困難に対する配慮は、どこまでが "合理的" で どこからが "不公平" ?? / 障害受容日記#7
いつかは書いて、共有しよう。少数派な後輩のためになりたい。
でも、とっても書きたくない。モヤモヤ。
そんな葛藤にまみれながら、そのうち書こう書こう…と思ってはや10ヶ月、
やっと公開したこの記事。
医師国家試験の受験において困難(問題文を読めない)があった。
別の困難(起きれない、学校へ行けない)で通院していたことで
ついていた「発達障害」という診断名を使って、
当日の受験方式に配慮をしてもらった。
事実にしたらそれだけ。
そこに付加された感情や考えが重たすぎて触れられず、事実だけを書いた。事実だけなら書けたから。
重たい "付加された感情や考え" を、できるだけ端的に表現すると以下の4点になりそうだ。
①
凸凹人が本人の人生で身につけてきた工夫を(本番で)使うのに、申請と承認が必要なのは歪だ。さらにそこに「医療」が噛まなくてはならないのはなぜか?そんな必要はない世界になってほしい。
②
凸凹スペクトラムの中で、たまたま「医療」に繋がろうと思い立った人だけが "配慮" を受けられるのは変だ。
だが、(公平性のために?)全人口にスクリーニングテストをするのはもっと歪だ。弱みを探して障害者になろうとするより、強みを活かして生きていける人が増えたらいいと思っているのに、どうしてこういう考え方をしてしまうのだろう。
③
私は間違いなく「発達障害」スペクトラムの中では困難が軽い側の人だ。診断名による配慮は、もっと困難が強い人が生きやすくなるためのものだろうに、私なんかが恩恵を受けていいのだろうか。
困難の軽い私が「発達障害」カードを時々使って生きていることで、困難が強い人への風当たりが強くなってしまわないだろうか。
④
「グレーゾーン」という概念が広がって、カジュアルな自己診断も広がって、「HSP」のような非疾患的概念も広がって、
どんどん困難が軽い側の人に「障害/特性/症状」という名乗りが広がってきているように感じる。
弱い部分をアピールして配慮してもらうことこそが生存戦略になってしまったら、それこそディストピアだ。
"自分が生きる上での困難さを、障害/特性/症状 として語ること" に興味がない人が「配慮提供者」に抜擢されてしまい、皺寄せがいっていないか。
ここまで書いて、どっと疲れてしまった。
健常の仮面を被りきれなかった自分 を残念に思っているのだろうか。
こういうときこそSNSから距離を置いたほうがいいのかもしれない。
しばらくのんびりする。
(追記)
振り返ったら前にも似たようなテーマで書いていた。
ここから10ヶ月近く、いろんな経験をした。
"困難が強い人" とも関わった。
"高機能だけれど、特性が強くて悩んでいそうな人" とも関わった。
自分自身のプライドとも、彼らのプライドとも向き合おうとした。
でも引っかかってる場所は、あんまり変わらないのかもしれない。
より多くの人と関わってみたことで、「みんな強みがあるから、強みを活かしあって生きていけたら、それでハッピーじゃん!」と単純に言いきることはできなくなってしまった。
もう一周まわったら、むしろあっけらかんと「強みを活かしあって生きていこーよ!」って言ってしまえるのだろうか。