コンテンツを避けるということ、コンテンツに追いつくということ
避けてきたコンテンツの話
今まで書いたことのない話をしよう。
自分の中で、関わらないコンテンツを決めている。
- どうやっても一期の最初から視聴できないもの
- 規模が大きすぎてすべて回収しきれないもの
- 推しの声優が出るが、推しよりは熱狂的になれないコンテンツのコンサート
どうやっても一期の最初から視聴できないもの
自分の性格上、物事を途中から始めるのは苦手だ。自分が見られないところに物事の始まりが存在し、それを推測するしかないのは嫌だ。
製本された紙は一番最初のページから読みたいし、そのページに書いてあるものをすべて理解してから次へ進めたい。現実の書物というものは、必ずしもそのように作られていないため、極端につまずくことが幾度となくあったが、思考パターン的に止められないのだ。
「響け!ユーフォニアム」を深夜アニメで視聴したとき、二期から視聴せざるを得なかった。一期は「吹奏楽のエグさが詰まっている」と聞いて、最初から敬遠していたのに、二期でたまたま出会ってしまったのだ。もっと前には、「CLANNAD After Story」を18話くらいから見始めた。確かあの頃は大学の卒論終了直後で、面白いアニメを探していたら「そんな時間に立っていた」状態だった。人はよく「クラナドは人生」と口にするが、18話くらい……ちょうど汐が生まれた直後の物語を、事前知識も予習もなくぶち込まれたらどうだろうか。全話見た人こそ想像をしてもらいたい(ちなみに私は、まだ全話見れていない。たぶんヤバいだろうと思うし、逆にこの体験がレアすぎるので、情報を更新しないでおくのがいいのかな……とうっすら思ってすらいる)。
スタートから立ち会えないコンテンツに途中参加することは、ものすごいエネルギーを費やすことと同義だ。導入部に用意されていたはずの、主要人物の関係性を解説するパートはすでになく、物語はどこかへ向かって流れるがまま。自分の立ち会わなかった時間軸でア・プリオリに与えられている問題を、私はそこに向かっての流れから推測し、理解した途端に、さっきまで流れていた物語の経路と方向を把握する。
こんなことを繰り返しているうちに、自分は物語を推測する力を身につけた。今でも未知のストーリーに触れるときは、自分なりの予想を立て、伏線を妄想しながら視聴するクセがついている。
演出に騙されまいとする、悪い視聴者になってしまった。
もちろん現実には、「最初から視聴できない」ことを受け入れて進むしかないことが大量にある。社会は先人が積み重ねたものの上にあり、時間は過去から未来に流れる以上、自分が知らない過去は必ず存在する。大ブレイクしたタレントの最初の現場から追い続けられる人間なんて、ほんの数十人くらいしかいないし、自分がその中に入ったこともない。
BABYMETALのサマソニ初出演、Royal HuntのParadox完全再現、Rainbowの武道館……「伝説」と名前がつくものは、そのレアリティ故に輝く。
規模が大きすぎてすべて回収しきれないもの
同様に嫌なことは、お金や時間をいくらでもつぎ込めばすべて追うことができるとわかっているが、それには現実的な犠牲が伴うもの。
「すべてをコンプリートしたい」というどす黒い欲望が物心ついた頃から私の中に眠っている。それを呼び起こし、思うがままに現実を闊歩させることはできない。
これはもう、生理的に嫌だ。
私のオタク原体験は1999年ごろになるだろうか。北海道の地方都市で視聴できるアニメなんてそんなに多くなく、テレビ東京系の番組が放映されているのと、林原めぐみのラジオ「Tokyo Boogie Night」「林原めぐみのHeartful Station」が同じ局で視聴できるのが有利なくらい。とはいえ、テレ東系の番組が見れたのは引っ越ししてからで、TVhの送信局が開設され、かつ電波遮蔽物がなくなったおかげでもあった。
初恋のように魅了されたアニメは、心理的にも物理的にも遠かった。始めたばかりのインターネットで、グッズがあることはわかっているが、その頃の貧弱で不安定なインターネット通販でクレジットカードを入力して購入するのは、中学生にはハードルが高い。接続するだけでも3分10円かかるのに、さらにクレジットカード番号を入力するなんて……ねえ。
必然的に、お年玉を抱えて、正月に高速バスで札幌へ行き、あるだけのお金でグッズを買うオタクにならざるを得ない。
本当の田舎というものは、そもそもお金を使う場所がないものだ。私の世界では「お店」といえば、文房具店・CDショップ・書店しかない。それらがすべて学校の反対方向か向こう側にあり、何をするにも徒歩15分以上かかるとすれば、どうだろうか。
食べ歩きや寄り道は、家と学校の間を往復する学生には物理的に存在しないのだ。外へ出るなら目的がなければならず、その目的は「何か」を買うか、その準備作業を行うことに集約された。そんな暮らしをしていたオタクが、札幌へ行き、あのアルシュビルの上階で(今は移転した)、好きな作品の名前付き棚があるスペースに行ったら、財布を空にする以外ないだろう????
