教会報より「こどもおぢばがえりの思い出 」
こどもおぢばがえりの思い出
教養掛を勤めておられる会長さんが、教会報の編集を手伝ってくださるというので、原稿が足りないところをどうしようかと、相談を持ちかけたら、
「こどもおぢばがえりの思い出をお前が書け」
と簡単におっしゃる。
「結局俺が書くんだったら、いったい何を手伝ってくれるのか」
と言い返そうになったが、幾ら兄でも、理の親の言葉。素直にハイと答えてはみたもの、昨日の夕食ですらなかなか思い出せないのに……。
そう言えば、先日、某分教会の娘さんに、小学校でも中学校でも、先輩になるんだと、バカみたいな自慢をしていて(……教会が同じ校区内あるのであたりまえであるが)、「小学校の頃、こどもおぢばがえりが近づいていたら広吉の奥さんが毎日校門の前でこどもおぢばがえりのお誘いをしてたよね」と言うと「お母さん、今も続けてますよ!」
思わずすごい!と声を上げました。
決しては無理矢理原稿を書くようにと言われたことへの腹いせに過剰な期待を会長さんに寄せている訳ではありません。……はい。頑張ってこどもおぢばがえりの思い出を頑張って思い出そうと努力しているのです。ただ物心のつかないころから、当たり前のように毎年、父や母に連れられていたので、どうも一つ一つの思い出が繋がっていきません。歓声をあげたプールサイド行事や子供ミュージカルも、教区のサンバやスリラー館も、銅賞ばっかりだった鼓笛隊も、ウォークラリーも先生のお話も、一瞬、一瞬がスライドショーみたいに映っては消えてゆくけれど、言葉にできるほど、それらが繋がってゆかないのです。
ただ、おぢばへ帰らせていくたびに、きっと連帆や生玲や季布や栄生を参拝に連れていったときのように、回廊を走り回ったり、ケンカをしたり、結界の向こうへ入ろうとしてしかられたり……ちょうど梅谷四郎兵衛先生の息子梅次郎さんが、教祖に
「達摩はん、達摩はん。」
と言ったように、父や母を恐縮させるようなことばかりしていたに違いないと想像するのです。
そうして、毎年当たり前のように教祖に御挨拶をして、思い出せないほど多くの場面を心に刻んできたことが、おぢばの学校で学びたいという気持ちへとかわり、今もこうして親里で暮らしている大きな要因になっていったのかもしれません。
でも一つ、決して忘れることのできないこどもおぢばがえりの大きな思い出があります。
それば教区の少年ひのきしん隊に参加させていただいたとき、教祖伝御用場で勤められる朝の学びで、鳴物を勤めさせていただける機会を得たことです。元来あがり症でリズム音痴の私は、緊張のあまり練習では、何度もすりがねを打ち損じで係の先生を心配させました。でも、いざ本番となると、自分でも信じられないくらい落ち着いて勤めることができたことは、子供ながらに大きな驚きで、なんとなく教祖にお会いできたような気がしました。
今年も手柄山分教会では七月三十一日から八月一日にかけて、こどもおぢばがえりに参加させていただくそうです。子供たちに刻まれるであろう、キラキラとした思い出の一瞬、一瞬にも、きっと教祖のぬくもりが映っていことでしょう。