ゴールデンカムイの「非・政治性」について
(2018年11月に自分のFacebookに投稿した内容を、ほぼそのままこちらにも転載してみる。時制が古いとしたら、その名残である)
ゴールデンカムイを手に取る
よく、近所のそば屋で食事をすることがあるのだけど、そこに漫画が沢山置いてあるので、行くたびに手にとって読んだりしている。ここ半年ぐらいは、小学生ぐらいのときによく読んでいた「るろうに剣心」(和月伸宏)を読み返していたのだけど、それを一通り読み終わってしまって、「さて何を読もうかな」と思っていたところで、「ゴールデンカムイ」(野田サトル)が目についたので、試しに読んでみることにした。
この物語は明治期の北海道が舞台の漫画で、日露戦争帰りの無敵の元軍人・杉元と、アイヌの少女アシリパたちが、ある囚人がどこかに隠した金塊を探す旅に出る、という話。それで、そのような物語なだけに、アイヌの文化とか北海道の地理とか、個々の地域の歴史的要素(たとえば小樽のニシン漁とか)がわりと取り上げられていて、なかなかに興味深い。
参考文献や取材先などを見ても、アイヌの文化などについて、かなり入念に調べて描いていることがわかる。特に食文化に関しては、狩りや調理の様子などがリアルで、そこだけでもグルメ漫画のようにも楽しめる。もちろん、アクションというか、冒険ものの漫画としてもスリリング(けっこうバイオレンス)であるし、コメディ的な要素もあり、なかなか面白い。
政治的メッセージの不在
それで、そば屋で読むには飽き足らず、ゲオでまとめてレンタルして読んでみた。しかし、読み進めているうちに、なんとなく違和感が心の中に芽生えてきた。その違和感というのは端的にいうと、「この漫画には政治性がない」ということである。さんざん取り上げられている文化が、政治や社会に結びつかないで、ただ冒険活劇の背景になっていることの、その不自然さが気になってくるのである。「メッセージ性がない」という言い方もできる。
こういうことを書くと、「エンタメなんだからそんなもんだろう」と言われるかもしれない。もちろん、「政治的なメッセージがないから駄作である」という風には僕も別に思わない。しかし、この漫画の不自然さは独特である。それは、単に「非政治的」というだけではなく、社会的・歴史的な事実に基づくディテールを散りばめながら、同時に登場人物の誰もが、政治(的意識)に向かわないように絶妙にコントロールされているような印象すら受けるものなのである。
ちなみに、上に名前を挙げた「るろうに剣心」も、「ゴールデンカムイ」と同様に明治時代を舞台にした漫画である(細かい話をすると、前者は明治維新から間もない明治10年前後を舞台にしているが、後者は明治38年に起こった日露戦争後が舞台なので、時代でいえば30~40年近く開きはあるのだが)。
「るろうに剣心」では、明治維新後を生きる人々が、幕末以降の政治に翻弄され、その欺瞞に憤ったり葛藤する様子が、リアルに描かれている。そこでは、明治政府のやり方が、決して素晴らしいものではない(むしろ様々な矛盾を抱えている)という認識が、物語の底に流れている。主人公の剣心にあっても、幕末の混乱期に倒幕派から雇われていた元・人斬り、という設定である。明治維新なるものを成立させるために膨大な数の人間を殺してきた、という過去を持っていながら(というか、そのような過去があるからこそ)、自身を含む社会の矛盾と欺瞞を見つめ、「もう人が殺し合うような世界を望まない」という、彼なりの正義を求め、行動しようとしている。
そして、明治政府を転覆しようとする敵キャラであっても、政府を憎むそれなりの理由があり、むしろそうした「幕末の亡霊」こそが、この物語を駆動させる主要なファクターなのである。
ふつう、物語の登場人物のバックグラウンド(社会背景含む)や内面を掘り下げることは、それぞれのキャラクターに立体感を与え、物語に深みを持たせることにもつながる。しかし、「ゴールデンカムイ」は、(おそらく「非政治性」を保つために)そうした掘り下げがなされず、結果として物語自体の説得力を欠いてしまっているのではないか。そのように感じるのである。
渡る世間は変態ばかり
「ゴールデンカムイ」には、殺人を目的とする変態シリアルキラーのようなキャラがしばしば登場するのだが、しかしその他のキャラに関しても、内面があまり詳らかにならない(あまり踏み込まない)ため、程度の差こそあれ、みな目的の不明瞭な殺し合いに没頭するシリアルキラーのように見える。
個人的に印象深いのは、剥製技師として登場する江戸貝(えどがい)である。彼は、表向きは動物の剥製製作や皮革技師として生活しているが、その裏の顔は、夜な夜な墓をあばいて人間の死体を持ち帰り、それを剥製として保存したり、人間の革をなめしてつなぎ合わせることで、全く新しい(身の毛のよだつような)ファッションを生み出す、変態である。それを通して彼が何を実現したいのかはわからないが、彼の中では重要な製作活動なのであろう(そしてそれを全力で称賛する人物に、彼は自分の製作者生命を賭けて尽くすことになる)。
ところで、「ゴールデンカムイ」の作者がしているのは、この江戸貝の営みと近いものがあるのではないかと思ったりもする。すなわち、切れば血の出るような人間の歴史や文化を、物語を構成するための要素として「なめし」、冒険活劇としてつなぎ合わせ、まだ誰も見たことのない、新しい娯楽物語として提供する、という形の。いささか意地悪な評であるかもしれないが、きつい言い方をすればそういうことなのではないか。
ゴールデンカムイには、エンターテイメントとしてのスリルはあるが、それ以上の人間生活に食い込むようなリアリティがない。
多文化「共殺」時代の歴史エンターテイメント