事実、私はアニメイトで財布を空にした。
そして、深い青色のビニール袋を両手に抱え、なんとなく恥ずかしくてリュックに収めたり、頑丈でもない350円のクリアファイルが曲がるのが嫌で、やっぱり出した方がいいかと考えたりしながら、片道三時間の高速バスで、何もない自宅へ戻るのだ。
戻って、グッズを置いたときに、悟ってしまったのだ。
クリアファイルも下敷きもポスターも、同じ絵柄だ。
一体俺は何のためにこのグッズを買いに行ったのか。
大好きなアニメの絵柄を手にするため? この下敷きを学校に持っていきたいから? それとも、そこにグッズがあるから?
ある日の買い物以来、同じ絵柄のグッズは買わないことに決めた。自分が何のためにこの買い物をしたのか正当化できないからだ。
そして同時に、保管して、コンプリートして、自分のどこかにある欲望を満足させるために、グッズを買うのはやめた。グッズを買うなら使わなければならない。Tシャツを買ったなら着る場所を作らなければならない。自分が着られないTシャツは買ってはいけない。
当時の後悔は今でも自分を縛っている。その結果として、「初回購入特典」とか「全話購入特典」とか、コンプリートへの欲望を駆り立てるものを敵視するようになった。
それらが、売り上げやオリコンのために発生し、いまでも跋扈しているのはわかる。わかるが、そのような制約を乗り越えてコンテンツを手にしたとき、何が残るだろうか?
結局、未開封Blu-rayが積まれるだけじゃないのか。わずかにマシな結末としても、ブックオフの未開封棚が充実し中古市場の金額が暴落し、特典がヤフオクに流れ、コンテンツと特典のコスパ比を考慮したオタクがそこに手を出すだけじゃないのか。
そこにむなしさはないのか。そのお金があればライブ音源を買えたはずじゃないのか。あのライブ帰りに泊まったホテルをもっとよくできたんじゃないのか。新幹線をグリーン車にしてもまだおつりが出たんじゃないのか……。
この感覚を直近で体験したのは、「ラブライブ!」だ。今まさに作られてゆくコンテンツの躍動感はすさまじく、オフィスに近かった神田・秋葉原エリアのローソンキャンペーンをコンプしたりもした。だが、サンシャインまでついてゆくことはできなかった……。
推しの声優が出るが、推しよりは熱狂的になれないコンテンツのコンサート
ここまでの理由により、「自分はこのコンテンツを見ることが許されるか?」と自問することがある。
例えば自分にとって、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はとてもきつい作品だった。特に序盤と終盤は、どうしてもヴァイオレットを見ていると他人には思えず、メンタルが勝手にえぐられる。あの物語は、コミュニケーションに苦しみながら生を送ってきた人間に撮っては、自分の過去を追体験させられるようなものなのだ。
中盤の物語がかろうじて楽しめるのは、ヴァイオレット自身の辛い過去や苦しみよりも、依頼者の世界にフィーチャーされているからにすぎない。このような私にとっては、各エピソードが適度に薄まって展開される総集編の濃度が心地よかった。放映時には作品ファンがいろいろ言っていたようだが、そこまでの世界に深入りしたり、まして何度も繰り返し視聴するなんてことは、私にはできない。
一度の視聴で、どの作品よりも深く、心に刻まれることだってあるのだ。だがそれと、繰り返し視聴したくなることは別物だ。
そういうわけで、何回か開かれたコンサートに行く気にはなれなかった。コンテンツを繰り返し楽しめるファンが行けばいい。おそらく自分が行っても伝わらないことはある。
ただ、そういう楽しみ方はできないと思った。
考えてみればアニサマも似たようなもので、推しのアーティスト以外はほとんどよくわからないわけだが、そっちは抵抗なく参加できた。たぶんそれは、登場するとわかっているすべてのアーティストのファンであることはできないことが自明だからではないだろうか。だいたい2アーティストくらいわかっていれば、あとはオタクの一般常識で楽しめる。少なくともそういう信頼感くらいはある。
LOUD PARKやSummer Sonicも同じだ。全アーティストを好きなガチ勢はいないだろう。だからこそ参加することにためらいは生まれない(だが、全アーティストを知っているガチ勢は多いと思う。それは凄いと思う。どれだけそのジャンルが好きでも一朝一夕ではできない……)。
こうして私は、数々のコンテンツを見送ってきた。
みなみけ、喰霊-零-、境界線上のホライゾン、アイドルマスター。特にアイマスは見えている底なし沼だから、厳重に距離を置いた。
コンテンツに追いつく話
