男と女も元号もいらない
先日、北海道の七飯町(函館市の隣)というところでヤジ排除問題の講演をする機会があったので、ホテルの予約などを進めていた。予約のために調べていてわかったのだが、現在は新型コロナの検査を事前に受けて陰性証明を発行してもらうと、国の補助によって宿泊費用などが抑えられる「全国旅行支援」という仕組みがあるそうである。要するにちょっと前の「Go To トラベル」みたいなバカげた企画の最新版である。
バカみたいな企画ではあるが、費用が抑えられるのは望むところなので、せっかくなので制度を利用しようと思った。それで北海道の事業として行っている無料の検査場(民間企業が運営している)に足を運んだところ、地味に不快な出来事に遭遇してしまった。
今回はそのことを書こうと思う。
性別について
抗原検査を受ける際には、自分の名前や住所やその他情報を記入する用紙があったので、まじめに記入した。しかし、そこのスタッフから二つのことについて指摘を受けた。
一つは「性別欄にチェックを入れろ」ということで、もう一つは「生年月日については西暦ではなく、用紙に印字されている通り元号で記入しろ」とのことである。
1つ目の点だが、その用紙のチェック欄には「男性・女性(任意)」と印字してあった。ここで「任意」とあるということは、要するに「書いても書かなくてもどちらでもいいですよ」ということである。「差し支えなければ書いてくださいね」と意訳しても良い。
そして、僕はこうした場面で記入が任意である(あるいは「その他」などの選択肢が用意されている)場合、「男・女」の欄にはチェックを入れないようにしている。
僕自身は、自分に割り振られた性別に特に違和がある人間ではない。しかし、そもそも世の中にあふれる性別欄の記入というものが多くの場合で不要だし、記入しないことが普通になったほうがより良いだろうと思うので、書かなくて済む場合は書かないようにしている。
最近、トランスジェンダー(ノンバイナリー)の友人ができたこともあり、その人のことを考えると、「男なのか、女なのか」という質問が日常の様々な場面で突きつけられる社会というのは非常に暴力的であると感じる気持ちが強まった。もちろん友人にいなければどうでも良いということではないのだが、僕だって人間なので身近な人の存在によって想像力を持って感じられる感覚があるのは否めない。そういえば歌手の宇多田ヒカルも自身のInstagramでの配信中に、ノンバイナリーであることをカムアウトしていた。
決してマジョリティではないとしても、トランスジェンダーやノンバイナリーの当事者は社会の中に存在しているのだ。
また、言うまでもないことだが、性別や性自認がどうあろうともコロナ検査の方法や結果に違いは出ない。だからこその「任意」でもあるのだろう。
それにも関わらず「なんで書かないんですか」と言わんばかりに二人のスタッフから指摘されるのはおかしいのではないかと思った。「これはあくまで『お願い』なんですけどね」と口では言いながら進路を塞いでくる警察の職務質問を連想させるではないか。そう思ってあらためて拒否した。
元号について
お次は元号である。検査場のスタッフは「これは北海道に出す正式な書類なので、元号で書いてください」と、わりと強めの口調で僕に指示してきた。しかし、この説明は端的に誤りなのだ。というのも、この国の行政は確かに和暦表記を基本としているものの、別に西暦で書いた書類が受理されないということはない。元号法ができる際に国が示した公式見解は「国民に記入を強制することはない」というものであり、これが現在に至るまでも踏襲されている。
実際、僕は様々な行政手続きの場面において、あえて西暦を使用するようにしているのだが、それによって「受理できません」と言われたことはただの一度もない。「和暦で書いてもらったほうが…」と小言を言われることはあっても、それによって手続きできないということはないというのが現状なのだ。
そして、重要なこととしては、僕は天皇制に反対しているのである。元号というのは天皇の身体に連動して刻まれる時間によって変更されるものだが、そんなもので自身の生活する時間軸を支配されるというのは気持ち悪い。特に今の元号というのは、そもそも憲法違反の疑いの強い「生前退位」によって生まれたものであると同時に、安倍晋三のナショナリスティックな劣情(「国書を典拠としたい」)が露骨に反映されたものでもあるので、より気色悪い。
