運命の猫との出会いはプライスレス 値札は付いているはずがない


世界は、変わる。

日々生活をしていると気づけないほど徐々に。でも振り返ってみると、結構劇的に変わっていたりするものだ。
「あの頃は、あんなことが当たり前だったけど、今ではちょっと考えられないな」ということは、意外とある。
例えば、喫煙マナーとか、体罰とか、個人情報の扱いとか……。ほんの二十年くらい前と今とではまったく変わっている。
大人を何十年かやると、そのことに気づける。そう、世界は案外変わるし、変えられるのだ。いい方向にはもちろん、残念ながら悪い方向にも、だけれど。

さっきぼんやり観ていたテレビ番組で、猫を飼いたいタレントがペットショップに行く、というシーンが映し出された。こんなとき、少し暗澹とした気持ちになる。「まだ、ここか……」と思う。
誰かが「家族として家に猫を迎えたい」と思ったとき、第一の選択肢として、テレビが今なお「ペットショップに行くこと」としている現実。これを観た「いずれ猫を飼いたい」と考えている人たちが、どう動くのかを想像してしまう。
その裏で行き場がなくて殺処分されてしまう猫がまだたくさんいる、という矛盾。本当に「ぐんにゃり」する。

これまで三十六匹(数えてみた)の猫を飼ったり、保護したり、里親に出したり、看取ったり……と関わってきた者として言わしてもらえれば、愛おしく思えない猫なんて、一匹もいなかった。毛色も柄も性別も年齢も猫種もまったく関係がない。一匹の例外もなく、三十六連続愛おしい、なんてちょっとすごい。もう確率を超えた「何か」があるとしか思えない。

そんな経験則から僕なりに導き出した答えは「猫は猫であるだけで愛おしい」だ。(ちなみに僕自身はペットショップから猫を迎えたことはないし、実は保護団体から迎えたこともない。みんな、たまたま出会って保護した猫だから、この経験則には重大な瑕疵がある気もするけれど気にしないで)

どの猫も等しく愛おしいのであれば「生体販売によって、ともすれば不幸な猫を増やしかねないペットショップ」よりも「純粋に幸せな猫が増える保護団体」から迎えるほうがずっとすてきで、かっこいい。

たぶん、今はまだ「保護団体から里親として猫を迎える」という選択肢が知られていないだけなのだ。
いつか(というほどは遠くない将来)「あの頃は、ペットショップに値札の付いた子猫を『買いに行く』のが当たり前だったけど、今ではちょっと考えられないな」という世界に変わっていると思う。

変えようよ、と思うので、こんな短歌や文章を書いている。

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仁尾智(におさとる)
そんなそんな。