この作品の「非政治性」について、やはり異様なのではないかと感じるのと同時に、ある意味で現代的なのかもしれない、とも思ったりもする。少数民族の文化を詳細に描くことによって、オリエンタリズム的な視点を挟まない。でも、根本的な植民地主義や帝国主義の問題は正面から語らない。明治政府の悪口もさして言わない。(過剰な)性差別描写もしない。社会的な要素を取り上げつつ、それらを掘り下げないため、思想的な対立が起こらない。あるのは、ただ男たちの純粋な暴力だけ。コンフリクトなき、なめらかな社会の中の多文化共生(共殺?)といったおもむき。
現在、この漫画はアニメが放送されており、北海道の各地でもスタンプラリーのようなイベントが開催されている。関係各所では、「北海道はゴールデンカムイを応援しています」という、やけに主語の大きなポスターが貼られているのを見かけることがある(それは北海道民なのか?北海道庁なのか?和人か?アイヌか?よくわからない)。アイヌの当事者の人からの評判が良いという話も耳にしたりする。それはけっこうなことだが、しかし、「なにか不自然なものを感じないですかね?」ということが言いたいと思ったので、この文章を書いてみた。以上。
(やたら主語の大きい看板)
(ちなみに、なぜそのような「非政治的」な描写になるのかについては、「るろうに剣心」が連載されていた90年代と現代の断絶があるように思うのだけど、そこまで話を展開するとさらに長くなる気がするのでやめておく。それから、るろ剣に関しては、僕が子供のころに読んで親しんでいた漫画なので、そもそも評価が甘い可能性がある。あと、最近連載しているとかいう「北海道編」については、全く目を通してないので言及しない。さらに付け加えると、少し前に作者が捕まった話も、特に擁護する気はないが、90年代に連載していた本編とも関係ないと思うので、言及しない)
追記①(2018年11月26日)
この文章について書かれた感想をいくつか目にしたが、それについて何点か補足を書く。
まず、「政治(性)とはなにか」ということ。もちろん、言うまでもないことだが、「政治(性)」というのは、多様な意味を持つ言葉であり、厳密な意味で「政治性がない」物事というのは、存在しないだろうということは、僕も思う。一見「政治的」でないものも含めて、そこには政治がある、ということは指摘できる。
その上で、僕がこの文章の中で「政治(性)」という言葉に含ませている意味は、「異なる立場や意見などを持つものたちが、そうした違いに基づいて、対立したり、意見を交わしたり、交渉や妥協をする」といったもの。言うなれば「コンフリクト」というものと、ニアリーイコールである。そのことを明示(定義)していないという意味で、この論考には瑕疵があるかもしれないが、「全体の論旨として、まぁわかるでしょ」という気持ちもなくはない。
それから別件。「アイヌの狩猟や食文化への参加を通して、和人との異文化交流が描かれることに、この作品の政治性とメッセージがあるのは明らか」といった意見を目にしたのだが、しかし本当にそうなのだろうか。
杉元をはじめとする登場人物は、当時、日本政府から「旧土人」と呼ばれていたアイヌの人々に対して、偏見に基づいた意見をほとんど全く提示しない。食に関していえば、杉元が動物の脳みそを食べることに躊躇する場面こそあれ、それが優劣の価値判断に結びついていない(せいぜい好みの問題として拒否している以上のものではない)。
それは、確かに一つの「政治性」「メッセージ」ではあるだろうが、しかし明治時代の和人(あるいはアイヌ)というのは、そんなに物分りの良い存在だったのだろうか。なんらの価値的対立も起こらず、スムーズにアイヌ文化に触れていく彼らの姿に、やはりコンフリクトを回避する現代的な(別の言い方をすれば、ポリティカリー・コレクト的な)視点が投影されているように感じる。物語中の、実にスムーズなアイヌと和人の交流は、まるで和人と「和人政府」によるアイヌ差別がなかったかのような印象すら与えるもので、その意味でも「不自然/異様である」という僕の感想は変わらない。
実際、この漫画を「アイヌ差別などなかった」と吹聴するネトウヨ/歴史修正主義者が読んだとしても、さほど大きな引っ掛かりもなく読むことができるのではないだろうか。もちろん、アイヌへの無知と偏見に基づく描写によって、差別を助長するような作品に比べれば、100億倍マシであることには異論はない。実際、アイヌ文化へ親しむ間口を広げ、理解や共感を呼ぶという意義は間違いなくあるだろう。しかし、その上で「これで良かったんですかね」という疑念はなおも残る。
追記② (2019年8月19日)
もう一つ追記。物語の最近の展開の中で、樺太(サハリン)に渡ってからの内容について。北方少数民族出身のキロランケの背景などが明らかになるにつれて、当時のロシアにおける革命運動の話がやたらと出てくるようになってきている。これについて、「登場人物の社会的背景が彼らの行動を規定しているという意味で、政治的な描写といえるのでは」という意見が出るだろう。それは確かに僕の論考への反証になると思われる。これについては基本的に同意するのだが、しかし、僕が同時に思うのは以下のようなことだ。すなわち「『外国』の話になった途端に、政治的な描写が解禁されてないですか?」ということである。
(もちろん当時の南樺太は、日本が統治していたものの)話の流れの中で、「ロシアの話」になった途端に、社会主義運動や少数民族の革命運動の話が次々に出てくる。それが逆に不自然なようにも思える。この漫画の「巧妙さ」はこうした点にある。つまり、一見しただけでは、この漫画が「隠している」ものがわからないように作られている。しかし、よくよく見てみると、何かが周到に避けられているのがわかる。その意味で、この樺太編を踏まえても僕のこの漫画に対しての印象は、大枠では変わらない。
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