良い鬼、悪い鬼と、良い福、悪い福。
本日、2月2日、節分。
特に意識はしてなかったけど、我が家では一応節分の風習はあったなあ。
多分だけど知り合いの魚屋さんで買って来た恵方巻を、恵方の方を向いて黙って食べていた。家で豆まきもやっていたけど思春期くらいからはやらなくなって、気付いたら母だけがやってた(私は実は後から部屋の隅とかから豆が出てくるの嫌だった)。
鬼は、そと。
福は、うち。
母は、私に買ってくれた岩崎ちひろさんの「おにたぼうし」を読んでからは、
良い鬼は、うち。
悪い鬼は、そと。
良い福は、うち。
悪い福は、うち。
と、頑なにそういって豆を撒いてた。
「おにたのぼうし」に出てくる小鬼のおにたは心優しくて、まさに「良い鬼」なのに、鬼に生まれただけで降り注ぐ偏見に悩み、それでも人間に近づき仲良くしようとするけど、結局その人間の「鬼」への偏見や、悪意なく放たれた偏見のこもった一言によって傷つけられてしまって、結局は姿を消してしまう。私も幼いながらに読んでもらってすごく切なくなったのを覚えているし、現に今書きながら悲しくないる。おにたはうちに来たら良いのにねって母と話したし、その頃は本気で思ってた。
偏見によって形取られただけの「悪」である鬼を、無邪気な一言で深く傷つけることができる人間の残酷さを感じたし、大人になって思い返してみるととても社会的メッセージの強い絵本だったなって痛感する。大人になった今だからもう一度読みたいって思ったし、ハッとさせられることも多いと思う。
もちろん、現実に昔話に出てくるような「鬼」はいないし、節分や豆まきにイチャモンをつけるわけではないのだが(笑)。
でもやっぱり、鬼は、そと。福は、うち。というのを聞くと未だにどうしても絵本に出てくるおにたや母の独特な豆まきの言い回しが頭をよぎってしまう。
自分発信の行事ではなかったといえ、実家を出ても、なんとなく節分だとかの風習は意識してしまって、なんだかんだ今日も一人でむしゃむしゃと恵方巻きを食べていた。
去年は吉田山荘の恵方巻きを食べていたけど、今年は泊まり込みで会社の研修に来ているので近くのコンビニで買った恵方巻き。と、なんか知らんけど一緒に食べたくなったコロッケ。
日本は1年の中に色んな習わしがあるけど、その都度自分や周りの健康や安全、中には商売繁盛とか、それぞれ願いを込めて行う行事って単なる儀式的な意味合いだけじゃなくて、気持ちの面でも引き締まったり、また家族とか周りにいる人たちとの繋がりが深くなったり、思い出になったりするからたとえ毎年同じようにできなくても、やったり、または思い出したり、その時々にあった方法でしていっても良いんじゃないかと私は思う。
コンビニの恵方巻きでも良いじゃない。
一人で黙って食べたって良いじゃない。
昔の節分の色んな思い出に浸りながら、明日と、明後日と、できれば明々後日くらいまでの分の幸せを願って。
今年は豆は撒いてないけど、夜食に大好きな八海山の甘酒と、スーパーで買った塩豆大福を食べてもう少し作業がんばろうと思う。これが私の今年の節分の過ごし方。
良い鬼も、悪い鬼も。
良い福も、悪い福も。
うちにはみんな入って来たって良いさ。
ちなみにトップの写真は私の大好きな大原の三千院の子地蔵さま。私史上最高癒し地蔵とされるお方がこちらです。