同調圧力を打ち破る
同調圧力
同調圧力というのは旗色が悪い言葉ではないだろうか。同じ方向に向くように圧力をかけるというような意味合いに取られることが多い。しかし、気持ちを合わせたり1つの方向に向かっていったりすることは大事なことでもある。
確かに、語感として、調整というのは、作為的な感じするし、圧力というのは、本当はそうしたくないのに、そうさせられているという意味にとれるだろう。表現を変えてみてはどうだろうか。
同ではなく似や近。同じでなはくて、似ているや、近いにしてみる。
調ではなく、伴や沿。調は調整するという印象がつくので、伴うや、沿う
圧ではなく、助や与。圧迫するのではなく、助けたり、与(くみ)したりする。
力ではなく、自や流。力ずくではなく、自然にや、流れるように。
適当に言葉をつなぐと、近伴助流や似沿与自。なじみがない言葉であるが意味合いは良いように思う。
近伴助流(きんばんじょりゅう)。近しい考えの人が伴って、助け合って流れてまいりましょう。
似沿与自(じえんよじ)。似た考えの人は道に沿って与(くみ)していくのが自然。
人はみんな違う中、なんとか同じ方向を向いていこうと意味の言葉を作ってはどうか。近伴助流。似沿与自。
近いというのは、同じとは少し違う。人の考えについて同じというのはなかなかあることではない。せいぜい近いという程度だ。近いというのはむしろ、違いがあるということだ。同調せよなんて言われたら気分が良くない。
圧力をかけるのはなく、お互いの違いを尊重しながら寄り添っていきましょう。こうい意味合いが良いと思う。
政党、ディベイト、弁証法
政党というのがあって、1つになるとか、ならないとかでよくもめる。政策について全く同じ考えの人が集まるなんてことはない。みんな考えは違う。政党制度がシステムとしていきつくと二大政党制になる。世の中のことを2つの意見で整理しきれるなんてことはあるわけがない。2つが議論がしやすいので、2つにしてしまおうという荒っぽい仕組みだ。
西洋にはDebateという議論のための方法論がある。どう思うか、どう考えるかは関係なくて、賛成と反対で議論するというある意味、本質をついた方法論だ。
弁証法という考え方が元になっているのかもしれない。弁証法は正と反があって、議論すると合になるという。この合を西洋ではアウフヘーベンというとても響きの良い言葉で言う。合が良いかどうかはわからないにもかからわず、世の中のことはすべて正、反、合だとしてしまう。アウフヘーベンという格調高い響きに騙されていないだろうか。
政党の例を続けると、同じ政党の中で似た者同士で、正だ反だとやるのもおかしいし、2大政党が対立して、正だ反だともめるのもおかしい。正も反もどちらも必要かもしれない。強引に2つに分けて議論するというのは発想法としては意味があっても人情、世情には合わない。
同調圧力に話を戻すと、調整して真ん中あたりにするというのは何の根拠もないことだ。やってはいけないことと言ってもいいかもしれない。アウフヘーベンもそうは言っていない。正と反から、思いもよらなかった合が出てくることに意味があるとしている。正と反の真ん中あたりに正解があるという思い込みはきっと社会を悪くしてきたと思う。
とある正の立場からみたら反に見える一派がいて、反と正でもめたとする。しかし、正解は、もっとずっと反の先に超反があってそれかもしれない。議論の結果、超反と正の間を結論にするのも良いとは限らない。超反が正解に一番近いということもある。
デジタル庁とアナログ庁
2020年の秋の時事でいうとデジタル庁という言葉が出てきた。対極に振ったアナログ庁が大事ということはないだろうか。そんなことはあり得ないと言えるだろうか。
レコードの後、CDが出てきた。一部のマニアが、レコードを愛し続けて50年が経った。いまやCDさえ出回らなくなった。音楽はデジタル化されてしまった。本来なめらかで分解することも数値化することも極めて難しい音をデジタルにしてしまった。
レコードはノイズが入るし、振動に弱い。保管も大変だった。しかし、CDが切り落とした20khz以上の耳には聞こえない周波数が人間の体調に影響を与えている可能性も説かれている。森林には20khz以上の音があふれているとか(ハイパーソニックエフェクト。大橋力、本田学他)。
言葉をやりとりするためには20khz以上の周波数は不要だ。デジタル音源は、音の多様な側面を言葉のようにとらえているとも言える。あの楽器の音が良いとか悪いとか、つやがあるとか、ないとか、そういうことだけがわかればいいとしてしまった。言葉にできることの外側には言葉の世界よりも広大な言葉にできない世界があるのではないか。
年を取るということは中間を取らない訓練
年を取って、話の場で、いろいろな意見が出てくる中、真ん中あたりにもっていこうとするのは悪い思考の型だと思う。年を取るということは、良い型を身に付けていくということではないだろうか。視力も聴力も衰える。衰えるから、目や耳に頼らない、広い感覚を持てるようになるということではないだろうか。
年を取ったら、若いときには感じられなかったものを感じられなくてはいけない。そのために、若いころのような強引なことができないように体が弱くなっていくのだ。死ぬ直前が一番本質に近づいているのではないだろうか。余計なことをする力が残っていないから本質だけになると思う。
年を取るということは本当に真剣勝負。若い奴に取って代わらわれる、取って食われてしまうのだから。そうならないように、必死に生き延びる。衰えた体で、本質だけに集中して生きていくということだ。そうすることが良い型を身に付けるということだろう。
いろんな意見のあたりさわりのない所に誘導していくというのは、まさに取って変わられる行為だ。自分から首を差し出しているようなものだ。
同調圧力から始めて、あたりさわりのないことを指向しないことを説いた。私にはこれが生きることの本質ではないかと感じられる。