なぜなぜなぜ5回の終焉
年功序列
いまだに、年功序列は日本社会に根強く残っている。年上の人を敬えというなんとなくある空気。年上の人たちは自分たちもそうやって来たのだからと思っているのかもしれない。年下の人は重苦しいと思っているのだろう。
トヨタ自動車が起源の習慣ともいわれる問題が起こったら「なぜなぜなぜと5回掘り下げろ」という思考法がある。間違ってはいない。年上の人ほど、こういう思考に慣れていて、使い手だ。若い人はあまり好まない。若い人が好まないのは、結局、誰かが原因を作ったとされてしまうことが嫌だからだ。さらされる感覚なのだろうか。
人ではなく事象を
トヨタの社内指導要綱には、問題という事象を掘り下げるのであって、誰が原因を作ったのかを突き止めるのではないと、明記されているそうだ。しかし、どうしても、原因を作った人をとがめる雰囲気になりがちだという。
日本社会ではいまだに、原因を突き詰める思考で育ってきた年上の人の意見が通りがちだ。間違ってはいないかもしれない。しかし、それでいいのだろうかと思うところがある。
原因を突き詰めるのを好まない人たち、例えば、若い人、たとえば、女性、たとえば外国育ちだった人。彼らの意見が通りにくくなってしまう。かれらも問題を放置したいわけではない。誰かに責任を帰するのを好まないのだ。年上の人たちの意見が通ってしまうと、組織の創造的で、上下関係に縛られない面が出にくいのではないかと思う。
アメリカ人は年齢や立場の上下に関係なく、ファーストネームで呼び合い、友達のように付き合う。この文化には、率直な関係から生まれる気楽で、はつらつとした雰囲気を生み出す良い面がある。もちろん、良い面だけではないし、アメリカの中でも、上下関係をきっちりする人たちもいる。
人を責めない
原因を突き詰めているのだから、良いのではなかという考えもある。経験ある人の意見が通るのだから年功序列には意味があるということにもつながる。
問題を起こさないように、緊張感をもって仕事をするのが当然だということもしかりと思う。昨今の、ストレスを嫌う風潮が必ずしも良いとは言えない面もあるのだろう。
しかし、原因を突き詰めるよりも、誰かに責任が行かない思考を重んじることにも価値があるのではないか。モノづくりの場合、問題は事故にもつながり、責任の重さが違うという面もあるだろう。そうであっても、人を責めないことの価値は、とても大きいのではないかと思う。トヨタ自動車の指導書にも人ではなく現象をみるようにとあるように。
時代は変わり、社会は進化する
年上の人たちもだんだん少数派に追いやられ、社会は変わっていくだろう。現象に重きを置き、人を責めない社会は、未来につながる進化形ではないだろうか。
職責の上下ならまだしも、年齢で戒律を作ってしまうのは、既得権益の確保から来るものだと思う。既得権益の呪縛から逃れることは組織が抱える根源的な課題と思う。組織とは、広くは、国家、宅区席のこともあるだろう、会社、学校、部活、コミュニティー、多くのものがある。人があるところ組織の問題は付きまとう。その多くは、長幼、上下の関係を上の者の既得権益にしてしまうところから生じるように思う。