寿命と範囲
2023.02.07
ちゃっちゃは、今のところおだやか。
きょう観た映画
きょうは、予定通り「猫たちのアパートメント」を観に本厚木へ。
映画の内容は「国が違っても、地域猫の活動やその悩みなんかは割と似通っているもので、猫に翻弄されながら誰もができることを、できる範囲でやっているのだな」という感想。出てくる猫たちが、外猫なのに、とてもつやつやしてて健康状態がよさそうで、地域猫としてとてもよく面倒見られているのだろうな、ということがよくわかった。だから、外猫は過酷だ、みたいな悲壮感はあまりなくて、どちらかと言えば人間側のてんやわんやをメインに描かれていた。
あと、もうこれは全く同じだと思うんだけど、みんないろんな理屈をつけたり、理由を探したりするけれど、我が家も含めて、要するに「ほうっておけない」だけなのだ。
きょう作った短歌
この「お疲れさまでした」は、読む人によっては飼い主への言葉として、別の人には猫への言葉として取れるようにあえてぼんやりさせている。どちらにも「お疲れさまでした」という気持ちなので。
それとは別に「短歌の寿命」みたいなことを考えた。
例えば、この短歌、SNSの「いいね」というシステム(?)が廃れたら途端に意味がわからなくなる。15年後には「??」となる可能性が高い。
そういうのはたくさんあってCMのコピーを踏まえている短歌とかは、すでにもう寿命を終えているものもある。
《なんだっていいから自信が持ちたくて毛糸洗いをアクロンでする》
『ショートソング』(枡野浩一)に引用されたのはこの一首だけなんだけど、アクロンのCMソングがすでに放映されていない今となっては、ほぼ寿命を終えていると言っていい。CMを知らない人にも意味は通じるけれど、作者(僕)が意図するところとは、全然違う受け取られかたをする、ということになる。
《ミルキーはママの味すら知らないで鳴いてた猫に名付けた名前》
これも「ミルキーはママの味♪」というCMソングを踏まえた短歌なんだけど、もうそのCMはやってないのだろうか。
ミルキーのパッケージにコピーとして残っているかもしれないから、ギリギリセーフだろうか。
そういう時間的な「寿命」とは別に、どこまで届かせるか、という空間的な(?)「範囲」みたいなことも無意識的に限定しているように思う。
極端な例だと日本語でしか書いていないので、「日本語がわかる人」に範囲を限定している、とか。
そんなそんな。