だから、現在の元号は僕にとってはほとんど卑語のようなものなので、耳にしたり、目にするだけでも眉をひそめたくなる。その嫌悪感込みで強い拒否感がある。最近は「現代の…」という意味で「◯◯(現在の元号)の…」などという表現をよく見かけるが、勘弁してほしいと思う。
まあ僕のポリシーは抜きにしても、「元号でないと手続きに差し支える」と言わんばかりの発言は、端的に虚偽(ないしは錯誤)なので、そのことで僕も少しカチンと来てしまった。それで書き直しを拒否したのだが、結果として手続きは問題なく進み、すんなりと陰性証明の書類をもらうことができた。手続きできるんだったら最初から言うなよ、と言いたい。
手続きをめぐる非対称性
このように、ちょっとした手続き場面でどういった選択肢を選ぶかということは、多くの人にとっては何らの引っ掛かりを覚えることではない。求められる通りに記入すれば滞りなく済む話であり、それが自身の生活や価値観を脅かすということは通常ない。もっというと、それは悩んだり考えたりすることですらないという意味で「選択肢」ですらない。記入を促す側にとってもおそらくそうなのだろう。そうすると「選択肢にない行動をするな」ということか。
しかし、このような記入欄に違和感のある一部の人間にとっては、喉元に鋭利な問いを突きつけられる事項である。
「お前は男なのか、女なのか?それとも得体の知れないオカマなのか?」
「お前は天皇陛下を仰ぐこの国の秩序に従えない人間なのか?」
質問する側は、もちろんこんな問いを突きつけているつもりなど微塵もない。しかし、質問に引っかかりを覚える側にしてみれば、そうした実存的な問いが頭をよぎり、指の先がこわばる。その瞬間、自己の中に内面化された排他的な社会の眼光が脳裏で鈍く光り、己の挙動を監視するのである。
これは、いちいち引っ掛かりを覚えない側の無邪気さやのんきさとは、非対称的であるといえるだろう。
ところで、このように書いてきた僕自身はこうした「当たり前」にとにかく突っかかって憚らない人間のように映るかもしれないが、実際には必ずしもそうではないのだ。
確かに僕は強いこだわりやポリシーを持っているのは事実だが、しかし一方で「不必要に目立ちたくない」という気持ちを持っている。少なくとも日常生活の手続きや買い物などの場面では、あくまで匿名の、ただのモブとして穏やかに、スムーズに暮らしたいと思っている。だから、たかが役所の手続きごときで「僕は天皇制に反対しているんです」などと「不穏」なことを言いたくない。そして、実際全ての場面においてこうしたポリシーを貫いているともいえない。
「当たり前」を選ばないことで明らかに面倒事や不利なことに巻き込まれることが強く予想されるような時に、あえてリスクのある選択肢を取る必要は必ずしもないと考えている。そのような場面では、無難と思われる記号を平然と書き込み、床に横たわるイエス・キリストの絵を、目をつむりながらそっと踏めばよいだろう。踏み絵のイエスだってそんなことにいちいち目くじらを立てないはずだ。そのことも、またある程度はしょうがない。
しかし、そうは言っても人間にはプライドというものがあるのだ。やりたくないこと、やらないで済むことはなるべくやりたくない。なにか納得できない仕組みに従いながらも、そうではない別のあり方を想像し続けることの中に、人間としての尊厳が息づいているともいえる。
苦情も言う
そして、今回の件はやはり納得いかなかったので、旅から帰ってきてから北海道のコロナ対策事務局あてに電話し、意見と要望を伝えた。対応してくれた担当者も、僕が電話口で力説したせいか、意見には納得していた様子で「しっかりと上に伝えます」と言ってくれたので話は終わった。もちろん、それがどれだけの重みを持って伝えられるのかは知らないが、僕の立場でそこまでコントロールできるものでもないので、それで納得した。
ちなみに、こういう場面では電話口の相手にもリスペクトを持って接することが原則であることは言うまでもない。
いちいち「細かいこと」に引っかかりを覚えてしまうので、ただ生きることに関わるコストが人一倍かかっているような気もするが、しかし大まかにはそのようなことを意識しないでは生きられない質(たち)なので、これからもそのようにしてやっていくしかないなと思った。だるい。
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