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「中」山﨑 萌子 / Moeco Yamazaki @隙間(蔵前)の感想 -偶然的な「中」の邂逅-

山崎萌子さんの「中」という展示会にいってきた。

隙間は、山﨑萌子による「中」を開催します。
山﨑萌子は、与那国島と東京を拠点に活動する写真家。沖縄の伝統的な琉球紙の技術を⽤いた平⾯・⽴体作品・インスタレーションの制作を通して、写真と紙の関係性を追求しています。
本展「中」では、奄美⼤島での滞在中に制作された一連の作品を展⽰します。山﨑の滞在中には、国の重要無形⺠俗⽂化財に指定されているショチョガマや平瀬マンカイなど、4年ぶりとなる伝統⾏事が多数開催されていました。山﨑はこれらの祭事に触れ、旺盛な⽣命⼒に満ちた奄美⼤島の⾃然の恩恵と、地元の⼈々から学んだ文化や伝統、そして染⾊技法を作品へ取り入れていきます。風景としてのモチーフ、泥染め、手漉きの紙をはじめ、山﨑のこれまでの作品と同期しながらも新たな試みとなる新作を発表します。
山﨑による写真と紙の瑞々しい出会いがもたらす展覧会を、ぜひこの機会にご覧ください。

https://sukima.henderscheme.com/exhibition/moeco-yamazaki

奄美大島の自然や催事が手漉きの紙に奄美大島独自の泥染めによって現像された写真の前に、それも偶然的に浮かび上がっていたのは、様々な「中」であった。

そこで展示されていた「入」と題された作品について、考えてみたい。

入 /山崎萌子(2023)
入 / 山崎萌子(2023)

写真が現像されている手漉きの紙は、隙間を埋めるように絡み合った繊維がはっきりと見える。紙全体に泥染めによる漆黒が配置されているが、その漆黒にはうねりがあるようにみえる。紙を構成している繊維が一様に黒く染まっているわけではなく、その1本1本が光をそれぞれに反射させ、漆黒の中にうねりを作り出す。それはカメラによって閉じ込めれた「瞬間」が、まるで「生」を与えられたかのようにうごめくのである。

そして、漆黒の中に配置されているのは葉が欠け落ちたの骨のようにも見えるシダ。写し出されたシダの色は、黒でも白でも灰色でもない、その「中」のように感じる色であり、その「中」色が漆黒に対置される。漆黒に対して対置するのは決して純白ではない。もともと白黒で撮影されたシダが、「中」色を与えられ、白のように飛び抜けることはなく、静かに佇む。そして、紙の繊維の1本1本がゆっくりとその葉を揺らしてく。

目の前にはうごめく漆黒の中、静かに揺れ、今にも葉がさらにも欠け落ちそうなシダがある。だが、実際に私の目の前にあるのは現像された「写真」だけだ。

そこからには様々な「中」がダイナミックに浮かび上がっていく。

揺れ動くぼろぼろのシダが目の前にありそうだが、実際目の前には現像された写真しかない。ここにある/ここにないの「中」が浮かび上がってくる。
このここにある/ここにないの「中」は、物質/非物質性だけでなく、時間や空間の接点としての「中」としても捉えられる。

例えば、地面についた足跡からは、ここにいた事実といまはここにはいない事実が読み取れる。それは過去/現在の時間の境界を、土という物質において空間的に表象しているともいえる。

写真は過去の瞬間をとらえたものである。それを紙という物質によって、それも1本1本の繊維が意識される手漉きの紙において、いまここに過去の瞬間を空間的に浮かび上がらせる。ここに、いつかあった/いまはないの「中」が浮かびあがる。

さらに、写真は被写体を捉えたその場を離れている。そして、その場を離れた揺れ動くシダ/その写真が目の前に置かれている。そこには、いつかあった/いまはない、だけではなく、どこかにあった/ここにはないの「中」も浮かび上がってくる。

そして、その様々な「中」の浮かび上がりは偶然的になされたものである。

手漉きの紙が偶然そのようにかたまり、泥染めによって、偶然的に色がつき「現像」された、シダと写真が、展示会に足を踏み入れた私の目にいま、予期もせず飛び込んできた。それにより、いまここで物質性/非物質性、過去/現在、在/不在、など複数のレイヤーの「中」が邂逅した。

そして、それらの偶然の邂逅に驚くかのように漆黒がうごめき、シダが揺れるのである。




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