その一方で、最近はコンテンツに「追いつく」体験が多い。
これができたのは、ひとえに、サブスク時代と販促のおかげである。
たとえば「マクロス」シリーズ。
新宿ピカデリーでの極音上映前後に、初代・7・F・ΔがAmazon Primeで無料公開され、一気見をした。1980年前後の密度で一話25分というのが絶妙で、お酒を飲みながら、深夜にどんどん見続けると、あっという間に6話くらいは視聴できてしまう。
もともとアニメは一週間のブランクを持って視聴するものだが、一週間もたてば細部の記憶は薄れ、つながりも不明瞭になる。ところが一気見だと全部がつながり、バンクのポイントや伏線などがスーパークリアになった状態で物語が理解できる。
この勢いで、初代・Δ・Fを一気見し、そのまま劇場版Δと「愛・おぼえていますか」までたどりついた(さすがに7と劇場版Fまでは無理だった)。
それどころか、リン・ミンメイというキャラクターに取り憑かれたようになった私は、たまたま来日した飯島真理さんのコンサートにまで行ってしまった。その勢いで本人のアルバムをdigり、ディスクユニオンで初代マクロスのCDも買った。
情熱とお金を持った大人のオタクは怖いものである。
やや古い話になるが、「境界の彼方」もかろうじて追いつけた。
劇場版で過去編・未来編が放映される販促で、またAmazon Primeが無料放映していた(テレビで再放送もしていた気がする)。
あの予習があって、劇場版に飛び込む勇気ができた。主題歌「境界の彼方」「会いたかった空」の解像度も大分上がった。
さらに、各社がYouTubeチャンネルで作品の無料配信をするようになって、コンテンツへの接し方は激変した。
金曜から日曜日の深夜は、たまったコンテンツを消化する時間だ。サンライズチャンネルは四半期ごとに作品を切り替え、ガンダムチャンネルは1クールという絶妙な区切りで名作を次々と突きつけてくる。
ガンダムはいいぞ。ガンダムチャンネルに入ったら一気見しなきゃいけないなと思う。だけど実際に加入して課金されるようになったら、とたんに見なくなってしまうんだろうな……。
自分だけかもしれないが、常にあるとわかっているコンテンツほど、後にとっておいてしまうのだ。消えてしまうとわかっているコンテンツだから、継続して視聴する気になる。その結果として、知らぬ間に消えてしまったいろいろなコンテンツを逃してしまった。
たとえば、「茅原実里のRadio minorhythm」もそうだ。実はほとんど聴けていないのだ。ずっとあるということに慢心したせいだ。
リアルタイムとは何か
今では新作アニメを見ることがほとんどなくなってしまった。放映とリアルタイムで追従することができたのは「Re:CREATORS」(2017年)が最後だろうか。
思えばあの作品は、久しぶりにグッズを買いたくなるような満足感を与えてくれるものだった。私に課題を与え、想像を常に裏切り、感動させてくれる物語だった。それで、マルイのコラボショップでお買い物をしたりした。懐かしいな。
だが「リアルタイム」とは何か?「新作」とは何か?
結局、「アニメ業界が広告宣伝費を打つことができる期間」と同義ではないのか? 作品のちょっと外側にグッズやコラボ企画を投入し、世界を盛り上げられることができれば、それは「リアルタイム」ではないのか?
だとすれば、今まさに制作され、新作アニメとして放映されているコンテンツは、過去数十年に築き上げられた有名コンテンツが「リアルタイム」でしのぎを削る中、徒手空拳で参入した新参者にすぎない。現実には「アンパンマン」・「ドラえもん」・「機動戦士ガンダム」をはじめとして、数十年間をリアルタイムとして独占していた巨人が多すぎるのだ。
今では新作・旧作という枠すらサブスクによって破壊され、何が新作で何が旧作かすらわからない。視聴者にとっては、自分が知らないコンテンツこそが新作なのだ。過去に放映されたという意味における「旧作」を過去方向にdigるだけで数十年分の蓄積があるのだから、未来方向でわずかに増えてゆく、面白いかどうかすらわからない不確定性のあるコンテンツを見る必要が、今あるだろうか?
ここまで考えると、自分がこうなっちゃったのもわかる。そして、コンテンツ業界が待ち受ける未来も、少し想像がつく。
たぶん最大の敵は旧作コンテンツなのだ。減価償却され、著作隣接権の契約もいい感じに抑えられ、黙っていてもPVと利益を生産し続ける、巨大な旧作コンテンツ。
しかし時は戻らない。金を生む魔法のコンテンツを、レンタルビデオショップの片隅に物理的に押し戻すことはもうできない。できることは、数十年後の魔法のコンテンツを、今から作ることだけだ。