーがネット上に存在する。みな思い思いの『朝日を見に行こうよ』を表現している。

 この曲を聴くと、色んなことを思い出す。小さいころ、実家で母に怒られたこと。「あんたが最後に使ったはずのマッキーの黒ペンがない。ちゃんともとに戻さなアカンやろ」(マッキーの黒ペンは結局父の机の引き出しにあった)。高校時代の恋、しょうもない痴話喧嘩(今では昔の彼女はみな結婚した)。浪人時代の浮かばれなかった日々(電車で高校時代の友人に会うのは辛かった)。大学での不毛な飲み会、ギターでこの曲を弾こうとしたがコードが難しく断念した(鴨川から朝日は見えづらい)。

 今ではしばらく親にも会ってない、実家の間取りも定かではない。高校時代の友人にも会っていない、彼らの結婚式は適当な理由をつけて出席を拒んでいる。

 それでも、僕はこの曲で精神的オナニーをすることを止められなかった。他人の音楽や詩に、自らの感情を乗っけて射精することを、誰よりも嫌悪していたはずだった。それは「SMAPだから」、自らを見逃せたのかも知れない。しかし自己嫌悪に陥っても、この曲自体を嫌悪することはできなかった。何にせよ経年というのは、鋭敏な感情の角を取る。


 「朝日を見に行こうよ」という提案はとても控えめに見える。ただ、話者と聞き手の関係の親密さは伺える。手軽に出会え、手軽にセックスが出来る世の中で、「眠れない夜は僕を起こしてほしい」なんて言える奴は、そういない。

夜空の星に 願いを込めてみれば いつかきっとかなう日が 君には来るだろう

この「君“には”来るだろう」というところに、諦観がある。自らの希薄さと、“君”の“澄んだ心”。もちろん、歌詞の解釈なんて人それぞれで、感情の乗せ方も人それぞれであるから、こんな語りに意味があるとは思わない。おそらく、こんなことを書きたくなったのは、自己弁護だろう。


 酒を飲みながら『朝日を見に行こうよ』を聴き、文章を書く。ほんの少しではあるが、心にトゲが刺さったように思った。否、刺さっているはずだと思いたかった。

『朝日を見に行こうよ』が、客観的に優れた作品なのかどうかはわからない。SMAPの曲のなかでは売れなかった方だ。この曲を作ったバンドもすぐに解散している。歌詞もありきたりと言えばありきたりなのかもしれない。しかし、極めて弱く、傍観者の極致たる僕、このちっぽけな僕の人生においては、間違いなく存在していたし、間違いなく鳴り続けていた。おそらく皆にもそういう曲があるのだろう。そう思えば、音楽も捨てたものではないし、またイヤホンにも手を伸ばそう。いくらオナニーだと騒いだって、オナニーをせずに人生を終えることはそうそうない。

 しかし、世の中にある全ての作品が、「かえしにトゲが付いたオナホール」、あるいは「仕込み針のあるディルド」のようであれば、いささか世界は良くなっていくと思う。「激シコ」作品や「激クチュ」作品ばかりでは、あまりに世界は生臭いし、塩辛い。